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秋分の日に

2010年09月24日 | 自然&生き物
昨日は、雨の秋分の日となりました。

皆さんのお近くでも、田んぼの畦道などに、この季節を代表するヒガンバナを見かける頃ではないでしょうか。
私の家の庭先では、赤ではなく、白いヒガンバナが雨に花を咲かせています。

この彼岸花、借金取り?のように、毎年必ず花の季節が訪れることは知りながら、しかもどこかでこのシーズンになると“いつかな、いつかな”と心待ちにする気持ちがありながら、咲いた花には、いつも“不意をつかれた、やられた”という印象を持ちます。

その名前や雰囲気から、比較的身近な場所に咲く花でありながら、どこか遠くの場所を指し示しているようであり、花の色や形は一見派手で艶やかでありながらも、そのどぎつさに不気味さを感じさせるというところもあって、どこか捉えどころがなく、位置づけにくい花と感じてきました。

それを裏付けるかのように、仏典に由来する曼珠沙華というありがたい名前の他にも、剃刀花や幽霊花、果ては地獄花・死人花という汚名まであって、この花には千以上もの別名や方言があるそうです。

“捉えどころがない”と言えば、彼岸花は全身が有毒ということで知られている一方で、先の大戦や飢饉の際には、飢えをしのぐ救飢植物として食用に利用されてきたという歴史があります。

このような彼岸花まで食さねばならなかった飢えを、私たちの先祖は、幾度となく潜り抜けてきた訳ですが、藁科川上流の大川地区の歴史を記した「大川村誌」に、以下のような記述を見つけました。

「この年(天保七年/1836年)里人糊口に窮し山に入り葛根薊根山芋苦薯を掘り或は楢の実を拾い食すると雖も栄養不足にして老人小児の如きは殆ど倒れ生存するものは身体強健なるものゝみなりと言う。又現今の中藁科奈良間等よりわざわざ彼岸花の球根採取のためしばしば本村坂の上、日向付近まで入り込み来れるものあり」。

また、陽明寺の過去帳によると、翌年の天保8年(1837年)には大飢饉の餓死者が164人との記録があり、翌1838年には49人と、この大飢饉が数年にわたって人々を苦しめたことが記されています。

飽食の時代の今、私たちにつながる祖先が、藁科川沿いに点々と咲いたこの赤い彼岸花の花を、血眼になって探し求めた時代を、花を見ながらに思った秋分の日です。


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