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【京都発幕間旅情】明石城、山陽道隣接の錦江城は連郭梯郭混合式平山城による鎮西の城郭

2017-02-22 20:54:28 | 旅行記
■明石城,日本城郭探訪紀行
 京都発幕間旅情、週間の幕間に当たる水曜日に旅情を巡らす本特集の今回は明石城、別名錦江城の城郭探訪記を。

 明石城、新快速が京都から大阪と神戸三宮を経て臨海部に差し掛かると明石海峡大橋が望見でき、それが徐々に近づくと共に明石駅へ、明石駅は新幹線西明石駅に近く西明石駅と京都とは普通列車が往復する為なじみがありますが、電車の車窓から明石駅隣にお城がある事に気付くものでしょう。

 このお城、映画の舞台になっています。十三人の刺客という、片岡千恵蔵と嵐寛寿郎主演作品がありまして、将軍徳川家慶弟の暴君明石藩主松平斉韶暗殺という老中の密命に集った十三人が大名行列を待伏せるという壮大なテーマの作品で、木曽落合宿での戦闘は報道撮影の手法を大胆に映画に取り込んだ邦画全盛期最大との迫力として過言でない。

 明石藩主松平斉韶は映画が創作で将軍の血縁者でも参勤交代中に襲われる事も、異常性格でもなく、普通の名君だったとは後で歴史に詳しい御仁に聞いたお話ではありますが、明石城、映画をNHK-BSで放映されたのを契機に行ってみたいなあ、と思うに至りました、所謂聖地巡礼的な、ね。

 明石城、兵庫県立明石公園を構成する城郭で喜春城や錦江城とも呼ばれるこのお城は、日本標準時間の明石、山陽本線明石駅のすぐ隣にいちしています。山陽本線日程近いという地形から分かる通り、此処は江戸時代から山陽道に隣接する明石城は鎮西の城郭として重要視されていました、確かに、山陽本線と山陽新幹線を眼下に収め四国への明石海峡大橋も望む、今も交通の要衝です。

 鎮西の城郭と云えば国宝姫路城が最初に思い浮かぶ要衝ではありますが、江戸時代には西国大名への警戒と共に明石は海峡を隔てて淡路島とその向こうにある四国とともに、丹波地方や但馬地方ともつながり、本州島最狭部の一つとなっていて、重要度が分るでしょう。

 築城は1618年で二代将軍徳川秀忠より築城命令が信濃松本藩小笠原忠真に下り、8万石から10万石の明石藩主として入域、海を一望する人丸山を城郭とする事としました。この築城造営は堅実に行われ、幕府に評価された小笠原忠真は豊前小倉15万石に移封されました、築城に尽力した明石城、小笠原忠真は参勤交代の際にでも再度望見できたのでしょうか。

 天守閣は造営されませんでしたが、火砲発達への天守不要論が採られた為ではなく本丸四隅東西南北に三重櫓四点が造営、連郭梯郭混合式平山城方式を採用し、火力拠点となる櫓を20カ所と、対攻城防御点となる門を27カ所配置し、天守閣は大阪城の様に火力目標となる為に排した、実戦重視の設計を期しました。

 巽櫓は船上城からの移築という。船上城は播磨国明石の明石川河口西側に面した沿岸防備城郭で三木城主別所氏の支城として造営、巽櫓は豊臣秀吉治世下の国替で拝領した高山右近による船上城拡大で建築、江戸時代に播磨が姫路藩所領となった際に移築されたという。

 坤櫓は伏見城からの移築とされます、移築に移築を重ねた点で造営を急ぐ防衛上の要求が垣間見えます。伏見城の築城は1618年といいますので秀吉の伏見城は既に1600年の伏見城の戦いにて鳥居元忠が立て籠もるも石田三成の猛攻を受け炎上し落城、その遺構も江戸時代初期に破却され、不要となった資材を移築したものが坤櫓だとのこと。

 しかし、この明石城、城主は頻繁に変わるという歴史があります、小笠原忠真の後、松平氏は七年で美濃加納藩へ、続く大久保氏は十年で肥前唐津藩、松平忠国は30年で大和郡山藩、本多政利藩政失敗で三年後陸奥岩瀬藩、1682年の松平直明氏以降漸く安定し明治維新まで藩政は続きました。

 さて。一国一城の城主となるならばどの城がいいか、とは歴史好きの酒場談義では一つの定番ですが、夢は大きくエレベータもある大阪城、やはり国宝姫路城、地価が高い江戸城址、となりまして、しかし最後は中心部で通勤に便利な二条城、とか必然と話が流れてゆきます。

 一刻一条の城主になっても通勤するのか、という視点はさておき、通勤に便利な城郭、となりますと筆頭、のぞみ号停車の山陽新幹線ホームからほぼ隣接する福山城、そして新快速停車駅明石駅に隣接する明石城、となる。交通が便利ですが、城郭そのものも伏見城、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の資材が流用され城郭、風情を楽しめる城といえるでしょう。

北大路機関:はるな くらま
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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-02-25 10:17:26
明石城を取り上げて下さってありがとうございます。
公園化が顕著である分城郭遺構としては評判が芳しくない城ですので・・・
ところで「十三人の刺客」についてですが、あの殿の人物設定は
「色狂いで藩内の美人は片っ端から召し上げてしまう暴君に精一杯の抗議として婚礼を控えて召しを受けた娘が明石川(?)に身投げした」という民話と
「あの子沢山にも度が過ぎる徳川家斉が明石藩に養子として子供を与えた(押し付けた)」という歴史的事実
以上を組み合わせてデフォルメしたのであろうと郷土史をかじった明石市民としては推察し、まあ明石藩が悪役なのはしかたがないかと思う次第であります。
なお、あの二級河川「明石川」に身投げして果たして死ねるものなのかは昔からの疑問です(^^)

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徳川家斉と幕末へ向かう治世半世紀 (はるな)
2017-02-28 19:38:10
Unknown 様 こんばんは

明石市ですが、山陽本線から見上げる明石城と共に京都駅から往復する普通列車西明石行で結ばれ、夜に街で一杯やるときに刺身三点盛りに明石の鯛が加わりますと、今夜は好い夜だなあ、という地、しかし気になっているけれども海水浴は若狭だったし、ご縁が、という街でした

その明石の明石城が、いざ城内へ歩を勧めますとと坤櫓は伏見城からの移築と知り、俄然親近感が更にわきました次第です(?)

徳川家斉、ううむ、ただ家斉公の治世は実に半世紀に及び、30年将軍職が続く事がない江戸時代唯一の例外、子だくさんは毎年一人と考えれば、とはさておき在位期間の長さが関係しているのではないかな、とも。徳川十五代にあって若年の時に将軍職を継ぎ、治世が老中の影響度が多い事で不安定化する中、周辺情勢悪化の影響が及んだことが評価を下げているのかな、とも世界史を履修した関係で日本史を実地で学ぶ(?)当方は思いました次第です
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