∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-2 >大龍山 洞雲寺

2006-11-10 11:52:54 | B-2 >水野平蔵系
嘉吉三年(1443)、将軍足利義勝から寄進を受けた地に、十二年後の康正元年(1455)、却菴寂永により開基された。文明十八年(1486)以降は、本寺開元院(*1)から交互に住持が派遣されていた。慶長九年(1604)、開元院十世佛室梵的和尚が中興開山となり永風(*2)を唱え殿宇を再建し、大龍峯窟を全備した後、西尾丹後守が知行所を当寺に移して以来現在に至っている。 . . . 本文を読む

B-2 >報恩山 禅躰寺

2006-11-03 12:34:54 | B-2 >水野平蔵系
 法明寺(櫻堂薬師)系下の天台宗寺院として草創し継承すると伝えられてはいるが、開山の年代など寺歴の詳細は詳らかではない。  当山には、室町幕府初代美濃守護であった土岐頼貞(定林寺殿*1)の位牌などが伝えられており、このことから土岐氏に何らかの縁のある寺ではないかと考えられている。 . . . 本文を読む

B-2 >海辺山 法應寺

2006-04-22 17:24:20 | B-2 >水野平蔵系
◎天明四年(1784) 第七代水野平蔵矩燵作 喚鐘――――ご住職のお話によれば、当山の梵鐘および喚鐘は、第二次世界大戦の折、供出されたことから、梵鐘は昭和参拾年代に新しく鋳造し、また先々代か先代住職の頃、三重県桑名市において中古の喚鐘を購入したと聞かれた。従って当寺では喚鐘はさほど古い物ではないとの認識であったが、拝見させていただいたところ、掲載した写真のごとく―― . . . 本文を読む

B-2 >池浦山 順慶寺

2005-09-04 20:01:31 | B-2 >水野平蔵系
 第八代水野平蔵近房は、明和七年(1770)に生まれ、天保八年(1837)に六十七歳で没している。このことからこの喚鐘は、近房晩年五十歳の円熟期に造られたものと判る。鋳造されてから、およそ百二十五年後の第二次世界大戦下においては、全国各地で金属製品の強制供出により、多くの秀作や貴重な作品が次々と溶かされ武器に変えられていった。 . . . 本文を読む

B-2 >八事興正寺 遍照院

2005-06-05 11:43:03 | B-2 >水野平蔵系
尾張高野と称せられ、東西二山から成り、東山を遍照院、西山を普門院と称し、真言宗に属する。元禄年中(1688-1704)尾張二代薄主、徳川光友により建立が許された。その後五世諦忍により、西山にさらに阿弥陀堂が建立され、浄土を興隆した。 東山西山ともに阿弥陀堂に阿弥陀如来座像を安置、本尊としているが、総本尊は東山最高地呑海峯(どんかいほう)にある、大日堂安置の銅製大日如来座像である。 . . . 本文を読む