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朴大統領弾劾に反対するデモ隊、日本人教授をスパイとして警察に連行

2021-02-05 17:15:56 | 日記
朴大統領弾劾に反対するデモ隊、日本人教授をスパイとして警察に連行
 
=韓国ネット「国の恥さらしはまだ続く」「日本人が韓国語を話したらスパイ?」
Record china配信日時:2017年3月10日(金) 19時20分

2017年3月9日、神戸大学の木村幹教授が朴槿恵(パク・クネ)大統領の弾劾に反対するデモ隊に捕まり、警察に連れていかれる騒動が発生した。 

韓国・YTNによると、朝鮮半島地域の研究のため韓国を訪れていた木村教授は9日夜、デモ隊が遅い時間まで活動する様子を撮影していたところ、6〜7人のデモ隊メンバーに囲まれた。
 
デモ隊メンバーは木村教授の腕をつかんで道の端に連れていき、「おまえは誰だ」と尋ねた。
 
木村教授が韓国語で「日本人です」と答えると、「(韓国語がうまいことから判断して)朝鮮総連のスパイだ」と言って警察署に連行したという。 

木村教授は警察で約15分間の事情聴取を受けた。
 
木村教授は滞在するホテルの前を軽く散歩しているところだったためパスポートを所持しておらず、警察とデモ隊メンバーと共にホテルまで戻り、確認作業を行った後にようやく騒動から解放されたという。 

木村教授は「デモ隊は誤解が解けた後も謝罪しなかった」と明らかにした。
 
また、「学者として研究するためにデモの写真を撮ったが、彼らは非常に嫌がった」とし、「正しいと考えているなら自身の姿を広く知らせたいはずだが、なぜそこまで嫌がるのか不思議だ」と述べた。
 
さらに、「周辺に警察がなかったら集団リンチにつながっていただろう。
 
韓国で27年間研究してきたがこんなことは初めてだ。80年末にもこのようなことは起きなかった」と強調した。 

この報道に、韓国のネットユーザーからは
「国の恥さらしはまだ続く…」
 
「韓国の顔に泥を塗らないで」
 
「日本人が韓国語を話しただけでスパイ?」
 
「狂信者が愛国者のふりをしている。法治主義とは憲法主義のことで、愛国とは憲法ベースの国を愛すること。独裁者の娘である朴大統領を信じることではない」
 
「デモ隊メンバーを逮捕するべき!」
 
「恥ずかしい。代わりに謝罪したい」
 
「朴大統領と一緒に北朝鮮に移住して」
 
「韓国に日本のスパイが多いことは事実だが、早計だったね」など、デモ隊に批判的なコメントが多く寄せられている。
 
(翻訳・編集/堂本)
http://www.recordchina.co.jp/b162961-s0-c30.html

 


竹島島根の宝 わが領土

2021-02-05 17:01:43 | 日記
 

清水常太郎の「朝鮮輿地図」について

 

『朝鮮輿地図』

 

先般、神戸市在住の知人金慶海(キムキョンヘ)氏が、所属される兵庫朝鮮関係研究会の機関誌を送ってくださった。金氏とは先年鳥取県庁国際課が企画した日韓交流のゆかり発掘事業として、明治期の開化派朝鮮人政治家朴泳孝(パクヨンヒョ)の山陰地方での足跡調査でご一緒し知己を得た関係である。

 氏は『大阪朝日新聞』の明治27(1894)年7月5日付けの広告欄に、清水常太郎作成により『朝鮮輿地図』(図1)が発刊し、その題字は朴泳孝が書いたこと、価格は30銭という記事が掲載されていることを発見された。氏はすぐ地元の神戸市立中央図書館に『朝鮮輿地図』のコピーがあることを確認し、題字とその左横に推薦文と思われる簡単な文章と「玄々居士朴泳孝」の署名があるのを目にされた。

 朴泳孝の研究者として、金氏は本図も見ておく必要があると考えられ、上京して国会図書館で閲覧されたそうである。そして本図の内表紙に「此図ハ前年金玉均氏カ本国ヲ去ル時携帯シ来レル。彼邦無二ノ明細分間大絵図ニシテ、氏生前シバラクモ座右ヲ離サゞリシガ、先般上海ニ航スルニ及テ何思ケン当地ノ或貴顕ノ方ニ遣シ置ケリ(以下略)」とあるのも見つけられた。日本人の清水常太郎(光憲)がひとりで作成したと思っていた『朝鮮輿地図』に、朴泳孝、さらに彼と開化派の独立党の同志として活躍し、共に明治初期の日韓の鬱陵島問題にもかかわった金玉均(キムオッキュン)が関係していたことは驚きであった。

 金慶海氏に感謝しつつこの問題を少し追及してみたい。

 

 

 

 

家族について書かれた書簡

 

 まず朴泳孝と金玉均のことについて略記しておく。朴泳孝は1861年、水原の名門朴家に生まれ、若くして政治家の道に入り、当時の朝鮮国王哲宗の娘泳恵翁主と結婚(彼女は3ケ月後死去)するなど将来を嘱望されていた。明治15(1882)年朝鮮国内で民衆の暴動が起こり、日本の公使館も襲撃を受ける壬午(じんご)軍乱の後、謝罪のために日本へ派遣された修信使の正使として来日した。日本に滞在した約4ケ月間に彼は井上馨外務卿等日本の要人と積極的に交流し、近代化が急速に進んでいる日本の文物に接して帰国した。当時の朝鮮には中国の清国との関係重視を唱える親清派、ロシアとの接触を重視する閔(びん)氏一族を中心とする政治勢力等があったが、朴泳孝は日本との関係を重視する同志を結集した。そして明治17(1884)年12月、日本公使竹添進一郎の支援を受けて、金玉均等と甲申(こうしん)政変と呼ばれる政治的クーデターを断行。いったん政権を確保したが清軍の出動により日本に亡命した。「政変関係者の家族みな暴殺に」と当時の新聞は記すが、朴の母親、姉は殺害され、父は自殺、妻も入水自殺している。(図2:父母の殺害を伝える書簡)


朝鮮政府は日本政府に亡命者の逮捕、引き渡しを要請したが、日本では彼等を庇護すべきの世論が強く、福沢諭吉、勝海舟等はその論陣の中心となるだけでなく彼等に積極的に資金援助をおこなった。朝鮮側は日本の対応に反応して刺客を派遣して朴等を狙うようになり、朴も東京で襲撃を受けたことがあった。彼は山崎永春という日本名で各地を転々としながら身を守ったが、福沢諭吉と親交のあった鳥取県米子の町長、渡辺駛水(はやみ)の提供した米子町内の民家でかなりの長期間過ごしたことがわかっている。明治27(1894)年日清戦争が勃発し、日本の勝利で朝鮮での権益を拡大した。この年のうちに朴は10年ぶりに帰国したが自分の支持基盤の希薄さを知ると再び来日し、神戸に朝日塾という私塾を開設し、日本での勉学を目指す朝鮮の若者の支援に尽力した。その資金の獲得に各地で講演や自分の揮ごうした書の販売を積極的におこなった。明治36(1903)年には山陰地方に出向き、鳥取、倉吉、米子、松江、津山等で支援者に温かく迎えられている。松江市では福岡世徳市長等の臨水亭での歓迎会、松江一中(現在の県立松江北高校)での講演等で3日間を過ごしており、自筆の書も1枚1円で30円分を販売出来たという。明治43(1910)年日韓併合になると帰国し、政治家に復活し活躍した。現在韓国では親日一偏の売国奴的政治家という評価があるが、伊藤博文や井上馨等とも激論を交わし朝鮮国の将来を真剣に模索した民族主義派的人物として評価の見直しをもとめる声もある。

 

朴と金の顔写真

 

 一方、金玉均は1851年忠清道天安に生まれ、若くして科挙の文科に合格し政治家の道を歩みはじめた。明治15年、朴泳孝が修信使の正使として日本に来た時、金玉均は随行員でなく政府関係者の一員として一緒に来日し、朴の帰国後も長らく日本に留まり多くの日本人の知人を得た。帰国後のクーデターも行動派の金が首謀者とされ、日本へ亡命後朝鮮国から関係者引き渡しを迫られた日本政府は金を代表者として国外退去を命じたが、彼が受け入れなかったので小笠原諸島へ流罪にする形で対処した。明治27年3月、金はすでに日本国内での生活を許されていたが、アジアの現況打破を中国の政治家李鴻章との面談に求めて、彼の居住する上海(シャンハイ)に向けて日本を離れた。『朝鮮輿地図』の内表紙に「(金玉均氏)上海ニ航スルニ及テ何思ケン当地ノ或貴顕ノ方遺シ置ケリ」はこの時のことを言っている。上海に到着した金はすぐ本国の閔氏が派遣した刺客によって殺害された。金は日本を離れる時、恐らくは日本人の誰かに肌身離さずもっていた『朝鮮輿地図』を手渡した。李鴻章との接触が死を賭ける困難をともなうことを予感しており、長年自分をかくまってくれた日本、すでに避けられない時局にあった日清戦争直前の日本に、戦場になる可能性のある朝鮮半島の地勢を教えて去った可能性がある。(図3:朴と金の顔写真)

 朴泳孝、金玉均は竹島問題にかかわる明治初期の鬱陵島問題も関わっている。鬱陵島は朝鮮の史料で于山島と共に紀元512(日本の歴史では聖徳太子が推古天皇の摂政になるのが紀元593年)年、朝鮮に当時あった新羅国に征服された。その後も朝鮮の属島としての記録が継続するが、税金や軍役を忌避する国民が逃げ込む場所になった為に、15世紀初頭から入島を禁止する空島(くうとう・島をからにする)政策をとった。その無人島の状態にある鬱陵島へ17世紀初頭、現在の鳥取県米子(よなご)の町人大屋甚吉が漂着、友人村川市兵衛と幕府の許可を得て、70年余りこの島の産物獲得に渡海した。元禄5(1692)年鬱陵島で朝鮮人との出会いがあり、幕府は対馬藩に3年間にわたるこの島の問題について朝鮮国と外交交渉をさせたが、結局元禄9年日本人のこの島への渡海を禁止した。しかしこの島の豊富な物産を求める日本人はあとをたたず、今津屋八右衛門のように処罰を受けた者がいるにもかかわらず渡海者は続き、幕末には長州藩の吉田松陰、木戸孝允等の鬱陵島開拓論が出る始末であった。明治期に入っても明治9年に青森県人武藤平学、千葉県人斎藤七郎兵衛、翌年には島根県士族戸田敬義から開拓や渡海の願いが日本政府に提出されている。

 一方朝鮮政府も日本人の鬱陵島渡海を認知し、特に明治14(1881)年江原道観察使からの7名の日本人による伐木行為の報告を受けると、李奎遠なる人物を鬱陵島検察使として島に派遣すると共に、日本政府へ礼曹沈舜澤の名で抗議した。

 

明治16年訓令

 

 明治15年壬午軍乱に関する条約の批准を終えると、修信使朴泳孝も日本の外務卿井上馨に鬱陵島への日本人渡海を強く抗議した。井上も対応を受諾、三條太政大臣あての「邦人ノ蔚陵島渡航禁止ニ関シ上申ノ件並ニ決済」には、「御発令ノ義モ朝鮮使節帰国相成候上ニ有之候様支度」と、朴等使節団の帰国に合わせて日本国内への指令を発する配慮をしている。中心の訓令文は内務卿から各府県長官宛てに出されたものだが、「日本称松島一名竹島、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ従前彼我政府議定ノ儀モ有之日本人妄リニ渡航上陸不相成候条」としている。(図4:渡海禁止の指令)
一方、金玉均も日本から帰国後明治16年鬱陵島を含む東南諸島開拓使に任命された。鬱陵島へ来島した金は、日本人の進出の背景に島長全錫奎の私欲にからむ問題があることに気がついた。「全錫奎サキニ銭米ヲ貪リ、日本人ニ島長憑票(ひょうぴょう)ヲ与ヘ、其材木偸斫(とうしゃく・切り盗む)過去ヲ許ス」状況を上告し、全の処罰を求めた。しかし金は島で必要な船舶を日本の山口県から雇入れる等、親日的行動も多かった。これに対し日本側も、明治17年鬱陵島と済州島で日本・朝鮮の漁民間の紛争が起こると、済州島の通漁禁止を日本の関係県に命じる等、東南諸島開拓使の金への配慮を怠らなかった。

 明治15年に一緒に日本を訪問し、鬱陵島への日本人進出問題に共に関わり、親日的政党独立党を結成、クーデターに失敗すると共に日本へ亡命した朴泳孝、金玉均がもう一つ共に関係したのが、清水常太郎が編集した『朝鮮輿地図』である。

 金は原図の日本持ち込み者である。原図の特色は、八道、諸州府県郡、兵営・水営、諸鎮、名勝、各邑、山川、岬、港湾、島嶼等を書き込んだ朝鮮半島の全体図に、京城・元山津・釜山浦・仁川・漢江付近の5ヶ所の拡大図と、京城から主な都市への里程表が添えられていることである。また、海上には瓢箪形の島に竹島、丸い形の島に松島と書かれている。竹島内には中峰と猪田川の文字がある。中峰は多くの地図に記載される鬱陵島の聖人峯のことで、猪田川は鬱陵島の植生に竹田等とともに楮(こうぞ)田があるから、猪は楮の誤記と思われる。この竹島、松島の位置については川上健三氏がその著「竹島の歴史地理学的研究」でアルゴノート島を竹島、ダジュレー島を松島とする系統のものであると具体的に説明されている。『朝鮮輿地図』は明治27年7月に発刊され、同月日清戦争も勃発しており、中国や朝鮮の内陸を精緻に記載した民間の地図は他にもあるが、竹島、松島等海上の島は意外に粗雑な認識で記載されている。たとえば同年発行の『実測朝鮮全図』では鬱陵島の西側に于山島を載せる『八道総図』系統の記載であり、同年の炭谷博次郎著の『清国新地図』は現在の竹島の位置に鬱島、そのさらに東に竹島が描かれたりしている。

 さて、明治27年3月『朝鮮輿地図』の原図を日本に残して上海に向かった金は謀殺された。

 その3ケ月余りの後発刊された『朝鮮輿地図』の題字と跋文を朴泳孝が書いたのである。

跋文の頭書には太い字で「紹隆三寶」とあり、その後に二行の細字で「此是佛経語而生此之国民君之三大権也下読之焉」、最後に玄々居士の号と朴泳孝の実名の署名がある。最初の四字は「三寶を受け継ぎ盛んにしょう」で、続いては「三寶とは仏教の経典の仏・法・僧のことだが、現世では国家・民衆・君主それぞれの権利にあたる。その意味をお互いに考えよう」程度の意味で、朴や金が目指す朝鮮での立憲君主制の確立を、『朝鮮輿地図』を見ながら考えて欲しいと呼びかけたのであろう。玄々居士の玄は「はるかなことを思う」の意味で、未来の祖国を考える男との自称である。なお最初の「三寶を受け継ぎ盛んにしよう」と仏教用語を使用しての呼び掛けは、数カ月前に謀殺された同志金玉均への哀悼の心情の発露とも解される。

 さて、最後に清水常太郎についてである。彼は朴泳孝や金玉均と接点のある人物であったか大変興味があるが目下不明である。彼は別名光憲といったこと、明治25、26年頃京都市上京区に居住していたこと、明治25年「高等小学読本字解」、「蓮如上人御一代記図絵」、明治26年「帝国市街全図」、「朝鮮輿地図」と同じ明治27年には「支那地図」、「日清韓三国輿地図」の著者であり、「朝鮮輿地図」の内表紙の中村鍾美堂の広告には、清水光憲先生著として「日本管轄分地図」、「朝鮮地誌要略」、「支那要略」が掲載されているが、それ以外の彼の個人的動向は不明である。


聖将と呼ばれた男  陸軍大将の今村均

2021-02-05 15:32:16 | 日記

今村均


今村均 
(いまむらひとし) 

 

部下の戦犯容疑者救出に尽力 
「真の武士道を見た」3畳の小屋に自己幽閉 

 現在の日本は、「リーダー不在の時代」にあると言われることがある。

リーダーとは責任を取る者であるとすれば、陸軍大将今村均の一生は、その一つのモデルを示している。

戦犯容疑者となった部下を一人でも多く救うため、責任の一切を自分自身で引き受けようとしたのである。

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今村均

聖将と呼ばれた男

  陸軍大将の今村均は南太平洋にあるニューブリテン島のラバウルで、終戦(第二次世界大戦)を迎えた。

南方作戦の指揮に当たっていたからだ。

戦後、彼が取った行動はまわりを驚かせた。

司令官として罪に当たるものが何ら見いだせないにもかかわらず、自ら戦犯(戦争犯罪人)として獄中に身を投じようとしたのである。


  起訴されていた部下を一人でも多く救おうとしたからであった。

戦後、23年間生きた今村は、そのうち9年間を戦犯として獄で生活した。

部下を刑死から救出するため、彼は責任の一切を自ら引き受けようとさえした。

こうした彼の行為は、敵国であった連合国側においてすら称えられた。聖将と呼ばれるゆえんである。

陸軍士官学校へ

  今村均は、1886年6月28日、仙台市に生まれた。

判事であった父の虎尾と母清見の間の7番目の子であった。

中学卒業後、一高(現在の東大教養部)を目指して、東京で勉学中の時、父の死の知らせを受ける。

母の許には他に7人の子があり、一番下はまだ4歳。

母は学費のいらない陸軍士官学校への入学を強く希望した。

今村は大いに悩み苦しんだ。自分が軍人に適した男には思えなかったからである。
 

迷う今村の背中を押したのは、観兵式で見た天皇の行列と国民の姿であった。

時は日露戦争の真っ最中、天皇の行列が「万歳」を叫ぶ国民の熱狂の中に迎えられる。

その様子は、今村の心を揺さぶらずにはおかなかった。

君民一体の日本、これが日本のお国柄なのだ。今村の心は決まった。

「陸士受験する。不合格なら現役兵を志願する」と母に電報。18歳の決断であった。

妻の死

  1907年6月に陸士を卒業し、今村の陸軍生活が始まった。

1915年には、陸軍大学校を首席で卒業、陸軍内でのエリートコースを順調に昇り始めていた。

そんな今村に内的な転機が訪れたのは、駐在武官としてインドに渡った時である。

1927年7月中旬、単身でインドに向かった今村は、到着直後、高熱を発し倒れ込んでしまった。

マラリアだった。発病から2週間、意識もなく死線をさまよった。

ようやく危機を脱し、側頭部に痛みを抱えながら、療養生活を続けていた時、妻銀子の兄から突然、電報が届いた。

「銀子難産、病院にて世を去る」。
 

そのままドカッとベットに倒れ込んでしまった。

「こんなにも涙が続くものかと思われるほど、私は嘆き悲しんだ」と後に書いている。

銀子との結婚生活は11年。3人の子を残して、30歳の若さで世を去った。

残された子供たちの泣き声が瞼に浮かび、眠れぬ夜が続く。

今村は自分を責め続けた。妻への愛情不足が妻を死に追いやったように思われてならなかったのである。
 

心身共に憔悴しきっての帰国。そんな今村を慰めたのは、仏教の教えであった。

特に『歎異抄』を読んで親鸞に傾倒した。

仏の救いの御手の中に自分を委ねるという他力の教え。

ぐいぐい引きつけられ、大事なところは暗誦できるまでになる。

以来、若い頃学んだ聖書とこの歎異抄、この二つをいかなる時にも身辺から離すことがなかったという。

部下が戦犯として収容

  太平洋戦争が日本の敗戦という形で終わった。

帰国の日を心待ちにする兵士たちの前に暗いニュースが飛び込んできた。

今村の部下の内、69名が戦犯容疑者として指名され、収容されてしまったのだ。

「処罰すべき者がいると言うならば、私一人を裁けばいい。部下はみな私の命令を実行したにすぎないのだから」。

ニュースを聞いて発した、今村の最初の言葉であった。


  部下を思う今村の指揮官としての態度は、戦中、戦後で実に一貫していた。

戦時中、ラバウルで今村が実施していた現地自活計画もそうだ。

10万の将兵を絶対に飢えさせないという今村の愛情と責任感から出たものであった。

土地を開墾し広大な耕地に作物を栽培した。

また地下要塞計画を打ち上げ、巨大な地下防空壕を築き上げてしまった。

そこでは各人が6畳ほどの部屋すら与えられ、飢えを知らなかったという。

「勝ち目のない戦いで部下の生命を失うぐらい大きな犯罪はない」と今村は考えていたのである。
 

戦争が終わって半年後の46年2月、ラバウル港に到着した復員船に今村の次男純男が船医として乗り込んでいた。

上層部の計らいであったのだろう。しかし、今村は息子に会おうとしなかった。

部下の中には戦犯とされ、死刑まで宣告された者もいる。

どうして自分だけが息子に会うことができようか。そんな気持ちだった。

今村の気持ちの中では、戦争はまだ終わっていなかったのである。

戦犯の慈父として

  1946年4月末、今村は豪(オーストラリア)軍のラバウル戦犯収容所に入れられた。

入れられたと言うより、自ら入所したというほうが正確である。

豪軍司令部に何度も足を運び、ついに豪軍が根負けした形での入所であった。

入所した今村は部下を救うことばかりを考えていた。

「戦犯裁判は戦闘であり、作戦である。これは勝たねばならない」と語り、「一人でも多く救う」という目標に向かい、思いつく限りの手を打って戦った。
 

この戦犯裁判は、実に理不尽なものであった。

日本の軍人による、インド人、中国人、インドネシア人への虐待が問題とされた。

特に問題となったのは、日本軍では平常行われていたビンタ(平手打ち)である。死刑の宣告を受けた者が続出した。

大半は、「この程度のことで…」というもの。裁判に名を借りた一種の復讐劇に他ならなかった。
 

今村の主張はこうだ。

インド人、中国人などはそもそも戦争俘虜ではない。

日本軍が雇った外人労働者であり、彼らへの虐待があったにせよ、それを一般俘虜と同列に連合軍が裁くのは不当である。

それでもどうしても裁くのであれば、監督指導の位置にいた最高指揮官の自分を責めるべきであって、個々の将兵を裁くべきではない。
 

聖書に親しんでいた今村は、迷える一匹の小羊の話を思い浮かべていた。

帰国する兵士が99匹の小羊であるなら、戦犯容疑者は迷える一匹の小羊である。

心寂しく悩んでいるこれらの羊たちを見捨てることはできない。

今村は、迷える彼ら小羊たちと運命を共にする道を選んだのである。

そして、戦犯容疑者の心の支えとなり、彼らの慈父であろうとした。

裁判をはじめとして一身上のことなど全て、相談に乗り、一つ一つに助言を与えた。

マヌス島へ

  今村自身、死刑を覚悟していたが、予想に反し、禁固10年の判決であった。

彼はこの判決を受け入れた。処刑される若者たちを彼らの両親に代わって見守ることは、自分に課せられた義務であると考えたからである。

ラバウルでの今村の戦いは終わった。

自分の責任を明確にし、部下の罪を少しでも軽くしようとした努力は、日本兵に勇気と感動を与えただけではない。

豪軍も今村に敬意を表し、尊敬心を持って遇した。
 

今村が日本への帰国を果たしたのは、1950年1月。

残りの刑期を巣鴨刑務所で過ごすためであった。

すでに年齢は63歳、7年半ぶりの帰国である。

しかし、彼はここで驚くべき行動に出た。

刑務所長に何度も面会を求め、マヌス島への移送を頼み込むのである。
 

マヌス島は、ニューブリテン島の北西にある島で、豪軍の収容所があり、彼の部下が戦犯容疑で多数収容されていた。

彼は以前、部下であり、マヌス島に収容されていた畠山国登から手紙を受け取っていた。

重労働、粗食、非衛生で病人が続出。

このままでは半数も生きて祖国に帰ることができないという。

彼らを見捨てることはできない。命ある限り彼らと行動を共にするのが自分の義務であり、運命であると彼は感じていた。
 

今村は粘り強く自身のマヌス島移送を訴えた。

帰国して1ヶ月後、今村は家族らに見送られて、横浜港を出港した。

この時、マッカーサーは次のようなコメントを述べたという。

「日本に来て以来はじめて真の武士道に触れた思いだった」。


 マヌス島に到着した今村を戦犯容疑者たちは大歓声で迎えた。

彼らは今村を囲んで、その夜、明け方まで語り明かしたという。

彼に手紙を書いた畠山は、「この日の嬉しさは生涯忘れられない」と語っている。

釈放後も自己幽閉

  1953年7月豪軍はマヌス島の刑務所を閉鎖したため、全員帰国となる。

残りの刑期を巣鴨刑務所で過ごし、出所したのは1954年11月。

今村の獄中生活は実に9年の長きにわたった。

自宅に戻ったのは、ラバウル出征以来、12年ぶりのこと。

しかし、彼の戦後はまだ終わってはいなかった。

自宅の庭の隅に建てさせた3畳一間の小屋で独居生活を始めたのである。

部下を死地に追いやった罪責の念を抱いた自己幽閉なのであろう。刑務所の延長のような生活を始めるのである。
 

小屋を出るのは、戦犯刑死者の遺族を訪ねるとき、それと旧部下の支援のために動くときに限られていた。

今村の家に旧部下がよく訪ねてきた。

中には怪しげなものもあり、明らかに今村を騙そうとするものが少なくなかった。

知人が見るに見かねて、「騙されてますよ。相手の話をまず確かめるべきではないですか」と助言した。

今村は、「それはわかっております。だが、戦時中、私は多くの部下を死地に投じた身です。だから、生きている限り黙って旧部下に騙されてゆかねば……」。

彼は、脳卒中で倒れた後でも、不自由な足を引きずりながら、旧部下たちの支援のために奔走した。
 

1968年10月4日、ついに今村の休息のときが訪れた。享年82歳。

安らかな最期であったという。

晩年の今村は「生き身のまま仏様になってしまった」と言われた。

友人は今村の死顔を見ながら言った。

「とうとう本当の住み家に帰ってゆくのか。もう自分を責めたりしないで、のんびり休みたまえ」。


75歳医療費、2割負担へ 年収200万円以上対象

2021-02-05 11:04:57 | 日記

75歳医療費、2割負担へ 年収200万円以上対象

 
共同通信社
 

政府は5日、75歳以上の医療費窓口負担について、年金を含む年収200万円以上の人を対象に1割から2割に引き上げる医療制度改革関連法案を閣議決定した。

今国会での成立を目指す。

実施時期は2022年度後半とし、法成立後に政令で定める。

引き上げ対象は約370万人。

高齢者に手厚い給付の仕組みを見直し、現役世代の負担軽減を図る狙い。

 現在、75歳以上の人の医療費窓口負担は原則1割。

単身で約383万円以上と現役世代並みの収入がある人は3割を負担している。

これに2割負担の枠を新設する。

単身だと年収200万円以上、夫婦世帯では合計年収320万円以上の人を対象にする。