【当記事の全写真および詳細地図の提供者:☆∞ツチノコ柏崎乗継さん】
水野三郎右衛門元宣(その1)
山形藩城代家老 水野三郎右衛門元宣(もとのぶ)についての資料を、今般「山形市観光案内センター」から送付いただき、入手できたことから紹介したい。
水野忠元を祖とする山川水野家の末裔である老中水野忠邦が、天保の改革を断行したものの抵抗に遭い失敗し失脚したことで、家督を嫡子の忠精(ただきよ)に譲ったが、父の咎により左遷され、浜松藩から五万石に減碌され山形藩に転封した。それに伴い、浜松に生まれた山川水野家の分家である水野三郎右衛門元宣(もとのぶ)も、弘化三年(1846)、四才のとき山形に移住した。慶応二年(1866)、忠精は嫡男忠弘(ただひろ)に家督を譲り、元宣が二十二才の若さで家老職を継ぎ、幼君忠弘の補佐にあたった。その後山形藩は、官軍方として交戦したが、薩長軍の参謀世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両藩の呼びかけに応じ、奥羽越列藩同盟に加わったものの、同盟の主要な藩が降伏し、山形藩も慶応四年(1868)九月十七日、ついに新政府軍に降伏した。山形藩主忠弘は十三歳と若年であったため、新政府から反逆の罪に問われた際、元宣は「山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、他に犠牲者を出さないよう努力した。翌明治二年(1869)五月二十日、藩の責任を一身に負い二十七才の若さで長源寺庭において刑死した。
以下は、山形城大手門東南にある豊烈神社境内に設けられた水野元宣像の説明書および神社リーフレットから抜粋した。
◎「水野元宣像の記」 (地図B)
水野三郎右エ門元宣は、天保十四年(1843)、遠州浜松に生れ藩主のお国替えにより弘化三年(1846)、四才のとき山形に移住し、二十二才の若さで家老職を継いだ。文武両道にすぐれ家中藩士の信頼を一身に集めた。
明治維新の政変の際、藩主は京都に居って不在のため、藩の運命は弱冠二十六才の首席家老元宣の双肩にかかっていた。慶応四年(1868)春、薩長軍(官軍)は仙台から山形に進入し、山形藩は官軍の命を受けて庄内征伐のため長崎口まで進撃したが、庄内軍の不意の襲撃に合い損害を受けて敗走、戦火は山形市街地の目前に迫った。元宣は領民を救うため苦心惨憺身を挺して奔走し山形市民を兵火の災害から救った。
山形藩は当初官軍についたが、薩長軍の参謀世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽同盟を結成し官軍に反抗することとなった。しかし間もなく各藩相ついで降伏することとなり、新政府から反逆の罪に問われた際、元宣は「山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、他に犠牲者を出さないよう努力した。翌明治二年(1869)五月二十日藩の責任を一身に負い二十七才を最期に長源寺庭において刑死した。
明治維新当時の山形藩は五万石であったが財政は苦しく充分な武器の備えもない状況の中で官軍と隣接大藩との板ばさみにあい山形藩をいかに保全するか元宣の苦悩は大変なものであった。明治維新改革後山形市が米沢・新庄の大藩をさしおいて県庁所在地となり今日の繁栄あるのは元宣が身をもって難に殉じ、山形の街を兵火の荒廃から救ったためであり、まさに山形市民の大恩人と称すべきである。
元宣の遺徳を後世に伝えるため旧藩士を始め市民有志により明治三十四年(1901)銅像を建立したのであるが昭和十八年(1943)第二次世界大戦完遂のため供出されたので昭和二十一年(1946)に郷土の彫刻家服部午山の作による現在の塑像が再建されたのである。
(豊烈神社の水野元宣塑像説明板より)
◎豐烈神社(ほうれつじんじゃ) (地図B)
山形県山形市桜町7番47号
◇御祭神(説明板より)
水野忠元(豊烈霊神)、水野忠邦(英烈霊神)、八阪大神(素盞雄尊)、
稲荷大神(倉稲魂姫)、山ノ神(大山祗命)、明治維新殉難者二十四柱(山形藩)
◇由緒・沿革
文政四年(1821)
遠江国浜松城主 水野忠邦公が藩租水野忠元公を城内に祀り、朝廷より豊烈霊神の称号を賜った。
弘化五年(1848)
忠邦公の子忠精公山形移封に際し、山形城二の丸内に豊烈神社を遷座した。
明治三年(1870)
忠精公の子忠弘公 近江国朝日村に移封の際、豊烈神社を山川(茨城県結城市)に遷座した。
明治十三年(1880)
水野藩士勧請して、豊烈霊神様の御分霊を戴き、現在地に豊烈神社を建立して香澄町(旧三の丸地内)の氏神様とする。(現在氏子戸数約二千戸)
明治三十五年(1902)
水野三郎右衛門元宣の銅像建立。
明治四十一年(1908)
神社庁令により、香澄町各所に鎮座していた八坂神社・稲荷神社・山神社を合祀する。大正二年(1913)
山川の本社を、ここに遷座併合する。
大正十年(1921)
水野藩中興の祖 水野忠邦公(英烈霊神)を合祀する。
昭和十八年(1943)
水野元宣銅像は戦争のため供出、昭和二十一年(1946)現在の塑像建立。
昭和三十年(1955)
明治維新に際し山形市を戦火の災害から救った水野三郎右衛門元宣、山形防衛戦で戦死した大久保伝平知敬以下二十三柱を合祀する。
◇御祭神(説明板より)
水野忠元(豊烈霊神)水野忠邦(英烈霊神)八阪大神(素盞雄尊)稲荷大神(倉稲魂姫)山ノ神(大山祗命)明治維新殉難者24柱(山形藩)
◇打毬
霞ヶ城最後の城主水野公が練武のため藩士に奨励あそばされたもので毎年10月6日の大祭には境内に馬場を設け紅白に分かれ古式豊かに行なわれる
(神社の説明板およびリーフレットから抜粋)
打毬(だきゅう)=二組みの騎馬に分かれ、馬上から毬杖(ぎっちよう)で毬(まり)をすくい取って自分の毬門に投げ込むのを競う古代の遊戯。
大陸から伝わったもの。平安以降、庶民の間では徒歩で行われた。まりうち。(大辞林)
山形豊烈神社の騎馬打毬
◎曹洞宗淵室山 長源禅寺(長源寺) (地図C)
山形県山形市七日町3-3-5
山形城主鳥居忠政が、伏見城で戦死した父元忠の菩提を弔うために建立。
水野元宣の墓がある。
(「城下町やまがた探検地図)から抜粋)
元宣終焉の地、堂は「大悲殿」 水野元宣の墓「自性院無外宗本居士」
◎水野三郎右衛門元宣 宅址 (地図A)
山形県山形市大手町1
(「城下町やまがた探検地図)から抜粋)
「碑文」 平沢東貫 撰
水野藩家老水野三郎右衛門宅址
此處は水野藩の家老水野三郎右衛門氏の宅址である。明治維新の際
氏は身を以て難に殉じ市民を戦禍より救った。爾来八十餘年、當時
の建物は取除かれ、敷地は刑務所の一部となり唯池邊の老松だけが
残って僅かに昔の名残を留めて居たがこんどはそれも枯れてしまった。
そこで旧藩に縁故有する私共が相謀り、此碑を建て聊敬慕の情を表す
る次第である。
昭和二十九年五月二十日
香 澄 倶 楽 部 建 立
会長 齊 藤 知 二
☆旅硯青鷺日記
既投稿記事「山形城」の同日記でも触れたように、 山形城には、平成十七年六月十一日に採訪しましたが、取材時には事前に当神社を承知していなかったので、残念ながら採訪はしていませんが、今般山形市観光案内センターさんから、山形県の色々な観光案内資料と共に「豊烈神社」「水野元宣」に関する資料をご送付いただいたので、未採訪地ではありますが、今のところ再び採訪する予定が立たないことから、事情をお断りした上で投稿することにしました。
*なお、「水野元宣塑像」の写真については、同センターからコピーしてもらったものを戴いたので、残念ながらモノクロの写真しか入手できなかった。*
昨年末、蓮花さんから紹介されたテレビドラマ『河井継之助 ~駆け抜けた蒼龍~』(2005年12月27日 21:00~23:24 日テレ系放送)の主人公「長岡牧野藩家老 河井継之助」もまた幕末に薩長軍と戦かわざるを得ない状況下にあって、なお領民の事をおもい、戦いを避けようと奔走したことと、この元宣がなんだか共通したイメージで重なるように感じました。
●当初は水野元宣の塑像写真を上記のようにモノクロで掲載しましたが、それをご覧になった「パソコン通信pc-van」時代からの友人で、ハンドル“☆∞ツチノコ柏崎乗継さん”が、3月26日(日)、まる一日をかけて当記事関連箇所を訪ねて、写真撮影をしてくださり、先ほど「CD-R」にして郵送してくださいました。まるでプロが撮った写真のように構図も優れ、鮮明な画像でしたので、その内の数枚を掲載させていただきました。☆∞ツチノコ柏崎乗継さんのお優しいお気持ちに心から感謝申し上げるととも改めて敬意を表します。m(__)m
2006.03.29 17:00
小河水野系図
家系図を調べ、なぜ唐津から山形まで行ったのかを知った時、水野家との繋がりの深さを改めて知りました。
私もいつか山形へ行きたいと思います。
やっぱり近いですね^^
山形水野藩の筆頭家老は、水野元宣だったようですが、牧野家もまた家老職でいらしたのでしょうね。
元宣が一身に責任を取って死罪となったことで、牧野家も救われたということなら、元宣の本懐は達せられたことになり私もなんだか嬉しく思います。
>3代目のお墓は、長源寺から3,400m離れた(上の地図で言うと長源寺の右下)場所にありました。
あのぉ、ひょっとして340mとは違いますか、その付近には沢山の寺院があるのですが……(^^;
山形の人達はとても清純で我慢強い人達が多いようです。東北地方で難しいとされた「さくらんば栽培」を最後まで諦めずに、根気よく研究努力したからこそ今日の「さくらんぼ王国山形」があるのだと、昨年訪れた折に、パソコン通信時代からの友人☆∞ツチノコ柏崎乗継さんから教えていただきました。蓮花さんも、いつか、ぜひぜひ訪れてみてください。(^^)
検索したら半径500m以内に長源寺と浄善寺が入りました☆
本当にそんな気持ちになりました。
それをお伝えしていたつもりだったのに書き込みし忘れてました><
3代目・長穪の長男であり4代目の長政がちゃんと家系図を残してなく(自分の名前しかなかったんです^^;)どれだけの子供が居たのか判りませんが、本当に牧野家の血が絶えずにここまで続いた事に感謝しなければいけませんね。
山形に行った時は、必ず手を合わせたいと思いました。
そしてこの事を家族や親戚にも伝える使命を私が頂いたのかもと(大袈裟ですが^^;)思いました。
やはり、長源寺の南東で直線距離450mに、牧野家菩提寺の淨善寺がありました。蓮花さんから聞いたときに直ぐに「ここだろう」とぴんと来ましたよ。山形市最大の浄土真宗寺院の専称寺に隣接していますから、もしかして同寺の塔頭かもしれませんね。
私も昨年までは全く予定もしてなかったルーツ採訪を始めることとなり、蓮花さんと同じように、先祖から使命を与えられたのかも知れません。今一度気を引き締めて取り組みたいと思います。
元宣公のおかげでこうやって、蓮花さんともお友達になれたのですから、感謝感謝です。(^^)
文久2年(1862年)の水野藩分限帳に蓮花さんが書き込みをしていた"牧野"姓が4名ほどいます、2名は岡崎出身と思われるので、残りの2名は可能性があると思います。名前を教えてもらえば調べられると思います。
ちなみに私の方は浜松、唐津時代の情報を調べていました。
ご先祖が水野藩士で、菩提寺が山形市の淨善寺だそうですが、お住まいは現在も山形市なのでしょうか。
牧野氏については、いずれ蓮花さんからコメントがあると思いますので、それまでお待ち下さいね。
「浜松、唐津時代の情報」を調べておられるとか。水野氏に関する新たな情報がありましたら、またお知らせ下さいませ。
これを機会に、ぜひBBSにも常駐なさったくださいね。
またまた書き込みいただいてありがとうございました。
その後、インターネット検索で、下記のことが判明しました。もしかして、この「七 水野氏分限帳(文久二年) 1977 」のことなのでしょうか?
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山形市史編集資料(第1~35号)
山形市史資料(第36~63号)
51 山形藩各氏の分限帳
一 鳥居氏分限
二 保科氏分限帳(寛永二〇年)
三 奥平氏分限帳
四 堀田氏分限帳(享保一〇年)
五 松平(大給)氏分限帳
六 秋元氏分限帳
七 水野氏分限帳(文久二年) 1977
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■山形市史資料
問い合わせ番号 1000000128017
資料区分 図書
書名 山形市史資料
書名巻次 第51号
著者名 山形市史編集委員会/編
書名ヨミ ヤマガタシシ シリヨウ
著者名ヨミ ヤマガタシシ ヘンシユウ イインカイ
各巻書名 山形藩名氏の分限帳
出版地 山形
出版者 山形市史編集委員会
出版年月 197803
ページ 190p
大きさ 21cm
分類記号 K264.1
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103257160・K264.1/ヤマ/51・禁帯出・K郷土資料閉架・郷土資料・貸出禁止 104505761・K264.1/ヤマ/51・禁帯出・K郷土資料閉架・郷土資料・貸出禁止
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