∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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A-2>「名古屋市守山区中志段味天白元屋敷遺跡」について

2014-12-17 17:00:17 | A-2 >桓武平氏水野氏
 この度、水野氏史研究会会員で、「志段味の自然と歴史に親しむ会」世話人の高木傭太郎(愛知東邦大学非常勤講師)氏から、水野氏史の研究にも深く関連する貴重な情報をお寄せ頂き、拡散を望まれております。    志段味地区を支配した水野一族は東谷山東、瀬戸の水野村(愛知県瀬戸市)の豪族であり、桓武天皇の孫高望王の三男鎮守府将軍平良兼の末裔と云われています。志段味に最初に城を築いたのは水野小(又)太郎良春 . . . 本文を読む

A-2 >水野城跡の追記

2005-11-17 03:58:09 | A-2 >桓武平氏水野氏
その後、水野城跡について、筆者の持説である「一色山頂・水野城跡」を検証するため、現地を先生に検分していただいた。まず山麓にある磯村家が先生の著書に出てくる取材先であったことが新たに判り、中腹の墓所には磯村家の墓が祀られていた。家紋を観ると、小川水野氏の家紋と同様の「抱沢瀉紋(だきおもだかもん)系」であることも判明した。 . . . 本文を読む

A-2 >水野城址(民話)

2005-11-05 17:41:18 | A-2 >桓武平氏水野氏
 巷説に曰く、天文三年(1534)、水野城主磯村左近が、感應寺の和尚と囲碁の対戦中に、品野・秋葉城主松平家重と落合城主戸田家光が攻め寄せ、水野城を焼き討ちして引き上げた。敵襲来の急報を摂取したにも係わらず左近は悠々と碁を打ち終わるや、余床の沢(愛知県瀬戸市余床町)まで馬を飛ばし奮戦したが、武運つたなく討ち死にした。 . . . 本文を読む

A-2 >入尾城跡(松原城) 改訂版

2005-10-09 20:16:31 | A-2 >桓武平氏水野氏
 大治四年(1129)、鎮守府将軍 平 良兼の子孫である滝口影貞が入尾に入郷し、姓を水野と改め、水野氏の始祖となった。  保元・平治(1156-59)の乱の頃、景貞が入尾城を築城したと言われ、子の影俊は水野四郎と称し当城に住した。治承・養和・寿永の頃(1177-1184)、影俊の子の高家が志田見・水野郷の郷司職に任ぜられた。 . . . 本文を読む

A-2 >志段味城

2005-05-20 15:19:43 | A-2 >桓武平氏水野氏
志段味城の場所については4つの候補地が有るようだ。まず大久手池西の、野添川上流右岸に広がるなだらかな丘陵地で、今も「まむし注意」と黄色い看板が立つ上志段味ニノ輪がある。ここは地元で庄屋を務めたという家系に「ニノ輪の山上に城があった」と云う伝承があるそうだ。 . . . 本文を読む