∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-5 >鶴牧藩の黒船対処

2008-03-09 18:37:57 | C-5 >鶴牧水野
『大日本古文書』には、アメリカ合衆国海軍・東インド艦隊(マシュー・ペリー提督)が、江戸湾浦賀に来航した嘉永六年六月三日(1853)の八日後、この黒船に対処した鶴牧藩主水野壹岐守忠實から大目付に宛てた報告書が記載されている。 . . . 本文を読む

C-5 >鶴牧藩

2005-06-26 21:00:02 | C-5 >鶴牧水野
鶴牧水野家は、忠増が信濃松本城主水野氏より分家したもので、文政十年(1827)五月十九日、安房北条藩主三代水野忠韶(ただてる)が、上総市原・望陀(君津市)二郡に移封され、上総市原郡椎津村に城地として一万七千坪を賜り陣屋を建設し、城主格であったため新陣屋を鶴牧城と称し、鶴牧藩を立藩した。地名としては椎津であり、鶴牧という地名は無いが、鶴牧藩と名付けたのは、水野氏の江戸屋敷(別邸)が早稲田鶴巻町(現 東京都新宿区)にあった事に由来すると言われている。 . . . 本文を読む

C-5 >安房北条城(北条陣屋跡)

2005-06-26 18:25:36 | C-5 >鶴牧水野
寛永十五年(1638)、駿河大納言徳川忠長の家老であった、屋代忠正が安房国で一万石を領して北条藩を立藩し、北条の仲町に陣屋を築いた。  正徳元年(1711)第三代屋代忠位(ただたか)の時、財政建て直しを名目とし、藩用人川井藤左衛門は検地と増税を行った。これに対し、薗村名主五左衛門、湊村名主角左衛門、国分村名主長次郎の3名を代表とした27ヶ村の農民の一団は年貢減免を申し出たが受け入れられなかったことから、次には江戸屋敷、更に老中へ直訴した。 . . . 本文を読む