∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-1 >水野雅經

2005-07-28 20:25:48 | C-1 >小河氏系水野
戸部城址の記事中にあった『尾張國愛知郡誌』に、 「小川村(知多郡)城主水野雅經」と書かれている人物と思しき、 「雅經」とだけ書かれた和歌が『尾張志』に掲載されているので披露したい。 . . . 本文を読む

C-1 >戸部城址(松本城/笠寺城)

2005-07-28 20:22:10 | C-1 >小河氏系水野
 戸部城の築城年は明かではないが、戸部新左衛門政直が築いたといわれ、今川勢力圏の最西端にあった。今川家はもともと駿河(静岡県東部)を領地としていたが、今川義元の父氏親が、関東を支配していた北条早雲と同盟を結ぶことにより、遠江(静岡県中・西部)に進攻し支配下に置いた。さらには三河や尾張の一部にも勢力を伸ばしてきたことで、戸部城は大高城ともども、尾張の織田勢に対する今川の最前基地となっていた。このことから、政直は今川義元の妹を妻としていたが、弘治二年(1556)、義元に信長との内通を疑われ吉田(豊橋市)で殺害された。 . . . 本文を読む

C-3 >山形城

2005-07-16 16:29:05 | C-3 >山川山形水野
 初代城主の斯波兼頼は、延文元年(1356)この地に入部し居城を構え、出羽の国最上郡山形郷という地名に因み、最上氏と称するようになったといわれている。その後代々最上姓を名乗り、第十代最上義守の時、嫡男である義光(よしあき)を嫌い、次男の義時に家督相続をさせるため、義光を幽閉してしまう。 . . . 本文を読む

C-1 >安中藩

2005-07-14 18:06:06 | C-1 >小河氏系水野
 徳川四天王の一人で遠江井伊谷の豪族であった井伊直政は、関ヶ原の勲功により石田三成の居城であった近江佐和山に十八万石を所領していた。家康の関東入りに伴い、前橋井伊家領内の上野国箕輪に居を構えた。安中領もまたこの領内にあった。慶長七年(1602)、直政は関ヶ原の戦傷がもとで死去した。長男の井伊直勝が跡目を継ぎ、彦根に新城の築城を開始するものの、生来の病弱により大坂の陣に出陣がかなわず、代わりに弟の直孝が井伊軍を率いて出陣し武功を挙げた。 . . . 本文を読む

C-2 >結城城

2005-07-13 12:16:19 | C-2 >福山結城水野
結城城は、治承年間(1177-1180)に結城朝光が築いたとされるが確証はなく、むしろ南北朝動乱期に築城されたと見られている。 その後、結城家は室町時代に関東八家の一に列して、勢力をふるい、戦国時代には宇都宮・佐竹氏らと伍して生き残り、天正十九年(1591)徳川家康の二男で豊臣秀吉の養子であった秀康を十七代春朝の養子にもらい受け、慶長六年(1601)越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。その後、城は取り壊され、百年を経て水野氏が藩主となる。 . . . 本文を読む

C-3 >護竜山萬松寺(山川水野家歴代墓所)

2005-07-09 20:00:59 | C-3 >山川山形水野
山川水野氏の祖である水野忠元は、小河城主水野忠守の三男であり、当初は皆川領(栃木県栃木市皆川城内町)の一部に七千石の所領を持つに過ぎなかった。その後、大阪冬の陣(1614)・夏の陣(1615)に参戦したが、特に夏の陣での活躍がめざましかったことで、将軍徳川秀忠から結城本郷一万石、下総山川領一万石(上山川村、武井村、今宿村、茂呂村など)、下野鹿沼領一万石(栃木県鹿沼市)の合計三万石と下総山川城を与えられ大名に取り立てられた。 . . . 本文を読む

C-3 >下総山川城跡

2005-07-09 16:56:25 | C-3 >山川山形水野
山川城は綾戸城ともいわれ、室町時代に山川氏が築城したものである。 この城は、山川沼に突き出した台地の先端を利用してつくられ、南端に本丸がおかれた連郭式平城(*1)であったと考えられる。それは、東・西・南の三方を山川沼(*2)に囲まれた天然の要害というべきところにあった。 . . . 本文を読む

A-1 >平 良兼と縁の地(6)

2005-07-08 16:07:14 | A-1 >桓武平氏高望王流
8)将門、弓袋(ゆぶくろ)山の反撃  然れども、将門は尚し伯父を宿世の讎(かたき)として、彼此相揖す(い=睨み合う)。  時に介良兼因縁(親戚)有るに依りて、常陸国に至り着く。将門僅かに此の由を聞きて、亦征伐せむと欲ふ。構へたる所の兵士千八百余人、草木共に靡く。十九日(九月)を以て、常陸国真壁郡に発向す。乃ち彼の介の服織(はとり=茨城県真壁郡真壁町羽鳥[2005-10-01合併予定 桜川市に]=良兼の本拠地があった)の宿より始めて、与力の伴類の舎宅、員の如くに掃ひ焼く。 . . . 本文を読む

A-1 >平 良兼と縁の地(5)

2005-07-03 08:53:04 | A-1 >桓武平氏高望王流
(7)平良兼の襲撃  未だ旅の脚を休めず、未だ旬月(短期間)を歴ざるに、件の介良兼、本意(もとから心に抱いていた)の恨みを忘れずして、尚し会稽の(敗戦の恥をすすごうとする)の心を遂げむと欲ふ。年頃(近年)構へ(準備)たる所の兵革(武器)、其の勢ひ常より殊なれり。 . . . 本文を読む

A-1 >平 良兼と縁の地(4)

2005-07-03 08:50:53 | A-1 >桓武平氏高望王流
6)将門上洛、恩赦により帰国  然る間(そのうちに)、前大掾源護の告状(告訴状=源護は子の扶・隆・繁と国香が将門により殺されたこと(既載)を朝廷に訴えていた)に依りて、件の護併犯人の平将門及び真樹(*1)等を召し進むべし由の官符、去んぬる承平五年(935)十二月廿九日の符、同六年九月七日に到来す(*2)。左近衛の番長(*3)正六位上英保純行(あなほのともゆき)、同姓の氏立(うじたち)(*4)、宇自加支興(うじかのともおき *5)等を差し(差し向けて)、常陸、下毛、下総の国に下さる(通達された)。 . . . 本文を読む