∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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【point】本ブログは、時代を区切らず総合的に「水野姓を名乗る人物の足跡を追う研究」を行っています。この外「水野氏」と関連した氏族など水野氏と何らかの関わりがあれば、本研究の対象としています。【comment】みな様からご意見・ご指摘・ご感想などのコメントを頂けると幸いです。なお「コメントを受け取らないよう設定された記事」へのコメントは「掲示板」にお願い致します。【access】サイドバーのアクセス状況「トータル閲覧数・訪問者数」については、「gooブログ アドバンス」が新設されてからの数値累計を入力したものであり、本ブログ開設時から63日間のアクセス数は含まれません。【since】2005-03-14(Blog), 1988-11-14(Network activity)

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C-1 >水野忠分の菩提寺・梨渓山心月齊

2014-06-27 19:48:04 | C-1 >小河氏系水野
水野忠分の菩提寺・梨渓山心月齊   愛知県知多郡美浜町大字布土字明山8    Visit :2014-02-02 14:00 ●梨渓山 心月齊(りけいざん しんげつさい) 創建:天文十五年(1546) 常滑の曹洞宗天澤院に属す 開基:盛龍院殿心得全了大居士 天正六戊寅年(1578)十二月八日卒     布土城主(寄留地)、本貫は緒川城主 水野藤治郎忠分(藤十郎範方)     徳川家康の生母 . . . 本文を読む

C-1>大給松平家臣水野氏

2007-11-25 10:58:10 | C-1 >小河氏系水野
『西尾市史』古代中世近世 上 二―― 大給松平家臣団 松平(大給おぎゅう)真乗の長男和泉守家乗が、美濃恵那郡の岩村に、二万石を領したときに始り、嫡男和泉守乗寿が継ぎ、大坂の陣の功により遠江浜松へ移封。後3万5千石に増録され老中となり、上野館林へ六万石に加増され、さらに下総佐倉、肥前唐津、志摩鳥羽へ転封。乗邑は八代将軍吉宗に抜擢され老中として活躍。次いで伊勢亀山、山城淀、下総佐倉と転封を繰り返し、三河西尾に至る。 . . . 本文を読む

C-1 >小川村と布留山城跡 2/2≪考証≫

2006-10-10 12:02:10 | C-1 >小河氏系水野
◎小河氏水野の祖 小河三郎重房の後裔として、房については「C-1水尾邑」に、また雅經については「C-1水野雅經」にそれぞれ投稿済であるが、その後貞守に至る九代については殆ど触れてこなかった。雅經から五代の正房とその子信忠が後述のように土岐氏に滅ぼされ、また六代の信安が知多郡小河から追放され、その後三代が居住した信濃の小川村に、今夏漸くにして採訪することが出来た。  同村の資料などを基に「小川村における水野氏」を考察してみることにする。 . . . 本文を読む

C-1 >小川村と布留山城跡 1/2≪考証≫

2006-10-10 12:01:45 | C-1 >小河氏系水野
◎小河氏水野の祖 小河三郎重房の後裔として、房については「C-1水尾邑」に、また雅經については「C-1水野雅經」にそれぞれ投稿済であるが、その後貞守に至る九代については殆ど触れてこなかった。雅經から五代の正房とその子信忠が後述のように土岐氏に滅ぼされ、また六代の信安が知多郡小河から追放され、その後三代が居住した信濃の小川村に、今夏漸くにして採訪することが出来た。  同村の資料などを基に「小川村における水野氏」を考察してみることにする。 . . . 本文を読む

C-1 >乳竇山 報恩寺≪考証≫

2006-06-03 18:19:32 | C-1 >小河氏系水野
開  基:文治元年(1185)、報恩寺殿乳竇貞哺大禪定尼(鎌田正乳母也)『張州雑志』 中興開基:水野一初全妙禅定門 永正六己巳年(1509)五月廿九日『張州雑志』 大源院殿一初全妙大居士「寺傳」   永正六年(1509)五月二十九日卒の位牌あり。「寺傳」    緒川城主水野蔵人貞守 玄室全通居士之嫡男(水野下野守爲則)也 『張州雑志』『尾張徇行記』 . . . 本文を読む

C-1 >梨渓山 心月齊

2006-06-01 04:44:11 | C-1 >小河氏系水野
創建:天文十五年(1546) 常滑の曹洞宗天澤院に属す 開基:盛龍院殿心得全了大居士 天正六戊寅年(1578)十二月八日卒(1578)     布土城主(寄留地)、本貫は緒川城主 水野藤治郎忠分(藤十郎範方)     徳川家康の生母於大の方の実弟。 開山:大良喜歓大和尚(緒川から招かれた) 元龜二年辛未年(1571)九月廿二日寂 . . . 本文を読む

C-1 >村木砦址(織田信長篇)

2006-01-27 13:24:10 | C-1 >小河氏系水野
「水野氏」の研究者は勿論のこと「織田信長」および『信長公記』の研究者にも、是非とも一読を薦めたい書。 『信長公記』に書かれた「村木砦の戦い」が、一般的には「信長自身のいくさではなく、同盟者水野信元のいくさであり、信長は応援軍として戦いに加わったにすぎない」と、されてきたことに対する、著者の痛快な批評が主旨となって構成されている。つまり「村木砦の戦い」は、“信長こそが主軍”であった。 . . . 本文を読む

C-1 >水尾邑

2005-11-29 16:19:07 | C-1 >小河氏系水野
京都市の北西、愛宕山山麓の山懐にあり、古くは「絶壑(*1)ノ間に孤立ス」などと表現され、今でも昔のままの自然が残っており、清和天皇陵が隣りの水尾山頂にある。 「水尾」とは「水の緒」の意で、“清い水が湧くところ”“水の流れの筋”という意味である。愛宕山の丹波高原側の山頂近くに水源があり、急峻を割って細流が流れており、山中で大きく撓んで京都川の山腹に入るが、入ったあたりに水尾というしるしがあるという。 . . . 本文を読む