教育、それも大学などの高等教育機関だけではなく、小学校、中学校、高校などに要約筆記のボランティアが増えている。
教育における要約筆記は、社会一般における情報保障と一緒に論じることは出来ない。なぜならば、教育に責任を持つのは第一義的に市町村などの自治体であり、教育機関だ。その上で、授業、講義は教師の責任で行われていることだ。
教師は、要約筆記を主体的に、授業の獲得目標に沿って、使っていかなければならない。要約筆記者は、教室で教師の話すことを聞いて要約筆記するのに、教師からそのことを指導を受ける必要がある。
しかし、現実には難聴の児童、学生のいる授業の場に、要約筆記者が行って、書いているだけのように思われるが違うだろうか。授業は、小、中、高校、大学と学校教育のどの過程であれ、教師はその単元ごとにその教育目標と獲得目標を立て、授業の流れを組み立て、その時に使う教材や副教材を用意している。授業の中でどういう冗談というのか、時事問題などを話すにしても、教育効果を考えている。
教師が、難聴の児童、学生にそれを理解させるために、要約筆記が使わうのでなければならない。自分が話したことは後はどう書こうとお任せではない。
教師は、自分が話したことがどのように要約されるのか、どういう言葉を使って伝えられているのかまで責任を持たなければならない。要約筆記は自分の言ったことと逐一正確に全部書いてもらえれば良いと考えているならば、要約筆記は授業に導入してはいけない。
要約筆記者は、授業の中で教師が話していることの意味、何を理解させようとして話しているのかを理解していなければ、その言葉を要約できないだろう。教師が言った冗談で皆が笑った時、それを書きたい時でも書かない判断も必要だろう。書くのならば、事前に教師と打ち合わせが必要である。
教師が単元の獲得目標をどう説明し、要約筆記者が何を理解すれば良いのかについて、コーディネーターが必要である。
教育の要約筆記にも専門性が求められている。この専門性の確立があって初めて、教育における難聴児童、学生の権利が保障されるのではないか。
教師の経験のある要約筆記者の方の意見を聞きたい。
ラビット 記
上)全難聴で要約筆記通訳のカリキュラムの検討が行われている。
下)ヘルシンキの夏は、さやえんどうとトマト。皆、街中で生のまま食べている。昨年の7月の国際難聴者会議に行った時の写真。