∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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●本ブログの趣旨と説明

【point】本ブログは、時代を区切らず総合的に「水野姓を名乗る人物の足跡を追う研究」を行っています。この外「水野氏」と関連した氏族など水野氏と何らかの関わりがあれば、本研究の対象としています。【comment】みな様からご意見・ご指摘・ご感想などのコメントを頂けると幸いです。なお「コメントを受け取らないよう設定された記事」へのコメントは「掲示板」にお願い致します。【access】サイドバーのアクセス状況「トータル閲覧数・訪問者数」については、「gooブログ アドバンス」が新設されてからの数値累計を入力したものであり、本ブログ開設時から63日間のアクセス数は含まれません。【since】2005-03-14(Blog), 1988-11-14(Network activity)

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C-3 >岡崎藩士 水野平三郎2/2

2006-08-09 14:01:55 | C-3 >山川山形水野
 物語の初めは、寶永元年(1704)、岡崎水野藩老職・水野五郎左衛門が江戸詰藩士・嫡男平三郎を国許に呼び戻すところから始まる。当家は九百七十石ばかりの禄高で、当時は岡崎城西約1Kmを流れる矢矧川、現在の矢作川(やはぎがわ)の堤防工事の総奉行を勤めており、平三郎を自分の助役に命じた。矢矧川は二年続で暴風洪水にやられ堤防が決壊していた。 . . . 本文を読む

C-3 >岡崎藩士 水野平三郎1/2

2006-08-09 14:01:20 | C-3 >山川山形水野
 物語の初めは、寶永元年(1704)、岡崎水野藩老職・水野五郎左衛門が江戸詰藩士・嫡男平三郎を国許に呼び戻すところから始まる。当家は九百七十石ばかりの禄高で、当時は岡崎城西約1Kmを流れる矢矧川、現在の矢作川(やはぎがわ)の堤防工事の総奉行を勤めており、平三郎を自分の助役に命じた。矢矧川は二年続で暴風洪水にやられ堤防が決壊していた。 . . . 本文を読む

C-3 >水野三郎右衛門元宣(その1)

2006-03-22 04:48:14 | C-3 >山川山形水野
  水野忠元を祖とする山川水野家の末裔である老中水野忠邦が、天保の改革を断行したものの抵抗に遭い失敗し失脚したことで、家督を嫡子の忠精(ただきよ)に譲ったが、父の咎により左遷され、浜松藩から五万石に減碌され山形藩に転封した。それに伴い、浜松に生まれた山川水野家の分家である水野三郎右衛門元宣も、弘化三年(1846)、四才のとき山形に移住した。慶応二年(1866)、忠精は嫡男忠弘(ただひろ)に家督を譲り、元宣が二十二才の若さで家老職を継ぎ、幼君忠弘の補佐にあたった。 . . . 本文を読む

C-3 >龍海院 是字寺

2005-09-03 15:00:36 | C-3 >山川山形水野
〇山川水野第六代 岡崎藩主 水野忠輝(ただてる)の墓      山川水野家は、初代水野忠元に始まり、二代忠善(ただよし)が下総山川から駿河田中藩に転封し、次に三河吉田藩へ、更に岡崎藩へ転封された。このことにより、二代忠善を初代と数えることもあるが、当ブログでは、忠元を初代とする。 . . . 本文を読む

C-3 >山形城

2005-07-16 16:29:05 | C-3 >山川山形水野
 初代城主の斯波兼頼は、延文元年(1356)この地に入部し居城を構え、出羽の国最上郡山形郷という地名に因み、最上氏と称するようになったといわれている。その後代々最上姓を名乗り、第十代最上義守の時、嫡男である義光(よしあき)を嫌い、次男の義時に家督相続をさせるため、義光を幽閉してしまう。 . . . 本文を読む