∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-2 >龍雲山 普門禅寺――喚鐘

2006-10-20 19:51:20 | B-2 >水野平蔵系



龍雲山 普門禅寺――喚鐘
   岐阜県恵那市山岡町下手向1636    Visit :2006-10-14 09:30 
     
◆当山には、第三代水野平蔵政義作「喚鐘」と水野彦左衛門作「雲版」の二つが現存することから、当ブログでは、カテゴリに従い、「B-2 >水野平蔵系」と「B-3 >鍋屋町の鋳物師」の二つに分割し投稿する。

●龍雲山 普門禅寺
 [当山から入手した資料から]
 本 尊:十一面観音
 開 創:慶長十九年(1614)
 開闢(*1):石室全玖大和尚
 開 法:雲原岩亮大和尚

[由緒]
 当寺の草創については定かではないが、寺傳によれば初住の田翁□(*2)公首座は、慶長十年(1605)没とされていることから、それ以前に庵か辻堂程度の寺を開いて住んだと推定されている。
二代の快翁慶首座は、承應三年(1654)に没している。三代禪岩玄悦首座は久保原の浅野某の二男で、在住中客殿(本殿)や山門を造立して寺らしい形を整え、田代 留主ケ洞(*3)へ隠居して、元禄十年(1697)に没している。玄悦隠居後は、四代一斧□(*4)宣首座、五代和光拈調首座と継いだが、拈調がいずこかへ去って後は、無住の荒れ果てた姿となっていた。
 この姿を悲しんだ、盛久寺(*5)六世快信和尚の弟子大牛光(山田 後藤彦蔵の二男)は、寺の再興を思い立ち、寶永四年(1707)に入山した。既に無くなって年久しい盛久寺二世石室全玖和尚を開祖と仰ぎ、盛久寺七世の雲原岩亮和尚を一世とし、自らは二世と称し、諸堂を修理し大小の鐘を新鋳し寺を法地に格上げして、名実共に中興の業を成し遂げた。
当寺に、寶永五年(1708)、第三代水野平蔵政義作の喚鐘が現存することから、この鐘も大牛光によって新鋳されたと推定できる。
しかし開基については他の説もあり、盛久寺の寺史「太源一滴水」の説で、盛久寺二世石室全玖が、寛永年間(1704--1711)に龍雲山普門寺を創立し、自ら開山と称し寺務は普門寺二世(名を記さず)に執らせたというものである。
 その後、三世泰民徳章、五世鰲巴山、七世大観其船、九世孤岸喚船、十一世陰栢巌、十三世衷衡大堅と継がれ、今日の十五世天涯哲英に至っている。

[本文註]
*1=かいびゃく。 信仰の地として山を開くこと。
*2=“大”の両脇に“百”の字を抱えている。
*3=岐阜県恵那市山岡町田代留主ケ洞。
*4=“金偏に出旁”。
*5=岐阜県恵那市山岡町馬場山田107。 



●寶永五戊子年(1708)第三代水野平蔵政義作の喚鐘盛久寺

喚鐘銘文
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于 茲 □*1 當 村 三 浦 氏
仁 左 右 衛 門 者 為
耕 屋 道 秋 信 士
明 室 貞 法 信 女
通 山 龍 普 信 女
菩 提 喜 捨 浄 財 以 新 鑄
重 器 掛 殿 上 資 □*2 冥 福

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銘 曰
而 已 矣
殿 鐘 新 鑄  大 詰 □*3 縁
嘯 龍 雲 月  興 普 門 禅
見 聞 随 喜 齊 脱 蓋 纒
如 是 法 器  精 藍 永 傳
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于 時 寶 永 五 龍 次 戊 子 歳
    林 鐘 吉 旦
東 山 道 美 濃 州 恵 奈 郡
下 手 向 村 龍 雲 山 普 門
禅 寺 幻 住 大 牛 叟 謹 誌 焉
尾 州 名 古 屋 鍋 屋 町
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冶 工 水 野 平 蔵
    藤 原 政 義
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[銘文注]
*1=“有”「存在」の意か?
*2=“「耳」偏に「卩」旁”「いのる」の意か?
*3=“「月」偏に「主」の下に「刀」旁”、“勝”の異字体か?


水野平蔵家系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/7551e73084352a9a4d23ed9ccc7f9104






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