∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

     本ブログの記事、画像等の無断複製および転載を禁じます。

B-2 >海辺山 法應寺

2006-04-22 17:24:20 | B-2 >水野平蔵系


海辺山 法應寺(あまべさん ほうおうじ)

    愛知県海部郡蟹江町大字蟹江本町字川西61  Visit :2006-04-17 08:50


◎沿革
開山 應仁元年(1467)十月十五日
     紫空乘雲上人(乘蓮智運大和尚)
 寺傳によれば、当山は清洲城下(愛知県清須市)にあった天眞乘運上人(曼陀推寺開山)開創の寺(草庵)を蟹江城築城当時(永享年間1429--1441)に当村(高賀須)へ移したと云。
 その後、享徳三年(1454。昭和五十一年から逆算522年前)当村高賀須より現在地へ紫空乘雲上人が移建したと藩撰の郡村徇行記(寛政四年1792--文政五年1822)に書き上げられ、又寛政覚書(寛文十年1670前後著)、張州府志(寶暦二年1752)等、藩撰の地誌類に海部山の山号が記載されているナゴヤ西光院の末寺であった。
天正十二年(1584)カニエ合戦の折、堂宇悉皆焼失した時の住職六世空廓蓮宮上人(西光寺弟弟子)仝十四年(1586)に秋葉守講堂を勧進建立し鎮守とした。紫空上人を初代として享徳三年(1454)移建より六世蓮宮上人示寂の慶長元年(1596)八月十三日迄142年間である(一代平均25年間)。……[後略]


◎天明四年(1784) 第七代水野平蔵矩燵作   喚鐘
 ご住職のお話によれば、当山の梵鐘および喚鐘は、第二次世界大戦の折、供出されたことから、梵鐘は昭和参拾年代に新しく鋳造し、また先々代か先代住職の頃、三重県桑名市(*1)において中古の喚鐘を購入したと聞かれた。従って当寺では喚鐘はさほど古い物ではないとの認識であったが、拝見させていただいたところ、掲載した写真のごとく――

    尾州 名古屋住
   鑄工 水野平蔵矩達

と鮮明に銘が陰刻されており、これまで拝見した平蔵作喚鐘の「龍頭・乳・縦帯・中帯・駒の爪」などの特徴と一致し「第七代水野平蔵矩燵作」と確認することができた。
銘が陰刻された「池の間」の対面の「池の間」には四名の法名と戒名が彫られていることは確認できたが、喚鐘の「曰」と始まる銘の書かれた左面、つまり柱側の池の間に陰刻された文字は、喚鐘と柱の隙間が狭く、カメラを差し入れて撮したが、残念ながら判読出来なかった。この由緒書きが判明すれば、この喚鐘がどこの寺の爲に鋳造されたのかが判明するだけにとても残念であった。


[註]
*1=尾張国中の金物(鋳物も含む)の製造および取引については、信長の時代から幕末までの間、代々水野太郎左衛門家が独占しており、その分家筋にあたる水野平蔵家は尾張国では鋳造できなかったことから、岐阜県の美濃地方や伊勢の西方の三重県まで出職して梵鐘を始めとした鐘や鰐口などを鋳ていた。


☆旅硯青鷺日記
 今年は四月に入ったものの、気候は不順で何時までも寒さを引きずり、雨天や黄砂の影響も多かったが、中旬となってようやく採訪の旅に出かけることができ、年が明けてから初の、約4ヶ月ぶりの採訪記となりました。
 法應寺は、蟹江川右岸に接し寺門は朝日を受けてすがすがしい気分でした。庫裏に案内を請うと坊守様がご住職に取り次いでくださいましたが、生憎ご住職は病院にお出かけになるところでした。しかしながら、ご従職はご自分が整理された稿本の寺傳の筆写を快くお許し下さいました。筆写する間に坊守様がコーヒーで持てなしてくださいました。その後、本堂にお参りし、本堂右手に掛けられた喚鐘を撮影させていただきました。
側にあった脚立をお借りして、喚鐘のすぐ側まで登れたものの惜しいことに由緒書きが読めなかったことで、坊守様に、お時間があるときにでも若院様にお頼みして喚鐘を降ろして鐘に書かれた文字を書き写されるようお勧めし、「天明四年(1784) 第七代水野平蔵矩燵作で、今から222年前の作であること」を記してお渡ししました。今後は更に大切にしていただけるとの嬉しいコメントを得ることが出来ました。


梵鐘名所 http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/f20493f6cf3772ed34078368b0f18b4c

水野平蔵家譜 http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/7551e73084352a9a4d23ed9ccc7f9104






最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。