∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-2 >撫松山 慈光寺

2005-09-03 17:42:37 | B-2 >水野平蔵系

撫松山 慈光寺(ぶしょうざん じこうじ)
    愛知県岡崎市下青野町字柳原10 Visit :2005-09-01 11:30

〇八代 水野平蔵近房 作 雲版
      明和七年(1770)生
      天保八年(1837)没

研究紀要『岡崎市郷土館報/103号』より(一部誤植を修正した)
 「尾張鋳物師水野平蔵近房雲版」/岡崎地方史研究会 幹事 杉浦正明著
 雲版は、鋳銅製で、長径45cm ・短径41.8cmで、吊穴一ヶの雲型の如し。下に撞坐を置き、撞坐下方から左右に蓮華唐草紋を左右に薄く陽鋳している。表面向かって右側に「寛政十戊午天(1798)/二月日」、左側に「三州碧海郡青野郷/撫松山慈光寺/四十六代釋永超/什物也」とし、裏面向かって左に「名古屋冶工/水野平蔵近房」と陰刻している。
水野平蔵家は、江戸時代を通じて尾張藩の鋳物師頭に任じられた水野太郎左衛門から早い時期に分家し、初代は水野兵右衛門勝家と称し延宝五年(1677)に歿している。近房は八代目で明和七年(1770)に生れ天保八年(1837)に歿している。この事から此の雲版は近房二十八歳の頃の作品であることが知れる。
 江戸時代の梵音具は、この第二次世界大戦の時その多くが強制的に供出させられ、残っているものは割合に少なく、この様に作者・制作者・願主のわかるものは今となっては貴重な存在となっている為報告する。


〇慈光寺
 当寺は、聖徳太子の創建と伝えられ、初め慈悲光明寺と名付けられた。その後、天台宗二代目慈覚大師が再建、天台宗の子弟の道場として繁栄し、三河七ヶ寺の一つとなった。第三十一代浄信が、親鸞上人の説教を聞いて真宗念仏の行者となり、浄土真宗念仏道場に改めこの寺の開基となった。また、第四十代住職教寿は、家康と姻戚にあたることから、織田信長の本願寺攻めに参戦し、討ち死にした。この縁で当寺には駿府より賜った木像や東照公廟がある。第四十六代住職釋永超は、寛政十年(1798)二月、名古屋の冶工水野平蔵近房に雲版を鋳させ什器としたが経緯の伝承はない。
 現在の本堂は、寛文十一年(1671)に建立されたもので、岡崎市の文化財に指定されている。山門横にある銀杏は、樹高が12m、根回り6mで樹令約二百年と推定され、これもまた岡崎市の名木に指定されている。


☆旅硯青鷺日記
 採訪時は、門徒衆の寄合があり、ご住職も本堂におられ、本堂に一礼すると降りてこられた。用向きを伝えると直ぐさま本堂奥から雲版を運んでこられ、縁側の明るい場所での撮影を快諾してくださった。その後門徒衆から背を向けて、話しかけられ色々と質問を受けるなど、
互いに情報交換を行った。その中で、ご住職がワープロで整理された寺の事柄のうち、この雲版の記事と写真の横に「『西尾市悉皆(しつかい=一つ残らず全部)調査報告書五社寺文化財(工芸・金石文Ⅱ)報告書 金・木・陶工品』平12 1,500円620」と記載されていたので、了解を得て筆写した。
 帰宅後、岡崎市の物件が、隣の西尾市の「社寺文化財」に指定されているのは腑に落ちないと考え、西尾市教育委員会に問い合わせたところ、同市の尼寺にある雲版が当寺の雲版と酷似していたことで、学芸員が当寺を訪れ参考物件として取材および写真撮影し、その旨を報告書に記載しているとのことであり、やはり同市の「社寺文化財」には指定されていなかったことが判明した。


●update 2015.1.26
当初、当山の名称を「樵松山」と記していたが、コメント欄に某氏から「撫松山」が正しいとのご指摘を受け、修正しました。ご指摘ありがとうございました。


水野平蔵家系図
http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/7551e73084352a9a4d23ed9ccc7f9104









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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-01-26 16:54:57
樵松山 ではなく 撫松山です。
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多謝 (∞ヘロン)
2015-01-26 20:54:14
 この度は、当山の名称の誤りをご指摘頂き、誠にありがとうございました。
早速、訂正致しました。これからもどうかよろしくお願い致します。
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