∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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【point】本ブログは、時代を区切らず総合的に「水野姓を名乗る人物の足跡を追う研究」を行っています。この外「水野氏」と関連した氏族など水野氏と何らかの関わりがあれば、本研究の対象としています。【comment】みな様からご意見・ご指摘・ご感想などのコメントを頂けると幸いです。なお「コメントを受け取らないよう設定された記事」へのコメントは「掲示板」にお願い致します。【access】サイドバーのアクセス状況「トータル閲覧数・訪問者数」については、「gooブログ アドバンス」が新設されてからの数値累計を入力したものであり、本ブログ開設時から63日間のアクセス数は含まれません。【since】2005-03-14(Blog), 1988-11-14(Network activity)

●ご質問・お問い合わせのコメントについて

 ご質問やお問い合わせのコメントをいただいた場合、その時点で管理者が解る範囲でお応えしておりますが、その後かなり日数を経て、それに関する史料の所在が判ったり、またブロガーのみなさんからご教示いただき、その内容が判明する事が多々ありました。その場合ご質問者のご連絡先が判っておりますと直ぐにご報告できるのですが、過去には連絡不可能で残念ながら折角判明した内容をお伝えすることが出来無いケースもありました。こういったことを回避する為、「ご質問・お問い合わせのコメント」については、本ブログの「コメント欄」ではなく、本ブログ用「掲示板」にメールアドレスを記載し(非公開)投稿されることをお勧めいたします。尚、「コメント欄」には、ご住所、電話番号、メールアドレスなどの個人情報は書き込まれないようお願いいたします。管理者へのメールは、サイドバー・ブックマークの「 [\/] ∞ヘロンへメール」からご送信下さい。

C-1 >神守山 楞巌寺

2005-09-06 08:28:23 | C-1 >小河氏系水野
§刈谷水野家の菩提寺(水野信元・忠重の廟所)  曹洞宗の寺で、山号を神守山と号す。応永二十年(1413)遠州浜松 普済寺(*1)の利山義聡が開き、多くの修行僧が集まり禅の修行道場として盛えた。第七世古堂周鑑のとき刈谷城主水野家の菩提寺となった。徳川家康の生母於大は、周鑑禅師に参禅(*2)し、得度(*3)をうけた。寺宝の「伝通院(*4)画像」は、愛知県指定文化財、「伝通院調度品」「華陽院(*5)画像」「水野忠重画像」は刈谷市指定文化財、「水野家廟所」は刈谷市指定史跡である。 . . . 本文を読む

B-2 >池浦山 順慶寺

2005-09-04 20:01:31 | B-2 >水野平蔵系
 第八代水野平蔵近房は、明和七年(1770)に生まれ、天保八年(1837)に六十七歳で没している。このことからこの喚鐘は、近房晩年五十歳の円熟期に造られたものと判る。鋳造されてから、およそ百二十五年後の第二次世界大戦下においては、全国各地で金属製品の強制供出により、多くの秀作や貴重な作品が次々と溶かされ武器に変えられていった。 . . . 本文を読む

C-3 >龍海院 是字寺

2005-09-03 15:00:36 | C-3 >山川山形水野
〇山川水野第六代 岡崎藩主 水野忠輝(ただてる)の墓      山川水野家は、初代水野忠元に始まり、二代忠善(ただよし)が下総山川から駿河田中藩に転封し、次に三河吉田藩へ、更に岡崎藩へ転封された。このことにより、二代忠善を初代と数えることもあるが、当ブログでは、忠元を初代とする。 . . . 本文を読む

C-1 >成道山松安院 大樹寺

2005-09-03 10:39:06 | C-1 >小河氏系水野
〇水野信元と嫡男信政殺害の地(『修羅の器』澤田ふじ子著 より抜粋)  岩村城(岐阜県恵那市岩村町)は、源頼朝の重臣加藤景廉(かげかど)が文治元年(1185)、遠山庄地頭に補せられ創築されたものであり、戦国時代には、東は甲信の武田信玄、西は濃尾の織田信長、南を三遠の徳川家康といずれも天下を狙う武将達に囲まれ、各々の重要な前線地となっていた。 . . . 本文を読む