おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

地方経済の疲弊を救う手立て

2008年04月11日 23時02分38秒 | 内閣

「憲法と教育基本法を守り続けよう。 」ブログから
http://blogs.yahoo.co.jp/y2001317/30734078.html



ここに2008年4月7日付けで、井上寿一東大教授が「格差社会と政党政治」と題して論じている。

経済分析の専門家は、すでにアメリカ発の世界恐慌の再来を織り込んでいる。ところが日本では、中央銀行の総裁のポストが空席である。暫定税率も解決の目途が立たない。日本の政治は党利党略で混乱している。

国内の格差拡大社会では、ニート、フリーター、ネットカフェ難民たちが、「路上生活に身を落とす」時代を迎えつつある。

プロレタリア文学の代表作、小林多喜二の『蟹工船』が描く過酷な労働のありさまと今の自分たちの境遇を重ね合わせる若者たちがいる。格差の是正のためならば、戦争も厭わない、戦争による社会の平準化に賭ける戦争待望論すらある。(赤木智弘『若者を見殺しにする国』)

これらすべての兆候は、1930年代の日本を想起させる。昭和恐慌下の日本では、経済的な困窮が社会不安を招いたにもかかわらず、政友会、民政党の二大政党は党利党略の政争に明け暮れていた。民心は二大政党から離反しつつあった。



まさに現代と一緒ではないか。守銭奴財閥が支配する二大政党政治のあと、日本は軍部主導の国になっていく。

平和党はかつてと同じようなパターンの中で、いかに武人政権を作るか、そしてかつてと同じ間違いを繰り返さないための提言をしている。

政友会と民政党の二大政党政治に対して、国民は離反した。現代でいうならば、自民党は駄目だが、民主党にも期待できない・・・というところにまさに現れている。

これはなぜ起きるのだろうか。それは富のパイをお互いが奪い合っているからである。だからここに平和党がさらに参加しても何の利益ももたらさないばかりか、党利党略に巻き込まれることとなる。

したがって、富のパイ自体に意味をなくさせる。富がストックすることにおいて力を持つこと自体に問題があるとし、減価する通貨制度を地域において実施する自然主義経済を我が党は行うのである。

そうでなければ、我が国は、戦争に触手を伸ばさねばならなくなるからである。これではかつてと同じことになる。

(19)30年代の日本の国民は、満州事変から日中全面戦争へと拡大する戦争を支持した。労働者は景気に伴う高賃金を獲得し、戦時食糧増産を促進するために、国は農民に小作料の減免を認めた。出征した男たちの代わりに女性が社会に進出するようになった。

これが軍人・武人政権時代に、女性の地位が向上する理由である。
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/34053666.html



男が武勇の仕事に向けられると、社会では女性の社会進出が始まる。逆に、経済人時代では、男が武勇の仕事でなくても頭脳や金の運営においてなすことが多くなり、女性でも仕事ができるようになる。肉体労働の必要がなくなると女性が経済社会に進出するが、それはあくまでもゲゼルシャフトでの進出であり、女性が地域社会や家族社会での活躍をなくさせる。

つまるところ、女性の地位は経済人時代・守銭奴時代には、低いものとされるのだ。したがって戦時中、「日本は男尊女卑だった」という考えは正しくない。軍人・武人時代こそ男女同権となりうる。女性は子供を産むから尊ばれる。男性が外に出ているから、母が家庭を切り盛りし、家を守る。

経済人時代の女性の地位向上は形でしかなく、おろかなフェミニストを生み出すだけだ。女性の地位向上を経済進出と同じものとし、金を稼ぐ女性はえらく、家庭で家事をしている女性はえらくないという、「経済優先主義」に巻き込まれていくのだ。フェミニズムの基準は、貨幣を獲得できるかできないか・・という、守銭奴のロジックにハマってしまうのである。

そして、彼女らフェミニズムの台頭によって、ますます女性の地位は落ちていくのである。

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国民は戦争が格差を是正することに期待し、自由よりも平等のために、戦争を支持した。

他方で国民は、新しい政党政治の枠組みを求めていた。

党利党略で自滅した二大政党制に用はない。国民は第三の政党の無産政党、社会大衆党を躍進させ、政友会よりはましな民政党との連携に、社会民主主義的な改革の実現を託していた。



ナチス・ドイツの誕生もこれと同じような経緯だ。つまり国民が貧しくなると、社会民主主義政策を支持する。そしてそれが戦争拡大路線に走るのだ。だから富というものに対してストックさせることは、きわめて危険なのだ。社会民主主義も市場競争経済も、富をストックさせるという、つまり戦争の要因を残している点においては全く同様なのだ。

そして過去の歴史を見れば、格差社会の拡大は社会民主主義を支持し、それが戦火の拡大になるということを我々は学ばねばならない。

今、小泉政権以来、弱肉強食の市場経済がなされ、規制緩和がなされ、格差拡大がなされた。このようなときに現れるのが、「富の再分配」をうたう悪魔である。
登場する当初は天使のように見えるが、富を争奪するという点において、彼らは同根であるために、それが引き金となって、無残な社会を作り出してしまう。

私が、昨今の日本の右傾化に対して何の警戒も持たないのはここにある。そんなことよりも、むしろ日本が右傾化していくことによって、反戦運動家・市民運動家・社会民主主義者などの鬱積が問題だ。


これが戦争の引き金になる。小泉純一郎や安倍晋三両内閣時代では戦争は起きないが、現在ではありえないと考えられる志位和夫内閣や福島瑞穂内閣において、平和は脅かされるのである。

歴史はつねに皮肉を持つからだ。消費税に断固反対した社会党が参議院選挙で躍進したからこそ、彼ら社会党委員長・村山富市内閣の手によって消費税は3パーセントから5パーセントに引き上げられたのだ。

自民党を最も利権政治にならしめた小沢一郎新生党代表幹事の手によって、利権政治破壊のための小選挙区制がなされたのだ。

これらと同様に、今まで日本政府が北朝鮮に対して甘い措置を続けてきたから、保守から極右の人たちが今、ここぞとばかりに調子に乗っているのを見ればわかるだろう。彼らは今までエネルギーを蓄えてきたために、今爆発しているのだ。ということは、必ずその逆の現象が起きる。

したがって、日本に戦争が起きるとするならば、日本の右傾化を促進している活動家によってではなく、反戦や社民政策を支持しているようなところから生まれる。

戦争は、戦争好きの人たちが政権にいるから起きるのではなく、戦争嫌いのときに、風が吹けばおけ屋が儲かる式に行われる。

現代はお金という原因によって戦争が引き起こされている。米国がイラクを叩くのも、アフガニスタンで掃討作戦をするのも、米国政府は戦争が好きなのではなくて、お金が好きだから軍人の命や他国民の命を犠牲にしてまでも戦争を行うのだ。

だから平和党は左右どちらの立場にも立たず、どちらの立場をも理解しながら、新たな自然主義経済という方法を提唱しているのだ。つまり旧式の左右思想の束縛から解放するために、平和党は結党されたと言ってよい。


かつての時代、日本国民は社会大衆党に託した。しかし、これは富を富める者から貧しきものに流すという、金銭の移動でしかない。平和党が提唱しているのは、この金銭の移動を無意味なものにする自然主義経済であるから、社会大衆党の理念はそのままでも、政策としては全く逆なのである。


しかし、時代は社民的なものをやがて求めるだろう。その受け皿は社会民主党には相当しないように思われる。国民新党や新党日本にそれらが適応しそうだが、それか若しくは、この郵政民営化反対政党や社民党が、民主党と合併した時、国民は熱烈にこれを支持し、民主党は今よりももっと社民的な方向に転換したとき、民主党政権ができるだろう。



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そして、文化人にもそのような傾向が強く出ている。

戦時下における下流階層の国民のきまじめな改革志向は、今の日本にもあてはまる。たとえばネットカフェ難民の巧みな代弁者、雨宮処凛氏の主張は、社会的なセーフティネットの整備である。

あるいは戦争待望論を期待する赤木氏が求めてやまない「思いやりのある社会」である。この人たちは、安易に保守化、右傾化に与することなく、社会民主主義的な改革をめざしていると言ってよい。

しかし、当時と今とでは大きなちがいが二つある。かつては下流階層の政治的な受け皿として無産政党があった。今は無産政党に代わるものがなく、政党政治への回路が開かれていない。もう一つは、戦争がもたらす社会の平準化作用に期待しても、今日の国際政治情勢のなかで、日本が戦争を起こす可能性は限りなくゼロに近い。政治的な行き場を失った下流階層の国民、戦時中よりも困難な状況に陥っていると言っても誇張ではない。




以下、井上寿一氏は、二大政党ではなく複数政党による民主主義を訴えている。

だが、我が党からしてみると、二大政党であろうと複数政党であろうと、あまり関係がないといえる。

細川政権時代まで、我が国は複数政党制度であった。

ほぼ、自民・社会・公明・民社・共産の五党に加えて、新自由クラブや社民連などで構成されており、このときから今は二大政党になっているが、細川・羽田政権の11か月を除いて自民党が政権にある。

格差拡大による貧困の発生は、国政などでは解決されない。
自然主義経済も当初は国政では解決されない。

地方において、各々の自治体の自主的選択によって可能なものである。

そこが戦時中と違うところになるだろう。

自治体の議会というものは、国政に比べればはるかに党派性に左右されず、地元性に左右される。

党派性に左右されるのは、東京を首都とした「お金の利権」が存在しているからである。地元性に密着したならば、お金に依存しない、つまり格差社会と無縁な、自給自足自治体が可能だからだ。そのためには減価する通貨制度によって地産地消こそが、地方の疲弊を救う手立てである。





足を引っ張られても動じない不動心

2008年04月11日 22時59分59秒 | 財務金融
自然主義経済の実現について、「できない」「無理だ」「負ける」「時間がかかる」「つぶされる」というような表現で、足を引っ張る人間が必ず出てきます。そのようなものは払いのけるのが一番良いのです。

彼らと論争になってしまうのは、彼らと同調しているから、波動が合ってしまうからです。波動が合うのは、彼らと同じレベルになるということです。真に平和を目指し、自然主義経済を理解しているのならば、彼らは全く相手にならないのでむしろ慈愛を持ちたくなるぐらいでなければなりません。

一応、私の方で論理的な説明はできますが、彼らはまず否定が頭にある。そのために彼らは己の頭脳やありとあらゆる情報を屈指して否定してきます。

しかし否定をするということは、彼らにとってエネルギーの停滞と多くの病害をもたらします。損するのは彼らであるから、なるべく早めに切り上げることです。

彼らの攻撃に対して真正面からぎりぎりまで受け止め、打撃直前にかわすのがもっともよい方法です。または、彼らの攻撃に対してそのエネルギーを回転させる。こうしたことが求められます。

基本的に自然主義経済は九割の人が足を引っ張ります。それは自分の利益のための人もあるし、長年の思い込みの人もたくさんいます。知や財に支配されている人たちは必ず阻止しようとします。

でもそれはそれでいいのです。われわれには技があるからです。力に勝る技です。

http://heiwatou.web.fc2.com

漢民族の崩壊が新国家観を作り出す

2008年04月11日 22時59分09秒 | 外務
「大きいことはいいことだ」とされたのは前世紀で終わりです。
産業も重厚長大から軽薄短小に移りました。

今度は国家が、重厚長大から軽薄短小に移るでしょう。

国家にとって、重厚長大が利益をもたらすのは、より多くの資源、より多くの食料、より多くの貨幣獲得の機会に恵まれるからです。

したがって、先の大戦ではより多くの植民地、より多くの領土を求めて争われました。

その後、植民地のほとんどは独立しましたが、今でもお金の力、大資本によって植民地と同じ状態です。

自然主義経済が各国で導入されると、楽して得たお金の力によって、遠くの生産物を買う・・・ということがなくなります。この結果、格差社会は国内・国外を問わず解消されます。

これはつまり国家政府にとってみれば、徴税利権が薄くなるということです。政府にとって徴税利権がないのであれば、宗教や思想の要因を除けば、戦争をする必要もなくなります。

自然主義経済は、貨幣所持が損害をもたらすため、余剰金は公共の福祉に回されます。したがって、徴税によって政府が公共事業をなす必要性も、社会保障を調整する必要もなくなります。

ならば、国家政府というものは大きくて損、小さくて得ということになります。

この「小さくて得」という国家制度が自然に調和したありかたなのです。

インドという国は、我々彼らをインド人と呼びますけれども、そもそもは彼らは「インド」であるという意識がない。インドと名付けたのは英国です。あの半島を一挙に植民地にしたときにそのような名称として認識させたのであって、インド人自体はあれだけ広い最北端から最南端まで、同じ国家であるとは考えていなかったのです。「インド」国内は言語も多数存在するし、民族も違う人たちです。

それが植民地から独立することによって、同国としての認識ができただけの話です。したがって、インド以外でもすべては、西洋諸国の価値基準によって国境がひかれただけの話です。

これはインドだけではありません。インドネシアは二億人の人口がいますが、島が何百もあり、言語も何万とある。民族の数もけた外れに多い。ところがここも植民地支配によって一国と勘定されるようになったのです。

タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマーみなそうです。たとえば、ミャンマーにはミャンマー語があるけれども、それはあくまでも首都で使われていた言語を国家として統一しただけのことであって、ミャンマー語が話せない住民も奥地にいます。

地図に書いてある国境線というのは、彼らを支配した西洋諸国が勝手に引いたものであり、日本の右翼の人たちが言っている「国粋主義」というものも、西洋諸国が作った価値観なのであって、日本の本来の民族意識にあったものではないのです。

だから、誰もかれもが、この西洋の価値観に立たされているのです。

しかし、自然主義経済という価値観が生まれることによって、世界の国家観が変わります。

この国家観が定着すると、アジアがもともと持っていたアイデンティティに帰結することになるでしょう。すなわち、それぞれの国家において、民族単位・自治単位で政治運営が図られるということであり、本来に帰るということです。

インドネシアは一国にあらず、インドは一国にあらず、そして一国でないのに、経済的に発展ができるという素晴らしいシステムです。

「馬鹿なことを言うな。中国はアジアでありながら、清時代以前から大国であったではないか」と言う人もありました。


現在の中華人民共和国から、国内の自治区や台湾をすべて独立させたとしても、それでも漢民族の数は多いです。しかし、彼らは西洋近代化によって一つの国にさせられているという面があります。

以前ならば、北京語・広東語・上海語となっていたものですが、今では北京語に統一されている。彼らが一国でなければならない理由というのは、経済的な強さを求めるからです。

しかし、もし紙幣を求めず、資源そのものを求めることが、真の経済発展であると気が付いたならば、彼らのやっていることは、いかに逆行しているかということがわかるでしょう。

ダライラマ14世は、チベットの独立ではなくて自治を求めています。しかし北京政府は
彼らに自治権を確立させるのではなく、チベット独立を認めないととんでもないことになります。自治などとして自分の国の一部だなどとすることは中国の崩壊を招いていることに等しい。

膨張しきったものは、必ず崩壊します。バブル政治です。

そして、彼らは他民族にまで手をつけたために、自国の漢民族自体の分裂をも引き起こすでしょう。それが積極的に政策としてやるか、それとも引きつられた結果、いやいややるのか、ここに大きな違いが出るでしょう。

積極的にやるならば自然主義経済を導入することによって、毒入り餃子などという問題はおきません。なにしろ、自分たちで食べるのですから、安全に注意するでしょう。そして漢民族は分割することが効率のいいことだと気付きます。

消極的にやるというのは、今のまま資本主義でも社会主義でも、貨幣主義であることは同じなのでどっちでもいいのですが、その場合は漢民族の崩壊を意味し、戦乱を作ってからまた資本主義でやり直すか、自然主義経済を考えるか、どちらかになるでしょう。

いずれにしても中国は、自治区以外の本体が崩壊するということです。こうなってくると、なぜ今まで台湾は国連に加盟できなかったのか・・と国際世論は考えます。

そのときに、国家というありもしない呪縛から解放されるでしょう。

平和党公式サイト http://heiwatou.web.fc2.com

遠距離グローバルから近距離ローカルのための自然主義経済

2008年04月11日 22時58分31秒 | 財務金融
私は毎週日曜日の夜九時に、道場で銃剣道を個人指導していただいています。

この時間帯に、車を走らせると、途中二か所ほど学習塾があるのですが、その塾の周りは保護者達の車でいっぱいになっているのを見かけます。

この道場においても同じです。親御さん方が子供たちを迎える。これらは東京で生まれ育った私にとっては、実に見慣れない光景でありました。

東京区部ならばたいがい皆、歩くか自転車でしょう。三多摩のほうはまた違うかもしれないが、大都市部では、塾や稽古帰りに、親が車で送り迎えすることなどほとんどないのではないでしょうか。

でも東金市のような田舎では、車がないと生きていけません。そしてこれが全国的には一般的なのだろうなと感じました。

私は全国一自動車の保有台数の少ない中野区にいましたが、この東金市に引っ越してしばらくは徒歩と自転車で頑張りました。しかし、あっち行って次の時間までにこっち行くということが絶対に不可能であるために、ついに車を買い、車での交通手段ばかりになりました。レーサーを断念して以来、車を買うのは実に18年ぶりです。人生の18年ごとに車を買うのだろうか。

今は女性でも老人でもドライバーになっています。かつてはそれほどなかったはずです。まして「アクセルとブレーキを間違える」などという馬鹿な事故もなかった。今は、誰でもが手軽に車に乗るようになった。これはいったい何を意味しているか。


都市部では人口が密集しているため、自宅と塾が近い、農村部であると遠い。ただそれだけのことですが、では車がさほど普及していなかった時代に農村部の子供はどうしていたかというと、やはり歩くなり自転車を使っていたのではないでしょうか。

だから私が子供のころなんかは、地方から転校生がやってきたりすると、たいがい喧嘩が強い。足腰がよく鍛えられているからでしょう。

ところが自分が大人になってみて、私が不動産業を営んで、よく気づいたのですが、地方から東京に上京するためにアパート探しに来る人たちに物件を案内すると、すぐに彼らは疲れてしまう。

当社では、物件案内に車を使わず電車と徒歩で案内します。地方から出てきた若者はすぐにバテてしまうのです。

東京の人間は、ふだんから電車に乗り降りしていますが、地方で育った現代の子供や若者は、小学生時代は学校まで歩くけれども、あとは皆、親が車で送り迎えする。18歳ですぐに免許をとって車での交通手段が多くなる。だから東京の人間よりも地方の人間は足腰が弱いのです。

そんな東京の中でも、世田谷区・練馬区・足立区などは、駅から遠いところもあって車での移動が多い地域もあるので一概には言えませんが、とにかく都市農村問わず、車社会になっていることは事実です。

一方で、東金駅の商店街を見ると実にさびれている。旧道沿いの商店街もさびれている。40歳くらいの東金の地元の人に聞くと、彼らが子供のころはこの商店街が栄えていたんだと言います。

そう言われば、私の地元である総武線東中野駅も、自分が子供のころはもっと栄えていた。でも今では、近所で買い物すると高いので、電車で五分しかかからない新宿や二分で着く中野に出る。みなそこで買い物をすませ、レジャーをすませる。家の近くのお店には一度も行ったことのない人が増える。そして地域コミュニティは崩壊し、地域教育が忘れ去られる。

そして勤務形態もそうです。中野区民の半分以上は新宿をはじめとした他区に出ています。練馬区民は池袋近辺、目黒・世田谷あたりは渋谷でしょう。地元のアイデンティティが衰退するのも当然です。新宿駅で署名運動したことがありますが、200人集めて新宿区民は一人もいませんでした。

大資本による大量生産・大量消費の経済システムが地元商店を食い荒らし、人々の交通を遠くにさせているのです。

東金市や山武郡、茂原市や長生郡で考えてみると、新しい店はすべて国道沿いに位置し、すべてがフランチャイズであり、大規模小売店であり、チェーン店です。すべて店内は画一化された規格にのっとって大量生産された省コストで建てられています。

ガソリンスタンドというものも、かつては路地にもあったのですが、現代では幹線道路でしか成り立たなくなっています。

小さな居酒屋もこじんまりしてたくさんあったものが、どんどんつぶれていく。チェーン店の安さにはかなわないからでしょう。飲酒運転が問題になってくるのもここに原因があります。歩いていける距離に飲み屋がなく、車で移動しなければならないところにある。

商店は商店の集中するところ、住宅は住宅の集中するところ、こういう都市計画をやってきた。そしてそれは大資本にとって有利であった。これが資本主義を加熱させた。人々にとって移動手段の自動車を必要とさせた。

多くの諸問題は街のコンパクト化によって解決されるということです。

しかし大資本によるものは強い。これに対抗できるのか自然主義経済というわけです。

小規模の商店は、その店ならではのものができます。しかし、全国共通のお金・目減りしないお金では、必ず大資本に負けます。コストがかかるからです。

しかし地域通貨・目減りするお金ではどうなるでしょうか。

地元産のものを直に売ります。そのためには緑や自然が必要です。木材の加工も必要になってきます。廃れた林業を再生できます。金属品はリサイクルするしかありません。しかし通貨が時間とともに減価するので、石油を使わない限りはこちらのほうが得です。そして石油は輸入に依存していますから、自分たちでエネルギーを生産するでしょう。太陽光発電が必要になるし、バイオ燃料が必要になります。

医療は西洋科学よりも、地元産の薬草・ハーブあるいは予防治療を中心とした東洋医学になっていくでしょう。

どこに廃棄されるかわからない化学薬品も、地元で限定されれば自然に還るものを選ばざるを得ない。

そして、近距離において経済圏が成り立ちます。

グローバルに対してローカル経済を作るのが自然主義経済であり、これが格差社会を生き抜く、貧者たちの光となるでしょう。

愚者は環境に支配され、賢者は環境を道具に使う

2008年04月11日 22時57分54秒 | 安全保障
江戸時代の日本人は、優れた身体の状態であったと言われています。
 ほとんどの人がオリンピック選手並の身体能力を持っていたようです。
 江戸時代の浮世絵を見てみましょう。絵に描かれている人物は、身体運動の専門家から見れば、とんでもなくハイレベルな身体の使い方をしているということです。



江戸時代の人の身体使い
http://www.sinpi.org/03/

では、今なぜ江戸時代の文化にこだわっているのか。
それは、すばらしい文化が日本にあったということを誇りにしていただきたいし、またその良いところをなくしてしまわずに今後も引継ぎさらに発展させていくことが必要なのではと思ったからです。
自然と調和したこの日本文化は、環境汚染や環境破壊で問題になっている現代こそ学ぶべきところでしょう。

http://www.eonet.ne.jp/~uresi/edo.html


江戸文明を捨てたものを現代では保守政治と呼ぶようだ。

西洋科学を基準としたものを保守と呼び、平和党のような考えはトンデモとされる。

どうしてこのようになるかというと、物質にばかり目がとらわれるからである。

物質は意識にコントロールされている。

戦後、アメリカの画策により、「日本人には動物性蛋白質が足りない」として、マクドナルド戦略に乗せられたのも一因。

江戸時代までは、日本人はごはんとたくあんと味噌汁で、オリンピック選手になれたのである。


だが、現代人はこれがわからないのだ。

あれがなければダメ、これがなければダメ・・・と物質や制度、環境などに限定されてしまう。理想の実現のためにはまずはこれ・・・などと、自らが狭い自分を作ってしまう。己で条件を悪くさせてしまっているのである。

愚者は環境に支配され、賢者は環境を道具に使う。

意識がすべてに優先する。後ろ向きの考えが浮かぶ人には、後ろ向きのことしかできない。前向きの考えが浮かんだ人によって、前向きのことが実行される。

塩田剛三十段取得の経緯について

2008年04月11日 22時57分08秒 | 法務
タイトルからして、塩田剛さんが三十段なわけではないです。念のため。でもそれに近いような話です。

http://www.geocities.jp/aikidokayama/kawaridane/kawaridane4.htm
によれば、

合気道の植芝盛平開祖と、養神館の塩田剛三宗家との逸話が書かれてある。

植芝翁やその他の人々が「岩間の奥ノ院」というのは、茨城県岩間町にある盛平翁の住居である。

 翁がここに千坪あまりの原野を買って、その松林の中に、はじめ仮小屋のような家を建てたのは昭和十五、六年であったが、そこへこもって修行のやり直しに専心したのは日本敗戦の年であった。

 その時から「力にほこる者はほろぶ」「合気道は戈(ほこ)を止める道だ」「その道を完成しよう」との大悲願を立てて、一心不乱の幾年となった。

 したがって、岩間時代の初期には、翁は至って悲観的で、自分のそれまでの合気をほとんど否定し、新しい道を模索していた。

 だから門弟の塩田剛三などがたまたま岩間を訪れて、

「先生は高齢で衰弱し、隠居してしまった。合気道の二代目はオレだ」とばかり、都民銀行の工藤昭四郎や国策パルプの南喜市の後援で、新宿区築土町に養神館道場を建て、合気の元祖のような態度で多くの門弟をあつめたのは、いささか短慮であった。

 塩田は植芝子飼の男で、道場長吉祥丸などといっしょに育った男だが、翁の真の精神を体得したとはいいがたい。

 若松町の本部道場が吉祥丸や藤平光一のこん身の努力で、隆隆と発展してくると、塩田のパトロンの南喜市が「本部道場と養神館を対等にしてくれ」「塩田に十段の段位をくれ」と申し入れてきたのに、

 「おう、おう、好きなようにさしたる。十段でも百段でもやる」と笑って答える翁であった。

 あとで翁は著者に語った。

「合気は段位でも道場の格でもない。そんなもんとはおよそ無関係や。南はんはシロウトやさかいしようがないが、塩田が、そないな世間のミエにこだわっているかと思うと、かわいそうでならん。ハダカ一貫になってわしのところへかえり、もう一ぺん修行をやり直したらええのやけど、あきまへんかなあ」

武道に段位というものが設けられているが、私自身は全く意味のないものだと思ってきた。政治家のプロフィール欄によく何道何段とか書いてあるのをみて、かつては「あ、こいつ馬鹿だ」ぐらいの認識があった。まあ、はっきり言って給与を払わなかった山本譲司元衆議院議員のことなのだが、ここまで思う必要はないけれども、ある程度の目安としては必要であると同時に、これにこだわるのはどうかと今は思う。

合気道の初段は、柔道三段・剣道三段ぐらいに取得が厳しい。通常の武道よりも二、三段上のようだ。・・・・と言っていること自体、気にしているのかもしれない。

逆に森田健作氏などは自分で剣道何段だとは言わないので、それが気になったりする私自身を買垣間見るに、やはり段位にこだわっているのかもしれないなとも思い反省する。

ちなみに私が山本さんと立川で飲んだ時、山本さんは「森田健作は史上最大のバカ候補者」であると言っていたことをここで暴露しておきます。

柔道・剣道で知る段位の認識としては、通常は八段までがその極めるところであり、よほど特別な場合に九段があり、さらに特殊な場合とか、新たに分家できるほどの場合は十段なのだろうなという認識がありましたが、植芝翁においては、百段でもくれてやるという。

現実に百段なんてもらったら、それこそ、よくあるふざけたクイズ番組で、
「それでは最後の問題は、得点が十倍です」
「おいおい、じゃあ今までのは何だったんだよ」的な突っ込みも出なくもないですが、

植芝翁にしてみれば、それと同じような感覚だったのではないかと考えられます。

このリンク先では、どうも塩田氏について下に見ている様子があるようですが、やはり晩年の塩田氏は植芝的宇宙レベルまでにはいたらなかったけれども、やはり武道というものは戦闘ではなく、平和のためにあるということを悟りながら、現実武道の方法を多くの人たちに教授したのではないかと私は思います。

政治ポジションテスト外交編

2008年04月11日 22時56分03秒 | 外務
http://seiji.yahoo.co.jp/guide/position/diplomacy/

●テロとの戦いには、軍事力以外の手段でのみ参加すべきだ
まったく同意しない
そもそも、テロと戦う筋合いはない。

●自国と密接な関係にある同盟国が武力攻撃を受けた場合、同盟国とともに、自衛行動をとるべきだ。
同意する
やられたら助けるのは当然のことであるから、とっとと日米同盟を解約すべきなのだ。

●発展途上国へ政府開発援助(ODA)を提供する場合、自国の資源確保やテロ防止等の戦略的観点よりも、人道支援を重視すべきだ。
まったく同意しない
人道支援と思ってやっていることは、単なる経済優先主義の拡大である。


●他国の安全を脅かす国へは、対話よりも圧力を優先させるべきだ。
まったく同意しない
対話が先。圧力は下の手段。しかし、対話の前に勝つ必要がある。

●国際紛争は、国連を中心に解決すべきだ。
まったく同意しない
国連は国際紛争の当事者によってできた組織である。

●地球温暖化に対しては、京都議定書で定められた国際的なCO2削減の数値目標達成を前提とするのではなく、各国が独自の対策を行えばよい。
まったく同意しない
各国が独自になしても解決しないが、各国が連携してできるものでもない。そもそも地球が温暖化しているのかという問題がある。フランス政府の策略ということもありうる。

●他国が自国の政策に干渉してきた場合、話し合いによって解消していく努力をすべきだ。
同意する
いきなり殴りかかれとでも言うのだろうかね。

●国際秩序を維持する上で、軍事力は重要だ。
まったく同意しない
軍事力以前の武力が最も重要である。

●輸入農産物に高い関税をかけても、食料自給率を高めるべきだ。
同意する
高い関税をかける必要もないが、食料自給は自然主義経済によって可能。

●外国人労働者は、単純労働者を含めて積極的に受け入れるべきだ。
まったく同意しない
お金がグローバルに動くから外国人労働者が必要になってくる。自然主義経済ならば外国人労働者を必要としない。

●海外の低価格商品との競争にさらされている地場産業に対する経済的支援を、積極的に行うべきだ。
まったく同意しない
経済的支援とは、財政措置を言うのだろうが、それはパイが移動しているにすぎない。自然主義経済は地域通貨の役割をもっているため、中央政府の財政支援を必要としない。

●労働力が安価な海外へ、国内業務をアウトソーシングすることはやむをえない。
まったく同意しない

●企業経営は、グローバルスタンダードよりも、自国の企業文化や商慣習を尊重すべきだ。
同意する

●海外から自国への投資には、制限をかけるべきではない。
同意する
制限などなくても、減価する通貨であれば自国での内需拡大は可能。

●海外のテレビ番組や映画の放送・配給規制は必要だ。
まったく同意しない

●外国企業を税制面などで優遇する企業誘致政策を積極的に進めるべきだ。
まったく同意しない



あなたは「ローカル指向のタカ派」です!
http://seiji.yahoo.co.jp/guide/position/diplomacy/kekka.html?px=6&py=5


【ローカル指向】
あなたは、経済の国際化には消極的で、国内産業の保護・育成を重視する考え方を持っているようです。しかし、地球規模の市場やトレンドの変化に取り残され、国際的な競争力が低下していくことも考えられます。

タイプ別 身近にある論点
「関税による自国の農産物の保護」が、例としてあげられます。WTO(世界貿易機関)やFTA(自由貿易協定)の交渉でも、この論点は重要な議題となっています。輸入農産物に高い関税をかけ、国際競争から国内農家を守ることは、食料自給率の維持・向上、食の安全確保、国土の環境保全を図ることができるといったメリットがあります。一方、デメリットとして、消費者にとっては農産物の選択肢が少なくなり、価格が高騰するなどの点が指摘されます。





【タカ派】
あなたは、力による国際秩序を重視し、自国の利益のためには、単独行動も辞さないとの考えを持っているようです。しかし、強攻策や軍事費の増大が、かえって他国の反発を招いて軍事的緊張を生んでしまうといった意見もあります。

タイプ別 身近にある論点
「イラク戦争」が、例としてあげられます。大量破壊兵器を有している可能性があったフセイン政権を、アメリカが主体となって圧倒的な武力を用いて短期間で倒し、イラクの民主化を目指しました。しかし、宗派・民族対立による治安悪化に歯止めがかからず、イラク復興が難航する状況が生まれました。このため、軍事力のようなハード・パワーに強く依存する外交手段に見直しを求める意見もあります。


このグループに近い考えの政治家

・シャルル・ド・ゴール (元フランス大統領。核武装を推進。北大西洋条約機構<NATO>から脱退し、欧州経済共同体<EEC>への加盟を拒否)

・ウラジーミル・プーチン (ロシア大統領。新興財閥の解体を進め、大企業の国有化を推進。チェチェン紛争では武力侵攻を強化)





感想・・・・

農産物の選択肢が少なくなり、価格が高騰するなどの点については、自然主義経済で解決される。

平和党はイラク戦争は反対の立場であり、軍拡にも意味なしとしているのですが、このような回答が出てくるのは、、、、、やはり機械だね。

ドゴールもプーチンも、クシャトリアだからよしとするか。


http://heiwatou.web.fc2.com

東金市議会でたらい回し議長選挙

2008年04月11日 22時55分18秒 | 内閣
昨日、東金市議会で議長選挙及び副議長選挙が行われた。

その結果

●議長
今関正美氏(70)=3期目
自民党東金市支部副支部長
東金市家徳125-10

●副議長
石渡徹男氏(58)=3期目
自民党東金市支部選挙対策委員会委員
東金市上武射田577


が選出された。

地方自治法には、議長は四年が任期となっているのだが、たいがいどこの議会も、最初の二年で議長は辞職してこのポストをたらい回すのである。東金市議選から三年経った今、東金の場合は、議長選挙は一年ごとに行われるのだろうか。私は途中から引っ越してきたのでよく知らないが、前回の東金市議選の時、千葉県知事選挙と同時に行われていて、私は議会新聞の編集長として取材にきたことがあるから、三年前であることは覚えているのだが、この議会では一年ごとにたらいまわしている可能性がある。

二年ごとにしろ、一年ごとにしろ、

元議長とか、前議長とか、そういう肩書が欲しいのだろうけれども、住民とはかけ離れた彼らの特殊な慣習が存在していることを報告しておきます。

ところで、東京の中野区議会ではかつてこういうことがあった。

議長が二年経っても辞職せず、議長職にとどまると表明した。

これに議会はいっせいに反発した。しかしその議長いわく、自治法には議長の任期は議員の任期と同様に四年であると。

これはまことに正論なのだが、議長ポストたらい回しこそ正義であるとつとめる自民党はじめ腐敗議会人の慣習である。彼らの鉄のオキテをやぶるのだから、中野区議会の腐敗の諸君らは、この議長に対して不信任を出すとした。

しかし、その議長の言う通り、任期が四年であると法律で定められているのに、二年経ってもやめないのはおかしいじゃないか・・・・などという理屈が成り立ってしまうのが政治の世界である。

結局その議長さんは引きずりおろされた。

私がいつも言っている「憲法九条など守っても平和は達成されない」という理由についてわかるだろうか。法律や条文などというものは、政治力や軍事力、経済力の前には全く無力なのである。


最近では熊本県の錦町議会で同じようなことが起きている。
2006年9月の話だ。
1日にあった熊本県の錦町議会の臨時会で、「2年交代の議会慣例に従わなかった」との理由で正副議長に対する不信任決議案が提出され、賛成多数で可決された。決議に法的拘束力はなく、議長らは「議会内の暗黙のルールで議長職を持ち回りとするのはおかしい。議会改革のため辞任しない」と続投を明言している。

 同町議会事務局によると、町では約50年間、正副議長の2年交代制がほぼ慣例化していたという。地方自治法上、本来の任期は4年。03年8月に就任した蓑田喜徳郎議長と久保山欣哉副議長は7月25日の全員協議会でそろって留任を表明した。
 これに対し、臨時議会で議員から「議会の慣例を重んじず、議会運営に対する信頼を失った」と不信任案が提出され、採決の結果、14人中9人が賛成し可決された。

権力ボケで成り立つのが今日の議会であろう。

手刀の方法から考えた自然主義経済

2008年04月11日 22時53分54秒 | 財務金融
先週だったか、先々週だったか、銃剣道の道場で、剣道(他にも抜刀・短剣道なども指導)の先生が、正座の仕方について子どもたちにこう教えていた。

「正座をするときに手は指を閉じておくように。これはなぜかというと、昔の侍は正座して刀を床に置いている状態のとき、不意に敵から攻められたとき、刀をとれない。そのため手刀で対処する必要がある。そのためにも指をきっちりそろえておくのがその由来」だという。

私の場合は、言われなくてもそのように指を閉じてきたのだが、元来、人と違ったものの見方を心がけている私にとって、その教えの疑う余地を一生懸命に探した。

まっ先に思いついたのは、合気道での教えである。

合気道では、もちろん手刀を使うのだが、指を開けと言う。

指を開けという理由は、指先と指先の間から気が発するからであり、このときに最も力が発揮される。ところが指を閉じてしまうと肉体的な力が必要となってくる。

空手の場合は握り拳でいく。この場合、気は指の付け根からわずかに出ているが、ほとんどは握りこぶしの中で滞留してしまう。そして握り拳の場合は、その部分すなわち拳を鍛える必要がある。空手をやっている人の拳はつぶれていてまっ平になっている。日々、つぶしてつぶしてそれが強さになるのだ。だが、それについて否定はしないが、そんなことをしなくてもいいとするのが合気道だ。

手を握ってしまうと、気がそこに滞留してしまう。気の発するところは拳部分だけに限定されてしまうから、指を思いっきり開いて気を出して、肉体的な力を抜くのがよいとするわけだ。

内部にこもるというのはよどむということである。よどむというのは汚すことにつながる。だから開く、流す、循環をよくする・・・ということはとても重要なことである。

不健康の源はたいがいこの流すということができていないで、淀んでいくから起きる。手足に血が循環していないので冷たくなっていれば、必ずその人は不健康である。

そういう人は、へそ下に意識をもって血液が手足にぐんぐんと流れているのをイメージするとよい。すべて気によって病気はできているから、気によって健康にもなる。

気は、出せば出すほど、入りがよくなる。気は無限に存在しているから心配いらない。

しかし、資本主義経済の場合、商品も貨幣も有限である。貨幣は有限なのに意図的に無限なことをしているが、それをできる限り有限に意味づけようとして、架空の借金をたくさん作りだす。これが澱む原因である。

自然主義経済は、貨幣が減価するから澱みようがない。どんどん流れていく。

だが、自然主義経済は地域通貨であるから、内部に閉じている。そうなってくると山梨県民は寿司を食えない。ここで淀みが起きる。

横浜や川崎の人たちからすると、自然主義経済は商業圏として大いに彼らの利益をもたらすが、生産物を作ることに彼らは全く素人である。いきなり鍬を持てと言われても急にはできない。だから東京湾から海の幸を、山梨県から山の幸を買うのが「よどみない」ことになる。

政治的対立というものは、どういうところで起きるかというと、それは政府が「ストックできる富」を争奪するから利害関係が生じる。

自然主義経済の究極はこの「ストックできる富」から解放されることであるから、政治的自由を作り出すのだ。したがって、住民本位の自治となる。住民本位の自治は、必ず地元産だけで生活するにはあきたらず、他地域の生産物のものを欲しがるだろう。それは相手にとっても同じことだ。

だから争いが起きようもない。むしろ相手が違うものを生産していることによって相互協力が生み出される。これが自然主義経済の作り出す「国内貿易」である。

彼らは徴税から自由、政府からの自由が自然主義経済によって保障されているからだ。

またまた本日も、最初の話とは全く関係ない方向に進んでしまったが、これでよしとする。