∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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【point】本ブログは、時代を区切らず総合的に「水野姓を名乗る人物の足跡を追う研究」を行っています。この外「水野氏」と関連した氏族など水野氏と何らかの関わりがあれば、本研究の対象としています。【comment】みな様からご意見・ご指摘・ご感想などのコメントを頂けると幸いです。なお「コメントを受け取らないよう設定された記事」へのコメントは「掲示板」にお願い致します。【access】サイドバーのアクセス状況「トータル閲覧数・訪問者数」については、「gooブログ アドバンス」が新設されてからの数値累計を入力したものであり、本ブログ開設時から63日間のアクセス数は含まれません。【since】2005-03-14(Blog), 1988-11-14(Network activity)

●ご質問・お問い合わせのコメントについて

 ご質問やお問い合わせのコメントをいただいた場合、その時点で管理者が解る範囲でお応えしておりますが、その後かなり日数を経て、それに関する史料の所在が判ったり、またブロガーのみなさんからご教示いただき、その内容が判明する事が多々ありました。その場合ご質問者のご連絡先が判っておりますと直ぐにご報告できるのですが、過去には連絡不可能で残念ながら折角判明した内容をお伝えすることが出来無いケースもありました。こういったことを回避する為、「ご質問・お問い合わせのコメント」については、本ブログの「コメント欄」ではなく、本ブログ用「掲示板」にメールアドレスを記載し(非公開)投稿されることをお勧めいたします。尚、「コメント欄」には、ご住所、電話番号、メールアドレスなどの個人情報は書き込まれないようお願いいたします。管理者へのメールは、サイドバー・ブックマークの「 [\/] ∞ヘロンへメール」からご送信下さい。

E-1>白銀師 水野源六

2010-05-15 13:37:33 | E-1 >系統不確定水野氏
高百三十万石加賀藩は、藩政前期の豊富な資金力を背景に、文武の府を目指した歴代藩主が、金属工芸・漆芸・陶芸職人などを招聘した。この一環として中世末期の京都の名金工後藤家も金沢に招かれた。金沢における金工とは、鋳物・彫金・鍛金・象眼等をさす。 尚、本稿では加賀藩祖(初代藩主)は前田利長、開祖は前田利家としている。 . . . 本文を読む

E-1>「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」(補遺1)

2010-05-08 18:17:19 | E-1 >系統不確定水野氏
◆本稿は、さきに投稿した「金切裂指物使番にみえる水野久右衛門尉」の「補遺1」として、新たな資料に基づき次の項目内容を追補した。―― ★水野久右衛門尉 ≪考証≫ 1.水野久右衛門尉に関する史料 2.来島長親の経歴 3.玄興院について ■補遺1 『時空を超えて――森藩誕生四〇〇年』甲斐素純・竹野孝一郎著 西日本新聞社 2005.05. P.38に、―― [来島康親]正室は、福島正則の養女「玄興院 . . . 本文を読む

E-1>「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」2/2

2009-10-24 16:22:29 | E-1 >系統不確定水野氏
●「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」2/2 ★水野久右衛門尉 ≪考証≫ 1.水野久右衛門尉に関する史料  『戦国人名辞典』増訂版 高柳光壽・松平年一著 吉川弘文館 には、「水野久右衛門(みずのきゅうえもん) 秀吉に仕え金切裂指物使番(武家事紀)。」と、短いながらも項目が設けられているが、生没年は未詳。『戦国人名事典』阿部猛・西村圭子編 新人物往来社では、「みずのきゅうえもん(のじょう) . . . 本文を読む

E-1>「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」1/2

2009-10-24 16:20:50 | E-1 >系統不確定水野氏
★「金切裂指物使番(きんの きりさき さしもの つかいばん)」  「使番」とは、戦国時代、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職であり、「指物(旗指物)」は、 武士が戦場で目印のため、鎧(よろい)の背などにさしたり、従者に持たせたりした小旗や飾り物、背旗のことで、使番 の指物は「金色の切り裂き」、つまり、縁(へり)を適当に切り裂いて、なびきやすくしたものである。 . . . 本文を読む

E-1>水野左内源為長

2009-10-04 12:23:12 | E-1 >系統不確定水野氏
●水野左内源為長  号梅里、また苟且堂  ――『宇下人言・修行録』松平定信/著 松平定光/校訂 岩波文庫  本文および「[註]【宇下人言】28頁」から引用、ほか『三百藩家臣人名事典』などを参照し編集した。『宇下人言(うげのひとこと(*1))・修行録』は、定信(号 楽翁)の自叙伝であり、子孫に対し後世再び老中の職に就く者のために、彼の老中在職中に実施した庶政の記録を遺してその参考とし、また指針ともな . . . 本文を読む

E-1>小倉藩士 水野万空(まんくう)

2009-09-06 19:04:36 | E-1 >系統不確定水野氏
先般「水野氏関連専門年表」の増補にあたり、『三百藩家臣人名事典』第三巻 を閲覧していて、豊前小倉藩の水野氏の中に、藩士で家禄百五十石の「水野万空」(諱は貞胤、通称源六)が、詠んだ俳句を見いだした。水野家は、藩主小笠原氏が播州明石藩から小倉に入封後に召し抱えられた家柄であるが、残念ながらその出自は判然としない。 . . . 本文を読む

E-1>『松山藩役録』にみえる伊予松山藩士水野氏3/3

2008-11-13 19:16:22 | E-1 >系統不確定水野氏
『松山藩役録』にみえる伊予松山藩士水野氏3/3 ▼「松山歴奉略記」弘化年間(1844-1848)――«編年体に改編» 【初代】甚左衛門:於伏見[山城伏見藩]出[仕]、二百石者頭  後[伊予松山藩初代藩主]定行公付、七百石家老職 【二代目】:七百石家老職  後於桑名三百石加増  後於松山二百石加増、 【九代目】:二千石 水野甚左衛門 ※初代水野甚左衛門は、租水野定勝四男 . . . 本文を読む

E-1>『松山藩役録』にみえる伊予松山藩士水野氏2/3

2008-11-13 19:00:53 | E-1 >系統不確定水野氏
『松山藩役録』にみえる伊予松山藩士水野氏2/3 ▼「松山歴奉略記」弘化年間(1844-1848) 九代 二千石 水野甚左衛門 初代甚左衛門[は]、於伏見[山城伏見藩]出[仕]、二百石者頭、後[伊予松山藩初代藩主]定行公付、七百石家老職、二代目七百石家老職、後於桑名三百石加増、後於松山二百石加増、    ▲水野幸八 △水野丈右衛門 ▲水野□左衛門 七代 七十石俵 水野与三郎 初代 . . . 本文を読む

E-1>『松山藩役録』にみえる伊予松山藩士水野氏1/3

2008-11-13 18:57:07 | E-1 >系統不確定水野氏
『松山藩役録』伊予史談会双書第十九集 ●「乾光院殿御治世支配帳」(別称:「明暦年間松山御支配帳」)  ――明暦四年(1658)二月当時の松山藩士の役録を記したもの  松平家二代藩主定頼(乾光院殿)が家督相続した際、初代藩主定行から政務引継ぎの書として譲渡されたものであることから、松山藩としては最も古い役録と考えられている。 . . . 本文を読む

E-1>「愛知県姓氏歴史人物」にみえる水野氏 2/2

2007-11-13 09:11:49 | E-1 >系統不確定水野氏
『角川日本姓氏歴史人物大辞典23 愛知県』「水野 みずの」の項に紹介されている水野氏については、歴史書等に散見される比較的有名な人物の外にも、『尾張志』を始めとする多方面の地方誌に記載されている水野氏を、実に簡潔に編んではいるが、辞典という性質上、残念ながら細部には触れられていない。このことから水野氏史研究の一環として、同書に倣い各出典を極力実見し、同書に肉付け補筆してみることにしたい。 . . . 本文を読む

E-1>「愛知県姓氏歴史人物」にみえる水野氏 1/2

2007-11-09 14:16:25 | E-1 >系統不確定水野氏
 『角川日本姓氏歴史人物大辞典23 愛知県』「水野 みずの」の項に紹介されている水野氏については、歴史書等に散見される比較的有名な人物の外にも、『尾張志』を始めとする多方面の地方誌に記載されている水野氏を、実に簡潔に編んではいるが、辞典という性質上、残念ながら細部には触れられていない。このことから水野氏史研究の一環として、同書に倣い各出典を極力実見し、同書に肉付け補筆してみることにしたい。 . . . 本文を読む