∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

     本ブログの記事、画像等の無断複製および転載を禁じます。

●本ブログの趣旨と説明

【point】本ブログは、時代を区切らず総合的に「水野姓を名乗る人物の足跡を追う研究」を行っています。この外「水野氏」と関連した氏族など水野氏と何らかの関わりがあれば、本研究の対象としています。【comment】みな様からご意見・ご指摘・ご感想などのコメントを頂けると幸いです。なお「コメントを受け取らないよう設定された記事」へのコメントは「掲示板」にお願い致します。【access】サイドバーのアクセス状況「トータル閲覧数・訪問者数」については、「gooブログ アドバンス」が新設されてからの数値累計を入力したものであり、本ブログ開設時から63日間のアクセス数は含まれません。【since】2005-03-14(Blog), 1988-11-14(Network activity)

●ご質問・お問い合わせのコメントについて

 ご質問やお問い合わせのコメントをいただいた場合、その時点で管理者が解る範囲でお応えしておりますが、その後かなり日数を経て、それに関する史料の所在が判ったり、またブロガーのみなさんからご教示いただき、その内容が判明する事が多々ありました。その場合ご質問者のご連絡先が判っておりますと直ぐにご報告できるのですが、過去には連絡不可能で残念ながら折角判明した内容をお伝えすることが出来無いケースもありました。こういったことを回避する為、「ご質問・お問い合わせのコメント」については、本ブログの「コメント欄」ではなく、本ブログ用「掲示板」にメールアドレスを記載し(非公開)投稿されることをお勧めいたします。尚、「コメント欄」には、ご住所、電話番号、メールアドレスなどの個人情報は書き込まれないようお願いいたします。管理者へのメールは、サイドバー・ブックマークの「 [\/] ∞ヘロンへメール」からご送信下さい。

A-4 >水野代官所跡

2005-10-19 18:38:32 | A-4>影俊系水野氏
 尾張九代藩主 徳川宗睦の時代に、藩政の大改革があり、藩内に大代官を置き、その出先機関として各地方に 所附代官所十箇所を設け、各地の庶政を司った。  所附代官所は、天明元年(1781)五月、まず最初に中水野村鳥林に水野代官所が設置された。所轄は、愛知、 春日井の一部と美濃の一部に跨り、百九か村 六万一千三百五十七石余を管理し、徴税事務、申請事務、司法 事務などの全般処理を行った。つまり今日における市役所・税務署・警察署の仕事を一手に扱う強い権力を握っ ていたことになる。 . . . 本文を読む

A-4 >御林方奉行所跡

2005-10-19 15:02:00 | A-4>影俊系水野氏
尾張初代藩主 徳川義直は、狩猟を好み上水野北脇(愛知県瀬戸市水北町)に行殿(御成御殿)を建てて、水野山に鷹や鹿狩りなど の折、宿泊の場所とした。 寛文元年(1661)、二代目藩主光友は、この行殿を役所と官舎に改造し、春日井、愛知両郡の山林を管理する役目を水野権平正勝に 命じた。ここを御林方役所と称し、初代奉行に正勝が就き、代々世襲で明治維新まで九代続いた。 . . . 本文を読む

A-4 >小金山 感應寺

2005-10-13 12:37:16 | A-4>影俊系水野氏
 天平六年(734)、行基菩薩(*1)が諸国遍歴の途、水野の地を訪れ、小金(おがね)神社(*2)を鎮守として開基したものであり、この地方では最も古い寺の一つといわれている。 当初は天台宗であったが、その後臨済宗妙心寺派に属し、定光寺の末寺となっている。詳細については『張州府志』『尾張志』にも記載されている。 . . . 本文を読む

A-2 >入尾城跡(松原城) 改訂版

2005-10-09 20:16:31 | A-2 >桓武平氏水野氏
 大治四年(1129)、鎮守府将軍 平 良兼の子孫である滝口影貞が入尾に入郷し、姓を水野と改め、水野氏の始祖となった。  保元・平治(1156-59)の乱の頃、景貞が入尾城を築城したと言われ、子の影俊は水野四郎と称し当城に住した。治承・養和・寿永の頃(1177-1184)、影俊の子の高家が志田見・水野郷の郷司職に任ぜられた。 . . . 本文を読む

C-1 >大高城跡と大高山春江院 (新訂版)1/2≪考証≫

2005-10-02 18:21:43 | C-1 >小河氏系水野
 室町時代の永正年間(1504~1520年)、知多半島の脊梁山地の末端近くに、西側が開けた丘陵地があり、その小山上に山城が築かれた。標高20mで、『寛文村々覚書』には、東西五十九間(107m)、南北十八間(32m)の規模と書かれており、『大高村古城絵図』(蓬左文庫蔵)には、本丸・二之丸・四方をめぐる二重の堀・土居などが描かれている。築城者は花井備中守で、築城後は、同氏が居城したが、戦国時代の天文元年(1532)から永禄元年(1558)の二十六年間は、水野近守父子(*1)が居城した。 . . . 本文を読む