∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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【point】本ブログは、時代を区切らず総合的に「水野姓を名乗る人物の足跡を追う研究」を行っています。この外「水野氏」と関連した氏族など水野氏と何らかの関わりがあれば、本研究の対象としています。【comment】みな様からご意見・ご指摘・ご感想などのコメントを頂けると幸いです。なお「コメントを受け取らないよう設定された記事」へのコメントは「掲示板」にお願い致します。【access】サイドバーのアクセス状況「トータル閲覧数・訪問者数」については、「gooブログ アドバンス」が新設されてからの数値累計を入力したものであり、本ブログ開設時から63日間のアクセス数は含まれません。【since】2005-03-14(Blog), 1988-11-14(Network activity)

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 ご質問やお問い合わせのコメントをいただいた場合、その時点で管理者が解る範囲でお応えしておりますが、その後かなり日数を経て、それに関する史料の所在が判ったり、またブロガーのみなさんからご教示いただき、その内容が判明する事が多々ありました。その場合ご質問者のご連絡先が判っておりますと直ぐにご報告できるのですが、過去には連絡不可能で残念ながら折角判明した内容をお伝えすることが出来無いケースもありました。こういったことを回避する為、「ご質問・お問い合わせのコメント」については、本ブログの「コメント欄」ではなく、本ブログ用「掲示板」にメールアドレスを記載し(非公開)投稿されることをお勧めいたします。尚、「コメント欄」には、ご住所、電話番号、メールアドレスなどの個人情報は書き込まれないようお願いいたします。管理者へのメールは、サイドバー・ブックマークの「 [\/] ∞ヘロンへメール」からご送信下さい。

B-1 >正林寺

2005-06-29 16:09:28 | B-1 >水野太郎左衛門系
慶長四年(1599)十一月 第二代藤原水野太郎左衛門則長作 梵鐘 正林寺鐘                 橋村宗右衛門則長 当山鐘楼の直ぐ西脇に、梵鐘の由緒書きされた石碑が建てられている―― . . . 本文を読む

C-5 >鶴牧藩

2005-06-26 21:00:02 | C-5 >鶴牧水野
鶴牧水野家は、忠増が信濃松本城主水野氏より分家したもので、文政十年(1827)五月十九日、安房北条藩主三代水野忠韶(ただてる)が、上総市原・望陀(君津市)二郡に移封され、上総市原郡椎津村に城地として一万七千坪を賜り陣屋を建設し、城主格であったため新陣屋を鶴牧城と称し、鶴牧藩を立藩した。地名としては椎津であり、鶴牧という地名は無いが、鶴牧藩と名付けたのは、水野氏の江戸屋敷(別邸)が早稲田鶴巻町(現 東京都新宿区)にあった事に由来すると言われている。 . . . 本文を読む

C-5 >安房北条城(北条陣屋跡)

2005-06-26 18:25:36 | C-5 >鶴牧水野
寛永十五年(1638)、駿河大納言徳川忠長の家老であった、屋代忠正が安房国で一万石を領して北条藩を立藩し、北条の仲町に陣屋を築いた。  正徳元年(1711)第三代屋代忠位(ただたか)の時、財政建て直しを名目とし、藩用人川井藤左衛門は検地と増税を行った。これに対し、薗村名主五左衛門、湊村名主角左衛門、国分村名主長次郎の3名を代表とした27ヶ村の農民の一団は年貢減免を申し出たが受け入れられなかったことから、次には江戸屋敷、更に老中へ直訴した。 . . . 本文を読む

B-1 >高須別院

2005-06-24 18:52:45 | B-1 >水野太郎左衛門系
宝永二年(1705) 第六代水野太郎左衛門政良作 時鐘  高須藩は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、幾たびか改易、廃藩を繰り返してきたが、元禄13年(1700)、信濃国伊奈郡・高井郡・水内郡内に三万石の所領を得ていた尾張藩二代藩主徳川光友二男の松平義行(1656-1715)は、所領の半分である一万五千石を高井郡・水内郡の領地と、美濃国石津郡・海西郡内の領地とに交換された。よって高須に居所を定め、再度、高須藩が成立し松平義行が初代高須藩主となった。 . . . 本文を読む

C-4 >沼津城

2005-06-16 19:45:10 | C-4 >松本沼津水野
三枚橋城は、天正七年(1579)、武田信玄の子勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して築城したものといい、関ヶ原合戦後の慶長六年(1601)には大久保治右衛門忠佐(ただすけ)が城主になりました。しかし、同十八年(1613)の忠佐の死後世継ぎがなかったため大久保家は断絶となり、翌十九年、三枚橋城は廃城となりました。 . . . 本文を読む

C-3 >駿河田中城/田中城下屋敷

2005-06-16 05:14:37 | C-3 >山川山形水野
田中城の起源については、はっきりと分からない点が多いが、15世紀に土豪一色左衛門尉信茂(いっしきさえもんのじょうのぶしげ)が、今川氏の命を受けて居城を拡大して築城し、徳一色城(戸久一色城=とくいっしきじょう)と名づけ、遠州の国人衆に対する拠点としたのがはじまりと言われている。田中城という名称は、のちに武田氏の手に移ってから用いられたようである。一色氏が没落した後は由井美作守正信(ゆいみまさかのかみまさのぶ)が入場した。 . . . 本文を読む

C-8 >浜松城(2)

2005-06-15 17:38:28 | C-8 >新宮水野
第六代浜松城主水野対馬守重仲(1570~1621)  父水野忠分(ただちか)は徳川家康の家臣であり、重仲も天正四年(1576)家康に出仕。同十六年(1588)大番頭 として5500石、同二十年(1592)武蔵・上総で1500石を加禄される。慶長十年(1605)には伏見城の在番にもあたり、同十二年(1607)常陸に1万石を与えられ、水戸城に移り徳川頼宣の所領水戸を治める。 . . . 本文を読む

C-3 >浜松城(1)

2005-06-14 18:00:51 | C-3 >山川山形水野
「浜松城は、徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、十七年間在城した。東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三の丸、二の丸、本丸、天守閣と連なり、順次高きを増す。ここは、天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、老中まで栄進したものが多い。中でも水野越前守忠邦の名は、よく知られている。石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。 浜松市」 . . . 本文を読む

Z-1>関東・東北再会の旅

2005-06-10 18:22:21 | Z-1>雑記
9日は、朝5時に前橋を出発し、ほんとうは、パソコン旧友のべこちゃんと会う予定でしたが、 わたしの予定が半日ずれたしまったことから、急遽再会が不可となってしまった。べこちゃん ごめんなさい。 次に二本松城址へと向かう。最初は小高い山の裾にある建物を観ていたが、更に上に本丸跡が あるということで、急な山道を何度も休憩し、息を整えながら登っていた。 . . . 本文を読む

B-2 >八事興正寺 遍照院

2005-06-05 11:43:03 | B-2 >水野平蔵系
尾張高野と称せられ、東西二山から成り、東山を遍照院、西山を普門院と称し、真言宗に属する。元禄年中(1688-1704)尾張二代薄主、徳川光友により建立が許された。その後五世諦忍により、西山にさらに阿弥陀堂が建立され、浄土を興隆した。 東山西山ともに阿弥陀堂に阿弥陀如来座像を安置、本尊としているが、総本尊は東山最高地呑海峯(どんかいほう)にある、大日堂安置の銅製大日如来座像である。 . . . 本文を読む