∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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【point】本ブログは、時代を区切らず総合的に「水野姓を名乗る人物の足跡を追う研究」を行っています。この外「水野氏」と関連した氏族など水野氏と何らかの関わりがあれば、本研究の対象としています。【comment】みな様からご意見・ご指摘・ご感想などのコメントを頂けると幸いです。なお「コメントを受け取らないよう設定された記事」へのコメントは「掲示板」にお願い致します。【access】サイドバーのアクセス状況「トータル閲覧数・訪問者数」については、「gooブログ アドバンス」が新設されてからの数値累計を入力したものであり、本ブログ開設時から63日間のアクセス数は含まれません。【since】2005-03-14(Blog), 1988-11-14(Network activity)

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B-2 >妙理山 増福禅寺

2006-10-22 14:07:12 | B-2 >水野平蔵系
増福寺は号を妙理山と称し、今より四三〇(450)年前の天文年間(1532-1555)に日吉の氏神八幡宮の奥ノ院として開創された。当時は真言宗であったが慶長五年(1600)に三河國永澤寺の弟子芳頓首座が地頭千村丹左ヱ門(開基)の力をかり復興し曹洞宗に転じた。 . . . 本文を読む

C-1 >小川村と布留山城跡 2/2≪考証≫

2006-10-10 12:02:10 | C-1 >小河氏系水野
◎小河氏水野の祖 小河三郎重房の後裔として、房については「C-1水尾邑」に、また雅經については「C-1水野雅經」にそれぞれ投稿済であるが、その後貞守に至る九代については殆ど触れてこなかった。雅經から五代の正房とその子信忠が後述のように土岐氏に滅ぼされ、また六代の信安が知多郡小河から追放され、その後三代が居住した信濃の小川村に、今夏漸くにして採訪することが出来た。  同村の資料などを基に「小川村における水野氏」を考察してみることにする。 . . . 本文を読む

C-1 >小川村と布留山城跡 1/2≪考証≫

2006-10-10 12:01:45 | C-1 >小河氏系水野
◎小河氏水野の祖 小河三郎重房の後裔として、房については「C-1水尾邑」に、また雅經については「C-1水野雅經」にそれぞれ投稿済であるが、その後貞守に至る九代については殆ど触れてこなかった。雅經から五代の正房とその子信忠が後述のように土岐氏に滅ぼされ、また六代の信安が知多郡小河から追放され、その後三代が居住した信濃の小川村に、今夏漸くにして採訪することが出来た。  同村の資料などを基に「小川村における水野氏」を考察してみることにする。 . . . 本文を読む

R-4>水野氏関連著書「山本周五郎作品」

2006-10-01 00:01:20 | R-4>水野氏諸他参考資料
 「水野氏」に関連した物語として、先に山形水野藩家老水野三郎右衛門元宣や岡崎藩士水野平三郎などを紹介してきたが、水野平三郎と同じく山本周五郎作品に、いわゆる「岡崎もの」と呼ばれる作品群を代表とし、総数17作品にも及ぶ「水野氏」が著されていることから、その作品名とあらすじをご紹介したい。『彦左衛門外記』は、文庫本で265ページの中編であるが、その他の作品は30ページ内外の短編であることから気楽に読むことが出来る。大方の作品は「新潮文庫」に収められているが、『箭竹』『墨丸』は、文庫本にはなく『山本周五郎小説全集1 日本婦道記』に収録されている。 . . . 本文を読む