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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】平安神宮-桜花,むかしのきょうと・いまのきょうと・あったかもしれない京都

2025-04-10 20:19:59 | 写真
■古都を考える
 この週末にかけての天候がさくらのはなばなをどう影響させるのかと考えつつ。

 古都、こういう表現で京都を紹介されますと、まあ確かに事ではあるというか、今は首都ではないね、となるのですけれども、平安神宮界隈は、思えば明治維新後、勧業のために京都でおこなわれた国家行事の遺風が残るように見えます。

 堀川通拡張など、京都は都市改造により道路が、市電に対応するとか、もう市電ないけれども、市街地が整備されてゆきました。ここで平安神宮界隈を見ますと、近代都市京都、という印象の、現代ではなくとも、始まりにも見えてくるのですね。

 広い道路に煉瓦調の格式高い建物とその奥に平安神宮、そういう感じです。そうした上で京都というものをみてゆきますと、歴史ひもとくだけで平安遷都のころには桓武天皇が長安を意識して左右対称のたてものをぞうえいしたわけで。

 桓武天皇を平安神宮とおなじようにみなくとも、こう反論されることがあるかもしれませんが、1976年の平安神宮放火事件などは桓武天皇反対派の過激派が引き起こしたモノですので、その伝統と威風は生きているといえるもの。

 軍事と造作、桓武天皇反対の過激派というと、平安時代の刺客がFATEGRANDORDERに遂に登場か、とおもわれるかもしれませんがこれ昭和の話、そんなに桓武天皇長生きでしたかねえ、とおいかもしれませんが、その頃御霊は延暦寺とかどこか。

 放火事件の主張によれば、遷都を繰り返すと友に蝦夷討伐という民族戦争を続けた桓武天皇は、ニッポンテーコクシュギの原点であるという、なにか反米闘争にキリスト教をからめるような無茶にもおもえますが、そういう理由だった、と。

 都市改造により、特に豊臣秀吉の京都改造なんかは筆頭ですけれども、京都は常に変化している、そういう印象はあるのです、だから京都の平安遷都が千年遅ければ、この平安神宮の前のような市街地が前面広がっていたとおもうし。

 豊臣秀吉の京都大改造では御土居で京都を城塞都市として改造したと云い、ソレにより市域が限られてしまったからこそ、鰻の寝床、と揶揄される町家がひろがるようになって京都改造が進んだ、市街地の風景も一新したのは確か。

 徳川家光の時代までに主要な仏閣が再建され、その際に御土居も、鴨川の氾濫対策にもちいた堤防部分を例外として、撤去したのですから、それも京都の風景を一新させた、だから京都というのは常に変化する街なのだ、と実感しますが。

 高層ビルが林立していてもおかしくないような、新しいものが始まった街が京都といえるわけです。もっとも、文化的にとか哲学的に好い影響も悪い影響も一緒くたに残している街ともいえるのはなんとも不思議なのだけれども。

 平安神宮放火事件は、よくそんな理屈を膏薬みたいに貼り付けたものだ、と、許せるかどうかを度外視すると不思議に思えるのですが、逆に歴史というものをこうやって繋がっていたといえる、ここに明治の時代の京都の残り香をかぐ。

 千年平安遷都が遅ければ、こうロマンを考えて気づいたのだけれども、ああ、すると平安遷都前ということは、あの長岡京で千年、洪水と湿気と暴走族を我慢しなければならないのかあ、ちょっとそれは難しいのかなあ、とも考えたりするのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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