∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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A-5 >水野千之右衛門

2007-03-03 19:56:50 | A-5>景清系水野氏

                             新川掘削本陣跡東の新川橋から下流を望む



●水野千之右衛門
〇新川開鑿(*1)功労者水野千右衛門
 [生 年]:享保九年(1724)四月二日
 [  名 ]:允(まこと)
 [字・諱]:士惇(しじゅん)。千之右衛門
 [   号  ]:岷山(びんざん)、絗(糸偏に回)齋(こつさい)
 [   諡  ]:清体院忠山日堅
 [没 年]:文政五年(1822)二月十六日、行年八十九歳
 [役 職]:尾張藩士 勘定奉行 普請奉行
 [俸 禄]:三百石
      内牛立村に三十六石六斗八升九合
      烏森村に二十七余石 其他城北地方也
 [業 績]:愛知県庄内川治水事業 新川開削、日光川改修
 [藩 主]:尾張藩第九代徳川宗睦公
 [系 圖]:尾張新居城主水野良春の末裔に正利が居り、徳川家康の第四子清洲城主松平忠吉に仕え清洲に住した。その子正義は、忠吉が世嗣無く家が途絶え、替わって家康九男徳川義直が尾張藩祖として名古屋城に入ったことから義直に仕えた。正義の後はその子正房が嗣ぎ、曾孫の將矩(林太夫)は八代宗勝に仕え禄百石であった。將矩の第三子として千之右衛門が生まれる。宅址は名古屋市中区錦二丁目17、8付近であった。
 [伝 記]:幼くして儒学者磯野渙斎に実学を学び、古法帳を嗜み書を善くした。天性の治水家で既に十四、五歳の時、軒の雨だれの水の流れる状況を見て治水の原理を悟ったといわれる。成人し新たに家を起こし二十一歳で藩の留書役になり、祐筆(書記)となり御番役から後には勘定奉行に昇進。壮年となりいよいよ藩中に重きをなし屋敷を拝領。ここは昔から化物屋敷といって人々が嫌い住まなかったが、千之右衛門は意に介さず拝領し住んでみると一度も化物は出ず妖魔も遂に去ったという。人々は彼の気魄と信念に敬服したと伝わる。

〇庄内川右岸の洪水
 江戸時代以前は、だた広い庄内川が自由勝手に流れて海に注いでおり、流域の村々では年々続いて洪水があり、年に三回も水害を受けては、田畑の流出は無論のこと、家財は破損し収入は困難を極めたことで、村民は離散の外はないといった状況下にあった。
 藩祖義直が尾張藩に移封され名古屋城の完成した直後の慶長十九年(1614)、名古屋城の北から西に流れる庄内川の洪水を防ぐため庄内川の堤防を修理した。この時、城下を護るため、城側の庄内川左岸を対岸の右岸堤よりも大きく強固にし、右岸の堤をやや低くし、洪水の際には右岸を越えて放流させることで左岸にある城下への浸水を防いだ。
この工費については、農民が人夫人足として賃金を多く得たわけではなく、大部分が冥加普請(労役)であった。清洲総庄屋丹羽助左衛門の日記によれば、所々に何村何人と冥加人夫の数を示したものが現存しており、また武士役人が村へ来た時には費用がかかるが、それを村々二三が割勘で出費したという記録も残っている。
この庄内川には城北で東側から矢田川が、北側からは新地蔵川、大山川、中江川、合瀬川などが合流し、さらにはその西側を南北に流れる五条川が下流で合流するという水郷地帯であった。このことから、大雨時には流域一帯は、度重なる庄内川の氾濫による水害のため疲弊していた。慶長十五年(1610)から天明二年(1782)の百七十余年の間に、主なものでも九度にわたり庄内川右岸や五条川両岸が破堤したり大橋が流されたりし、一帯は三メートルから四メートルにも及ぶ浸水に見舞われ甚大な被害を被ってきた。
 この時代に何故洪水が多かったかについては、全国的に山林濫伐が行われたことによる流水量の増大化や、上流から流れてくる土砂が河床を押し上げたことで川底がくなり洪水の原因となったと推察されている。

〇新川開鑿(削)
 この窮地を脱するため、清洲総庄屋で寺野村庄屋でもある丹羽助左衛門義道は、農民の先頭に立って窮状の打開を尾張藩に訴願し続けた。千之右衛門は、村々の人々が哀訴嘆願に来るごとにこれをよく聞き取り、藩主にお取次もし、また奉行元締の人見弥右衛門にもよく策を言上したという。しかしながらこの度重なる訴願の咎により助左衛門は閉居処分を受けた。
 安永八年(1779)、浸水四メールにもおよぶ洪水の惨状を視察した藩主宗睦は、藩が財政危機にあるにも拘わらず、治水に長けた勘定奉行水野千右衛門ら四人に庄内川の治水工事を命じた。千之右衛門の抜擢については元締の人見弥右衛門推薦によると伝わる。
 普請奉行となった千之右衛門は、庄内川右岸の西に沿った新しい川の開鑿を計画した。
しかしながら窮乏する藩財政下にあったことで、敢えて工事費を切り詰め藩主の裁可を得た。さらに財政難による工事中断を免れるため、比良村(名古屋市北区)から伊勢湾までを200か所以上もの工区に分け、天明四年(1784)一斉に着工した。 工区は、大野木村落(名古屋市北区落合町・同西区大野木)の洗堰において庄内川の水脈を断ち、木津川・大山川を合わせ下川原村(愛知県清須市下河原)で五条川と会し下之一色町(名古屋市中川区下之一色町)を経て海に入るまでである。工事の元方本陣は現在の愛知県清須市土器野149-1に設けた。
 着工後、過小な工事積算が発覚し、藩参政人(*2)である人見弥右衛門と普請奉行水野千之右衛門は責を問われ降職・謹慎となったが、藩主の英断により工事は継続され、天明七年(1787)、四十万両(*3)の巨費を投じた新川が完成し、翌天明八年(1788)の大洪水に際しても流域住民は水禍を免れることができた。
受益者は、比良村(名古屋市西区比良)、清洲町・新川町(清須市)、甚目寺町(愛知県海部郡甚目寺町(*4))、大治村(愛知県海部郡大治町)、富田町・戸田郷・下之一色町(名古屋市中川区)南陽町(名古屋市港区)その他。長さは五里十町(約21Km)巾平均百米(100m)弱。

〇千之右衛門の業績
 新川開鑿のほか、天明五年(1785)、萩原、古川の下流、足立川を塞ぎ、新たに日光川に通じ、更に日光川の改修を企てたが、費用不足で成らず職を免ぜられた。しかしこの事業は文化九年(1812)、再興し遂に竣工した。こうして千之右衛門は治水の大業を成功させたが、前述のようにこの事業が藩の財政に多大な支障を来した責任者としして免職させれた。しかしながら謹慎一ヶ月後には許され再び任に付岐阜奉行に挙げられ、後普請奉行に再任され日光川の改修に当たるも、後年仕事半ばで再び職を解かれ小普請頭に降格される。十五年後の文化八年(1811)にこの治水事業が賞せられることとなり、その後は長囲炉裏番の役を仰せ付けられ自由出仕の待遇を受けた。
 千之右衛門は、治水の一大権威であったばかりではなく、当時の化学戦に対しても研鑽を積み、焔硝(硝石・火薬)の製造にも成功し、次いで小鳥銃の製法やその使用法も研究していた。つまり現代でいえば原子爆弾の研究にも匹敵する先端技術者であったことから、まさに非凡な智能と科学的手腕を持っていたことが窺える。八十九歳となり天寿を全うし没した。


〇千之右衛門の禄高変遷
「御普請奉行衆歴代記録」枇杷島住人 庄内川・五条川・新川堤見廻役川口惣七氏の記録

「                       三百石
                         内百五十石御足高
                             水埜千之右衛門
 天明六年(1786)午八月二十九日御勘定奉行元方より岡本惣兵衛跡御普請奉行被仰付
 御足高五十石被下置都合三百石成る
 同年[閏]十月朔日最前被下置候御足高五十石被召上御馬廻組被仰付              」
 [解釈]:勘定奉行から普請奉行に昇進し五十石増禄となったが、新川・日光川経費予算超過の
     ため普請奉行の役を解かれ御馬廻組に降職し増禄分を召し上げられた時の記録。

「                        三百石
                          内百五十石御足高
                             水埜千之右衛門
 寛政四年(1792)子五月四日御国奉行より座席是迄之通に而岩屋平左衛門跡御普請奉行 被仰付
  同八年辰六月二十九日小普請頭被仰付
  かくの如く高禄を受けていたが、その所領は牛立村において三十六石六斗八升九合、
  烏森村において二十七石六斗二升七合、その他城北地方に在り、年々その村庄屋から年貢米を
  納付したものである。                                               」
  [解釈]:一旦岐阜奉行・国奉行に転じた後、普請奉行に再任され日光川の改修に当たるものの、
      翌月仕事半ばで再び職を解かれ小普請頭に転じている


また「烏森村庄屋年貢納組内割符帳」に下記のような文書を見る。

「         目 録 覚
 御二十七石六斗二升七合目
 御掟免 四ツ六厘
 納米十一石二斗一升六合五勺二才
    弘化四年(1847)未極月           烏 森 庄 屋
                                  市 右 ヱ 門
      水野千之右衛門様
      御役人衆様                                  」



[註]
*1=かいさく。土地を切り開いて道路や運河を作ること。開削。
*2=さんせいにん。 江戸幕府の若年寄、大名の用人などの別称。
*3=因みに一両を現在の20万円として計算すると、約八千億円程度の工費となる。
*4=平成二十二年(2010)3月22日、七宝町、美和町、甚目寺町が合併し「あま市」となる。
    愛知県あま市甚目寺











(update 2012.08.04)
●水埜士惇君治水碑(みずのしじゅんくんちすいひ)
  北名古屋市文化財(昭和五十三年(1978)十一月三日指定)
愛知県北名古屋市久地野160-1  新川右岸堤防上 Visit :2007-02-21 10:40

 新川竣工から三十二年後の文政二年(1819)、水野千右衛門の徳を称え、その功績を感謝して沿村の民二十八か村が計って治水碑を比良の堤上に建てた。これは士惇が存命中であったことから定めて感慨深いものであったろうと想見される。更に大正十年(1921)には士惇没後百年祭をその碑前において、県官ならびに関係町村代表者等が多数参列し盛大なる記念式典を挙げた。

説明板から――
 江戸時代、この地域はたびたび洪水による多大な被害を受けていました。
時の尾張藩主宗睦は、勘定奉行水野千之右衛門ら四人に治水工事を命じ、工事は天明四年(1784)に起工され、同七年(1787)に完成しました。
 その間工事に四十万両もの大金が費やされ、予算をはなはだしく超えたため、千之右衛門はその責を問われ普請奉行から馬廻組に降職させられ謹慎処分を受けました。
しかし、新川工事完成の必要性を痛感した千之右衛門は、謹慎中にもかかわらず治水対策などの陳情書を決死の覚悟でしたため藩に訴え出ていました。
この「水埜士惇君治水碑」は、こうした水野千之右衛門の新川工事完成に関わる功績を永く後世に伝えるため、文政二年(1819)に建てられました。
                          北名古屋市教育委員会






 
●新川開削者頌徳碑(しんかわかいさくしゃしょうとくひ)
 愛知県清須市土器野136付近 新川橋橋詰広場(ポケットパーク)内 Visit :2007-02-21 11:10

 新川の開削に尽力した普請奉行水野千之右衛門と清洲総庄屋丹羽義道の功績を称え、新川開削から二百年を経た昭和三十六年(1961)篤志家により建立された。






●新川掘削本陣跡
 愛知県清須市土器野149-1(三菱東京UFJ銀行尾張新川支店) Visit :2007-02-21 11:10










●水野千之右衛門墓所
 愛知県名古屋市千種区平和公園一丁目
法輪寺(愛知県名古屋市東区東桜2丁目16-16)の墓所 Visit :2007-02-13 14:45
[写真]上から墓の正面、右側面 右側面の「水野岷山墓銘」(『愛知懸金石文集』上巻)。(update 2012.08.04)
平和公園墓地配置図:http://heron.at.webry.info/200702/article_2.html





◆参考文献
 『新川町史』第六章 新川開鑿の功労者
 『新川町史』資料編2 第四章 第二節 二 水野千之右衛門 p.278,pp.291-292
 『新川掘割奉行 水野千之右エ門翁傳記』
 『尾張藩社会の総合研究《第二編》』第四章 尾張藩と水野氏
 『愛知懸金石文集』上巻(愛知県教育会/編 1942)pp.485-486 「水野岷山墓銘」

桓武平氏水野系譜:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/777ff67bab506fc94b32ecf3b04681f4
水野籐兵衛忠栄1/2:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/510858514083c8724bfcfd6b4b27d26d
水野籐兵衛忠栄2/2:http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/55bd39306f406eb67288d41ef4b67697



☆旅硯青鷺日記
麗らかな早春の風に誘われて、予てより採訪を目論んでいた水野千之右衛門の縁の地である新川右岸の三か所と墓所を訪れました。各所ともよく整備されていることに安堵しました。


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21 コメント

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平田に228年住む百姓の子孫 (中田 静代)
2010-03-07 12:41:43
平田で生まれ叔父と姪の父母より生まれた。先祖の事を調べています。先祖に得巌鐵船居士1782年没が居る。此の事を調べています。参考になりました。
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歓迎>中田 静代 さん (ヘロン)
2010-03-07 16:29:43
拙ブログをご見読頂きありがとうございました。
名古屋市西区山田町平田に228年も前からご先祖様がお住まいとか。天明二年(1782)と、220年余も前にお亡くなりになったご先祖様のご戒名まで判っておられる由、由緒あるお家柄で羨ましいです。御戒名に「鐵船」とありますが、鉄の船に関するお仕事をなさっておられたのでしょうかね。これからのご研究が進みますよう願っております。
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清須返し 時代絵巻 (清水 健一)
2010-09-27 02:11:20
10月に清須返し時代絵巻で、水野千之右衛門翁をやらせてもらいます。どのような人も知らずに、配役をすることは失礼と思い調べました。大変参考になりました。ありがとうございます。しっかり務めさせていただきます。私自身風貌が似ていないので申し訳ないことですが、何かの縁と思い、がんばります。近々墓所へも足を運びたいと思っています。
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歓迎>清水健一さん (∞ヘロン)
2010-09-27 08:32:45
 本ブログをご覧いただきありがとうございました。
清水さんのコメントで、「清須返し 時代絵巻」の開催を、初めて知りました。日程を調整して、参加したいと考えております。水野千之右衛門翁は、まだまだ知られていない存在ですが、今回の絵巻で多くの方々が認識してくださると嬉しく思います。
ブログ記事の「参考文献」に記載漏れしておりましたが、『新川町史』資料編2 第四章第二節 二 水野千之右衛門 P278 にも詳しく書かれておりますので、ぜひご覧になって下さい。
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清須返し・時代絵巻 (清水 健一)
2010-10-10 22:11:12
本日はわざわざ出発地での激励ありがとうございました。おかげさまで勇気をいただきしっかりと清洲城まで務める事ができました。今回の時代絵巻では、ご指摘のとおり誰かが判らず、沿道からの問い合わせも多かったです。反省ですね。とりあえずお礼まで。
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清水さん (∞ヘロン)
2010-10-10 22:41:08
大役で長時間に渡る行列歩行、誠にお疲れ様でした。m(__)m
初めてお目にかかりましたが、貫禄のある堂々たる水野千之右衛門役で、私のイメージ通りでしたのでとても嬉しく思いました。(^^)
これを機会に、清須でももっと翁の顕彰が為されることを願っております。
また時々、本ブログにお遊びにおいで下さい。
まずは、コメントの御礼まで。

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墓碑銘 (佐々木)
2012-08-01 20:15:07
 京都で水埜士惇の研究をしております。
 樋口好古撰文の墓碑銘の存在を知りました。碑文全文について紹介した文献などご存知であれば、教えていただければと思います。
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佐々木さん (∞ヘロン)
2012-08-02 09:14:31
佐々木さん、ようこそマイブログへ!
 お尋ねの「樋口好古撰文碑文の全文について紹介した文献」は、以下に記されています。

「『新川町史』資料編2 第三編 近世 第四章  水害と治水 第二節 開削の顕彰 36 水埜士惇君治水碑銘(page291--292)」に全文が掲載されています。
清須市ホームページhttp://www.city.kiyosu.aichi.jp/topics_shinkwatyoshi/index2.html
に購入方法が記されていますのでご参照ください。
(※新川町は2005年7月7日、西枇杷島町、清洲町と合併し清須市となった)

 尚 水埜士惇の研究をなさっておられるとのこと、是非とも「水野氏史研究会」にご入会くださいますようお勧め致します。また、今まで記されたご論考などがありましたら、ご教示くださるとありがたいです。
水野氏史研究会http://mizunoclan.exblog.jp/
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感謝 (佐々木)
2012-08-02 09:58:09
 新川町史の方は彼の治水碑の全文でして、このブログの最後の写真の墓の裏側の樋口好古撰文の墓碑銘の方が知りたいのであります。
 研究を続ける中で、日本一長い川を掘った男、水埜士惇は将来の大河の主人公であろうと思いました。
 
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佐々木さん、その2 (∞ヘロン)
2012-08-02 12:36:23
墓の裏側の樋口好古撰文の墓碑銘ですと、先程追掲載しました墓石の写真の右側面の銘ではないかと思われますが、掲載写真をオリジナルサイズで表示する仕方を失念してしまいましたので、小さな写真となっています。裏面と左側面の文字は薄くて判明しませんが、
「右左側面の銘」で良いのなら、改めてメールで写真を送付したいと思います。写真のオリジナルサイズは、1.31MB 2816×2112 です。
必要でしたら、貴メルアドを左欄にある「ブックマーク」の「∞ヘロンへメール」からご送信ください。
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