∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-2 >海潮山 浄音寺の喚鐘 ≪考証≫

2006-11-16 16:30:37 | B-2 >水野平蔵系



海潮山 浄音寺の喚鐘 ≪考証≫
  岐阜県可児市兼山698  Visit :2006-10-31 10:45

●海潮山 浄音寺
 本尊:阿弥陀如来

[由緒]――可児市から入手した史料より編集
 寺傳によると、「天文九年(1540)二月上旬、とりあえず草卒(*1)に一寺を造立 智安上人を安住せしめ開山とす。天文十三年(1544)、京都知恩院塔頭智安上人を開山とす」とある。
常音寺創設の地は、古城山平右衛門谷の山麓であったといわれ、地元では寺屋敷と呼ばれる旧兼山町役場(*2)の裏付近であり、東西約10m、南北約13mで約130平米の面積を有し、寺院は北面して建てられていたと推定され、奥に向かう南側は一段高くなっており、ここに仏殿が設けられていたと推測されている。その背後には長さ約4m、高さ約3mの豪壮な石積が遺存し、石積手法は荒っぽい野面積(のづらづみ)で、おそらくは兼山最古の石積遺構と考えられている。
 故事によると、天文六年(1537)、斎藤道三は当地に烏峰城(うほうじょう)を築き、猶子(*3)斎藤大納言正義を入城させ、城主となった正義は、天文九年(1540)、城の裏登城口(*2)に草庵を設け、前述の京都知恩院塔頭智安上人を開山に招いたとし、四年後の天文十三年(1544)伽藍等を建立し寺号を浄音寺としたとある。
更に寺傳では、、創建の地は、山麓北斜面の陰湿の場所にあったことから、元龜二年(1571)五月、現在地に移転したと記されている。
当山の規模は、本堂建坪五十五坪(181.5平米)、庫裏五十坪(165平米)、鐘堂一坪(3.3平米)元禄十二年(1699)八月十五日建立。寺宝は烏峰城主斎藤大納言正義画像一幅(*4)。同正義の寶篋印搭一基が現存。
元禄十五年(1702)、第九代住持法譽が、第三代水野平蔵政義に喚鐘を新鋳させる。


[註]
*1=そうそつ。忙しく慌ただしいこと。慌てて事を行うこと。突然なこと。急なこと。
*2=岐阜県可児郡兼山町は、2005年5月岐阜県可児市に編入。
*3=ゆうし。古くは「ゆうじ」とも。親族または他人の子を自分の子としたもの。養子。義子。
*4=斉藤大納言正義画像模写(実物は非公開)
http://www.city.kani.gifu.jp/gakushuu/bunsin/rekimin/uhou/uhou_no_ma.htm
♦追記(2006/11/27):『斎藤氏』横山住雄著(『戦国大名閨閥事典第二巻』に収録)の「斎藤大納言」の項から抜粋すると、「通説によれば、大納言正義は、京都の近衛関白植家の庶子で、道三の養子となって可児郡の烏峰城(金山城)主にとり立てられたとされている。[中略]ところが、中世の美濃で大納言を名乗った斉藤氏としては、持是院妙椿の孫に当たる大納言妙親があり、さらに道三の養子というのが事実ならば、道三の帰依する日蓮宗の寺を金山城下に建てるべきなのに、妙椿やその養子妙純らが帰依した浄土宗の浄音寺を城下に建てており、同時に天文八年の大納言の画像がのこっている。このように正義は道三の養子というよりは、大納言妙親の家名を引き継いだ人物(持是院家の当主)と考えた方が妥当である。しかし、大納言(法名妙春)の文書が『今枝氏古文書写』に収められており、これらを検討すると、天文六年から道三と連携して[土岐]頼純派の平定作戦を進めていたことがわかるので、道三が大納言を取りたてて、持是院家の名跡を継がせる形で金山城主とし、美濃東部方面の司令官に任じた可能性が強い。[後略]」と著しておられる。




●元禄十五年(1702) 第三代水野平蔵政義作喚鐘 ≪考証≫

[Ⅰ-1].銘文――<白文>
---------------------------------------------------------------------------
夫 鐘 者 集 衆 開 教 説 法 喝
導 之 梵 器 也 故 大 者 掛 鐘
楼 撞 之 小 者 置 殿 端 鳴 之
矣 蓋 大 小 雖 異 其 功 用 一 也
當 寺 従 來 掛 打 版 於 後 門
扣 撃 年 尚 頃 日 破 壊 而 没 音
響 矣 粤 □*1浄 譽  心 尼
者 浄 業 粹 也 曰 我 爲 前 亡 後
滅 之 精 霊 欲 掛 喚 鐘 可 矣
曰 大 幸 善 哉 卒 而 功 成 焉
伏 覬 天 子 萬 才 佛 日
---------------------------------------------------------------------------
増 輝 一 声 長 通 四 住 一 聞 普
出 六 道   銘 曰
打 版 既 敗 喚 鐘 直 成
音 振 上 下 響 徹 八 紘
覚 □*2想 夢 開 癡 闇 情
歓 喜 諸 聖 利 樂 群 萠
 旹 元 禄 十 五 壬午 孟 隻 廿 六 日
 濃 州 可 兒 郡 兼 山 村
 海 潮 山 常 音 寺 第 九 代
         法 譽 謹 書
---------------------------------------------------------------------------
心 月 妙 相 信 女
出 宅 院 住 無 月 照
本 養 春 誓 信 女
深 譽 幽 玄 信 士
元 徳 禅 定 門
大 親 眷 属 七 世 父 母
有 縁 無 縁 一 切 精 □*3
右 爲 同 證 佛 果 也
施 主 兼 山 伊 藤 氏 内 室
    浄 譽  心 尼 敬 白
---------------------------------------------------------------------------
 尾 州 鍋 屋 町
 冶 工  水 野 平 蔵
       藤 原 政 義
---------------------------------------------------------------------------

[銘文注]
・デジタル写真から判読したものに、後日横山住雄氏が判読されたものを追補した。
*1=「冫」偏に草冠の下に「日」。=「有」
*2=「姜」の上が「麦」の上と同じ。=「妄」
*3=「ヨ」の下に「大」。=「霊」。


[Ⅰ-2].銘文――<書下文>/<読下文>
        訓読=横山住雄氏 
        訓点[句読点( 、)、返点(レ 1 2 )]
---------------------------------------------------------------------------
夫鐘者、集レ衆開教説法、喝
(それしょうしゃ)、(しゅうをあつめかいきょうせっぽう)、(かつ)

導之梵器也、故大者掛2鐘
(どうのぼんきなり)、(ゆえにだいは)(しょう-ろうに-かけ)

楼ニ1 撞之、小者置2殿端1 鳴レ之
   (これをつく)、(しょうしゃはでんたんにおき)(これをならす-と)

矣 蓋大小雖レ異 其功用一也
  (けだし)(だいしょうことなるといえども)(そのこうようひとつなり)

當寺従來掛2打版於後門1
(とうじはじゅうらい だはんをこうもんにかけ)

扣撃年尚、頃日破壊而没音
(こうげきすること としひさし)(このごろ はがいして おん-きょうを-)

響矣、粤有2浄譽心尼
(-ぼっ-せりと)、(ここに じゅうよせいしんに-というもの-あり)

者1、浄業粹也、曰、我爲2前亡後
   (じょうぎょうすいなり)、(いわく)、(われ ぜんぼうご-めつのせいれい-のために)

滅之精霊1、欲2レ掛喚鐘1可矣
        (かんしょうをかけほっす)(かなりと)

曰2大幸善哉1、卒而功成焉
(たいこうぜんざい という)――(以下省略)

伏覬、天子萬才、佛日
---------------------------------------------------------------------------
増輝、一声長通、四住一聞、普
出六道、銘曰、
打版既敗、喚鐘直成
音振上下、響徹八紘、
覚妄想夢、開癡闇情、
歓喜諸聖、利樂群萠
 旹 元禄十五壬午孟夏廿六日
 (ときに)

 濃州可兒郡兼山村
 海潮山常音寺第九代
         法譽謹書
---------------------------------------------------------------------------
[第三区・第四区は全文省略]
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[Ⅱ].「.浄音寺喚鐘」についての考察
<資料>
A.第三代水野平蔵政義(水野平蔵藤原正義)
 明暦元年(1655)生
 延宝四年(1676)相続
 宝永五年(1708)隠居
 元文五年(1740)没
B.寺歴では、元禄十五年(1702) 第三代水野平蔵政義作喚鐘と伝わっており、改鋳され たという記録は残っていない。
C.『濃飛両国梵鐘年表』片野温氏編纂
番号:167/西暦:1702/紀元:元禄十五・孟・夏 廿六
  所有者:可児郡兼山村 海潮山浄音寺
  鋳物師:尾張鍋屋町 冶工 水野平蔵 藤原政義
  銘文:浄音寺九世法譽誌
  直径:26.0[cm] /備考:可児郡兼山町
D.『尾張の鋳物師』名古屋市博物館編集
  尾張の鋳物師鋳造資料一覧
   水野平蔵
   資料名:142 喚鐘/年紀(西暦):元禄15(1702)
   鋳物師:水野平蔵政義/所蔵者:可児郡・浄音寺
   現状:現存/典拠:(空白)
E.(1)「中世・可児の鋳物師 長谷川氏とその作品傾向について」(「岐阜県郷土資料 研究協議会会報 第91号、第94号」)横山住雄氏著
(2)「可児郡恵土の鋳物師について」(美濃文化財研究会発行『論文集』1972年)横山住雄氏稿
(3)横山住雄氏による喚鐘の実状検分。
F.当寺以外に現存する水野平蔵政義作「喚鐘」
  岐阜県瑞浪市 増福寺(既投稿):http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/db47de1ae536f13b0fce1e23ed92a7a1
  岐阜県恵那市 普門寺(既投稿):http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/5771fd1947495fd751f23f524f463468
G.当寺喚鐘の写真


<疑問点>
「G」の写真から、喚鐘の形状は、他の水野平蔵政義作喚鐘、並びに歴代水野平蔵作喚鐘の作風と大きく乖離していることにある。
 梵鐘名所:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/f20493f6cf3772ed34078368b0f18b4c
1.「駒の爪」(鐘の裾)の形状については、これまでに採訪した水野平蔵家および本家筋の水野太郎左衛門家など鍋屋町鋳物師の作品は、全て平であり、当寺の波打つような形状のものは散見されない。
2.「乳の間」の「乳の形状」に相違があり、また他の鐘には文様が施されていないが、当鐘には陽鋳された文様がある。龍頭については写真不鮮明のため比較できない。
3.「撞座」の周辺に鋳造後に修復されたような痕跡が残っているが、これは長年の使用による摩耗を修復したものであろうか。
4.「池の間」に陰刻された銘文や作者名などの書風が異なっており、さらには文字の一部が枠に掛かっている。


<解説>
♦「A」の喚鐘の年紀「元禄十五・孟・夏 廿六」は、水野平蔵政義の在職年代から勘案すると、政義四十八歳頃の作品となり、作者名と年代は整合する。
♦「B」は、当寺において口頭で確認したものである。
♦「C」は、岐阜県の郷土史家で、美濃飛騨の梵鐘について長年研究してこられた方で、第二次世界大戦下、鐘の歴史を研究することによって、一つでも多く文化財の価値を軍人に理解して貰い、梵鐘類の供出を免れる事を願い、寒風の吹きすさぶ中、各地で梵鐘の拓本を採って歩かれ、また知人を介して訪問できない地方の梵鐘資料を収集編纂され年表に纏め上げられたものである。片野温氏のご子息で、片野記念館館長の片野知二氏に照会したところ、当寺の喚鐘資料は、温氏ご本人が検分されたものではなく、上述のように知人を介して、当寺から資料を入手したものであることが判明した。
♦「D」の『尾張の鋳物師』は、昭和五十三年(1978)、名古屋市博物館の部門展「尾張の鋳物師」の図録である。他の作品の「典拠」欄には、「C」の略語「濃飛」が記されているが、なぜか当寺の項目欄は「空白」となっている。
♦「E」は、郷土史家で岐阜県郷土資料研究協議会会員ほか各委員を兼務され、また多数の著書があり、濃尾梵鐘等の研究を始めとする濃尾歴史研究家の第一人者である。
「E-1」「中世・可児の鋳物師……」の書き出しに「可児市に鋳物師・長谷川氏が中世に土着し、主として青銅製の仏像・仏具を作り続けていたことは、比較的古くから知られていた。戦前の郷土史家小川栄一氏や片野温氏・佐藤弥太郎氏らによって中世金石文の採録が進められていたからである。……」とあり、当地は元もと長谷川氏という鋳物師の本貫であったが、長谷川氏に関しては十七世紀以降確かな記録はないようである。
「E-2」については、横山住雄氏に「G」の写真と拙草稿を郵送したところ、当寺の喚鐘と併せ、「F」の増福寺および普門寺の喚鐘も実見いただいた。
♦「F」の水野平蔵政義作喚鐘は、既に投稿済みであることから参照されたい。
♦「G」の写真は、筆者が当寺ご住持に許可を得て撮影したものである。


<解明>
1.この喚鐘が水野平蔵政義作であるならば、政義が水野太郎左衛門家以外の鋳物師の影響を受けていたという可能性も考えられる。同時代には「岐阜住 鋳物師 岡本太郎右衛門」「同 岡本金左衛門」なども可児で仕事をしていることが先述の『濃飛両国梵鐘年表』に記載されており、こういった関連も調べてみる必要がありそうではあるが、当ブログの主旨から外れてしまうことから今般は不詳とする。
2.「E」の長谷川氏についても、「1」と同様に、鋳物師水野家に多大な影響を与えたと推測されるが、現在のところ文献が不明であることから、その関連は判明しない。
尚、同著には長谷川氏の作鐘例として、今のところ現存唯一のものと考えられる[岐阜県関市]武芸川町谷口の汾陽寺鐘の梵鐘実測図を示して解説されているが、汾陽寺鐘は水野平蔵作の喚鐘と酷似していることから、当浄音寺喚鐘は、長谷川氏の影響下による作品ではないものと推測される。
3.上述のように、第二次世界大戦で供出された鐘類は相当数あり、当寺の喚鐘と類似したものが存在していた可能性も考えられるが、残念ながら現存しないことから現在比較検討は不可能である。


<終結>
「疑問点」などを素人ながら色々と考察してきたものの、今般は、草稿段階に於いて、梵鐘研究に於いても第一人者である学識経験者の横山住雄氏が、当寺の喚鐘を実見され、“浄音寺元禄半鐘は確かに水野平蔵作のものであると鑑定”された。
尚、この結論に至る以前には、「駒の爪」の形状などから、当初は朝鮮鐘ではなかろうかとも考えられたが、実見後に横山氏から頂いた書状を要約すると――
 「浄音寺元禄の半鐘は、龍頭・乳・袈裟襷(けさだすき)・撞座の単弁八葉蓮華文の何れも和様に矛盾するものではないと思う。袈裟襷が乳の間まで延びていないが、これは模様を入れるためか。また、鐘の裾のみが波状になっているのは奇異であろうが、これは、注文主の要望によるものかと考えている。銘文は筆者送付の草稿では、一部意味不明の箇所があり、実見してきたので別添する」――
と書いておられ、添付書には、筆者が判読不明の文字も明記され、「書下文」の行間に「読下文」をもご記入いただいたことで、前記の「[Ⅰ-2].銘文――<書下文>/<読下文>」として記載できた。
 こういった波状に類する梵鐘としては、実相寺(愛知県西尾市上町下屋敷15)の八葉宝鐸型梵鐘(はちようほうたくがたぼんしょう=愛知県文化財指定)が現存しているが、これは中国風であり当寺のものとは異なった様式である。
実相寺梵鐘:http://www.city.nishio.aichi.jp/kaforuda/30bunka/bunz/bun17.html


水野平蔵家系譜:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/7551e73084352a9a4d23ed9ccc7f9104

<参照>
「梵鐘の歴史と音色について」:http://www.nbk-okamoto.co.jp/yomo/yo020.htm
http://www.nbk-okamoto.co.jp/Profile/greeting.htm


☆旅硯青鷺日記
 最初に寺務所をお訪ねすると、ご住職から本堂に向かうようにとご指示があり、庫裏との境にある渡廊下に案内されました。一目観たとたん「非常に珍しい鐘ですねぇ」と思わず口を吐いて出てしまいました。お話しを伺おうとしたところ、折悪しく檀家の方が数人お越しになり、直ぐ法要が始まるとのことで、ご住職は本堂に向かわれました。その後、昼前の強い日差しのため、日の当たるところと、日影とのコントラストがきつく撮影には難しい状況でしたが、なんとか撮り終えてお寺を辞しました。
 帰宅後、不鮮明な写真を拡大し、陰刻された銘文の判読を始めましたが、能力不足により、情けないことに判読不明の文字が数カ所もあり、その箇所は取りあえず推定で文字を入力することにしました。
 喚鐘の形状が奇妙であり、気にかかったことから、まず最初に片野記念館館長の片野知二氏に写真をお送りしました。次に横山住雄氏に架電したところ、観てみたいので資料を送るようにとのご指示があり、早速草稿とデジタル写真を郵送いたしました。数日後思いがけなく、横山氏から実見してこられたとのお電話が入り、一部意味不明な文字を判読されたので、後から送るとのことでした。二三日後に前述のようなご親切なお手紙をいただきましたので、そのお礼の電話をしましたところ、先生から投稿記事への転用をご快諾いただきました。ご厚意に深謝申し上げます。
 尚、当ブログ用掲示板でいつも温かいご支援を続けてくださっている小嶋日向守信房殿が、以前、先述の「E.(1)(2)」の長谷川氏の情報提供をして下さったことが、今回取材伸展の大いなる切っ掛けとなりました。ここに記して謝意を表します。







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