∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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【point】本ブログは、時代を区切らず総合的に「水野姓を名乗る人物の足跡を追う研究」を行っています。この外「水野氏」と関連した氏族など水野氏と何らかの関わりがあれば、本研究の対象としています。【comment】みな様からご意見・ご指摘・ご感想などのコメントを頂けると幸いです。なお「コメントを受け取らないよう設定された記事」へのコメントは「掲示板」にお願い致します。【access】サイドバーのアクセス状況「トータル閲覧数・訪問者数」については、「gooブログ アドバンス」が新設されてからの数値累計を入力したものであり、本ブログ開設時から63日間のアクセス数は含まれません。【since】2005-03-14(Blog), 1988-11-14(Network activity)

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A-3>水野右京進清忠

2005-05-29 18:04:55 | A-3>景家系水野氏
川村の人、織田信長に仕え川村城に居る、長命寺に其の碑あり、五世孫水野永重の建つる所なり、塩尻に曰く、(前略)長命寺に入てやすらふ、水野右京進某此地の城主として、時に名もいちぢるしかりしとなん、今は昔の井竈(いそう=井戸やかまど)の跡だになくなれり、死後無復餘、一世異朝市と吟して云々と見ゆ。 . . . 本文を読む

C-1 >宇宙山乾坤院

2005-05-29 16:29:38 | C-1 >小河氏系水野
「 当山は、室町時代中期の文明7年(1475)に緒川城の守護を目的に初代城主水野貞守公の寄進によって、川僧慧済が開山した。以来、代々水野家の菩提寺であり、江戸時代を通じて尾張徳川家より禄を下されるなど、厚い庇護を受けてきた。四代目水野忠政公の息女で、徳川家康の生母である於大の方(伝通院)からも、三里四方の山林を寄進されたと伝わっている。 . . . 本文を読む

C-1 >緒川城・高藪城

2005-05-27 16:02:16 | C-1 >小河氏系水野
延文五年(1360)(正房の頃)土岐市によって滅ぼされた小河氏は、その末裔である水野貞守によって、百余年の後、応仁文明の乱(1467-77)を機に再興された。 そして、以後、小河・刈谷・常滑・大高等知多半島北部から三河に勢力を張った。これは、近世につくられた水野系図が、共通して描く水野氏再興の物語である。 . . . 本文を読む

C-3 >岡崎城

2005-05-25 05:01:26 | C-3 >山川山形水野
昔、岡崎城は岡竒城と記され、菅生川(乙川)右岸の北に接し直ぐ本丸がありその北に二の丸があった。『参河國名所圖絵』には、 「岡崎は享禄(1528-1531)以来の名號にして、其以前は菅生郷なり。新撰姓氏[二ノ二十八]河内の国神別之菅生朝臣、又續日本紀[五ノ九丁]従六位菅生朝臣大麿、又拾介抄中[二十九丁]朝臣の部に、菅生等見えたり。 . . . 本文を読む

C-1>西尾城(西條城)

2005-05-25 03:30:33 | C-1 >小河氏系水野
この城と水野氏の関連については、貞守から四代の忠政は、小河、刈谷のほかにも、大高、半田、西尾などの諸城に進出しており、また忠政の娘於大は、松平広忠に嫁いで家康を生んだ。嫡子の信元は小河、刈谷、大高、半田、西川と、かつては西条城と呼ばれていた当西尾の諸城を所領し、織田信長に属し、信の一字を与えられたとある。 . . . 本文を読む

C-3 >三河吉田城

2005-05-21 15:51:57 | C-3 >山川山形水野
当吉田城は、はじめ今橋城と称し、永正二年(1505)牧野古白によって構築された。以来、東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将の攻防を経て、天正十八年(1590)に池田照政が入封し、十五万二千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし照政は在城十年で播州姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため照政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。 . . . 本文を読む

C-1 >新城城

2005-05-21 14:43:27 | C-1 >小河氏系水野
新城城は大谷城主の菅沼定継が築いたのが始まりといわれている。長篠の戦いの後、長篠城主であった奥平九八郎信昌は徳川家康から郷ヶ原に築城を命じられ、天正四年(1576)1万5千石の城主となり現在の場所に新城城を移した。天正十八年(1590)徳川家が関東に移封されると片桐半右衛門正義が7千石で入城した。 . . . 本文を読む

A-2 >志段味城

2005-05-20 15:19:43 | A-2 >桓武平氏水野氏
志段味城の場所については4つの候補地が有るようだ。まず大久手池西の、野添川上流右岸に広がるなだらかな丘陵地で、今も「まむし注意」と黄色い看板が立つ上志段味ニノ輪がある。ここは地元で庄屋を務めたという家系に「ニノ輪の山上に城があった」と云う伝承があるそうだ。 . . . 本文を読む

T-1>記事変更のお知らせ

2005-05-20 13:34:11 | T-1>通知
第2回目weblog(2005.03.16)の記事内容を「水野氏系図分類表」のweblogに書き換え、同時に各weblogのヘッダーに『ヘディング』を新しく追加し、分類を一目で分かり易く改良しました。 これは、いつも当weblogを観ていてくださる友人のアドバイスにより、weblog全体の統一と読者の理解度アップを図ることを目的に変更したものです。感謝!! これからもドンドン改良していきたい . . . 本文を読む

B-1 >宗興山 禅隆寺の喚鐘

2005-05-14 16:51:26 | B-1 >水野太郎左衛門系
宗興山 禅隆寺   愛知県名古屋市東区飯田町36 Visit :2005-05-10 14:00 Revisit :2011-3-18 11:57 ●臨済宗妙心寺派    花園妙心寺末寺   本尊:木像釈迦牟尼仏坐像    名古屋四国二十番    名古屋百99番  ●寛政十年(1798)、第十代水野太郎左衛門政和作の喚鐘 家督相続は、寛政三年(1791)であることか . . . 本文を読む