■開戦必至,そのとき大老は
北京陥落中国最後の日、こう記しますと2020年代の出来事かと錯覚しますが江戸時代に日本にも非情な緊張が走った時代があったのです。
大坂の陣。日本の中世は豊臣氏滅亡を迎え徳川幕府の時代となり、時代は近世を迎えます。豊臣氏滅亡は悲劇的な最期であった事は確かで、大坂城落城は遠く京都からも紅蓮の焔が望見できたという。しかしそれが全ての安定期、平和に繋がった訳ではありません。
朱舜水。明の儒学者だ。日本から日本海や東シナ海を経て対岸の大陸中国では、長らく国を統治した明国が北方から侵攻した清朝により、まさに亡国の危機に曝されていました。そして日明貿易以来の長い二国間関係と共に明国は日本へ救援を求めるようになります。
満州は女真族のヌルハチが強大な騎馬戦力とともに満州地域の遊牧民を統一し、1616年に新国家金を建国します。実に大坂冬の陣の四年後に当る、その金は1636年に国名を清と改めたのですが、北方民族の南下は当時江戸幕府も関心を寄せていた。その危惧はあたる。
徳川家光治世の時代、日本には遥か昔の歴史ながら元寇、外敵の侵攻という厳しい認識が残り、また室町時代にも応永の外寇、李氏朝鮮の世宗大王が対馬に侵攻する一幕もありました。宗貞盛率いる対馬は700名の小兵力ながら30000の朝鮮軍を撃退には成功したが。
宗貞盛つよい、と対馬の奮戦を評価したいところですが、応永の外寇は元寇の再来ということで室町幕府はかなり慌てたという。なにしろ情報がインターネットは勿論電話も電報もFAXも無い時代ですので、情報が来た時には戦闘の景況などわかるわけがありません。
朝鮮半島侵攻、1627年に金のアバハイが満州から朝鮮半島に侵攻を開始しソウルを攻略します。豊臣秀吉の文禄慶長の役として朝鮮侵攻を行って以来、独自の情報網を半島に伸ばした日本は、北方からの侵攻経路がかつての元寇に至るモンゴル帝国と共通点を見い出す。
仁祖、当時の朝鮮国王は金に降伏します。ソウルへ軍事視察団派遣、徳川家光は寛永5年こと西暦1628年に対馬藩主宗義成に金占領下のソウルへ使節団派遣を命じ、また朝鮮に対して幕府が火砲など軍事物資提供の用意がある事を伝えるよう付け加えた、という歴史が。
宗義成からの使者、しかし仁祖は既に金に対し全面降伏した後であり属国ではないにしても善隣条約に近い力関係となっており、ここで再度反撃を行えば今度こそ武力併合される懸念があります。そして後の清朝作成の地図に李氏朝鮮は大清属国と記される事になる。
大政参与。時は少し戻りまして寛永9年こと西暦1632年、将軍徳川秀忠は今際の際に二人の側近を呼びます、その一人は近習として将軍宣下前から仕えた井伊直孝でした、秀忠は井伊直孝に大政参与を命じ、継ぐであろう徳川家光、三代将軍の後見役を命じたのです。
大老という役職は、この大政参与がはじまりというところであり、そして井伊直孝は大坂の陣での勲功を以て当時の家康から彦根藩主を命じられています、実兄は戦国気勢の家来衆を纏められず、転封されていた。譜代大名としては最大となる30万石に加増されます。
徳川家光は真剣に大陸出兵を考える事となりました。いや、実は元和7年の西暦1621年に日本は武器輸出禁止を決定し周辺情勢への中立路線を画定しています、それは戦国時代に大量生産した国産火縄銃などが江戸時代に入り相当余っており、大筒なども余剰があった。
細川忠利や大村純信に松浦隆信、大村や松浦という長崎の地名の元となった九州大名が大陸へ武器輸出を行ており、禁止しました。しかし、明朝が危機的状況、また清朝への敵対意識もあり、徳川家光としても決めかねた実情がある。その時の大老職に直孝は居ました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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北京陥落中国最後の日、こう記しますと2020年代の出来事かと錯覚しますが江戸時代に日本にも非情な緊張が走った時代があったのです。
大坂の陣。日本の中世は豊臣氏滅亡を迎え徳川幕府の時代となり、時代は近世を迎えます。豊臣氏滅亡は悲劇的な最期であった事は確かで、大坂城落城は遠く京都からも紅蓮の焔が望見できたという。しかしそれが全ての安定期、平和に繋がった訳ではありません。
朱舜水。明の儒学者だ。日本から日本海や東シナ海を経て対岸の大陸中国では、長らく国を統治した明国が北方から侵攻した清朝により、まさに亡国の危機に曝されていました。そして日明貿易以来の長い二国間関係と共に明国は日本へ救援を求めるようになります。
満州は女真族のヌルハチが強大な騎馬戦力とともに満州地域の遊牧民を統一し、1616年に新国家金を建国します。実に大坂冬の陣の四年後に当る、その金は1636年に国名を清と改めたのですが、北方民族の南下は当時江戸幕府も関心を寄せていた。その危惧はあたる。
徳川家光治世の時代、日本には遥か昔の歴史ながら元寇、外敵の侵攻という厳しい認識が残り、また室町時代にも応永の外寇、李氏朝鮮の世宗大王が対馬に侵攻する一幕もありました。宗貞盛率いる対馬は700名の小兵力ながら30000の朝鮮軍を撃退には成功したが。
宗貞盛つよい、と対馬の奮戦を評価したいところですが、応永の外寇は元寇の再来ということで室町幕府はかなり慌てたという。なにしろ情報がインターネットは勿論電話も電報もFAXも無い時代ですので、情報が来た時には戦闘の景況などわかるわけがありません。
朝鮮半島侵攻、1627年に金のアバハイが満州から朝鮮半島に侵攻を開始しソウルを攻略します。豊臣秀吉の文禄慶長の役として朝鮮侵攻を行って以来、独自の情報網を半島に伸ばした日本は、北方からの侵攻経路がかつての元寇に至るモンゴル帝国と共通点を見い出す。
仁祖、当時の朝鮮国王は金に降伏します。ソウルへ軍事視察団派遣、徳川家光は寛永5年こと西暦1628年に対馬藩主宗義成に金占領下のソウルへ使節団派遣を命じ、また朝鮮に対して幕府が火砲など軍事物資提供の用意がある事を伝えるよう付け加えた、という歴史が。
宗義成からの使者、しかし仁祖は既に金に対し全面降伏した後であり属国ではないにしても善隣条約に近い力関係となっており、ここで再度反撃を行えば今度こそ武力併合される懸念があります。そして後の清朝作成の地図に李氏朝鮮は大清属国と記される事になる。
大政参与。時は少し戻りまして寛永9年こと西暦1632年、将軍徳川秀忠は今際の際に二人の側近を呼びます、その一人は近習として将軍宣下前から仕えた井伊直孝でした、秀忠は井伊直孝に大政参与を命じ、継ぐであろう徳川家光、三代将軍の後見役を命じたのです。
大老という役職は、この大政参与がはじまりというところであり、そして井伊直孝は大坂の陣での勲功を以て当時の家康から彦根藩主を命じられています、実兄は戦国気勢の家来衆を纏められず、転封されていた。譜代大名としては最大となる30万石に加増されます。
徳川家光は真剣に大陸出兵を考える事となりました。いや、実は元和7年の西暦1621年に日本は武器輸出禁止を決定し周辺情勢への中立路線を画定しています、それは戦国時代に大量生産した国産火縄銃などが江戸時代に入り相当余っており、大筒なども余剰があった。
細川忠利や大村純信に松浦隆信、大村や松浦という長崎の地名の元となった九州大名が大陸へ武器輸出を行ており、禁止しました。しかし、明朝が危機的状況、また清朝への敵対意識もあり、徳川家光としても決めかねた実情がある。その時の大老職に直孝は居ました。
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