■千年の庭園をめぐる
千年を超える寺院というものはそれだけ表記される歴史以上に情緒というものをたたえているものなのです。

法金剛院は平安遷都の頃の右大臣清原夏野邸宅、庭園は水木に溢れ天皇が幾度も行幸した邸宅をそのまま卿の没後に寺院としたことが起点であることは記しました。しかし当時の仏教もまた揺動期であり、宗派と信仰の寄る辺は変革がなければ必衰の時代でした。

待賢門院藤原璋子、時代は平安朝末期の11世紀となりますが、法金剛院は歴史の彼方へ掠れ行こうと黄昏時を迎えつつある中、恰も水平線に陽炎の先の朝日のように中興を担う転機が訪れようとしていました、その人こそが時の中宮で皇后の待賢門院藤原璋子さん。

鳥羽天皇皇后であらせられた待賢門院藤原璋子、NHK大河ドラマ新・平家物語、少し古い作品ですが久我美子さんが演じていまして再放送世代なのですが、美しかった。あの平田昭彦さんと結ばれた高貴な女優さん。実父は藤原公実ですが幼い頃に旅立たれている。

白河法皇が天皇の時代に養父となりまして藤原璋子を育て、後に鳥羽天皇の皇后として迎えられた。白河天皇、そう白河天皇という名は日本の転換期の一人という、そして白河天皇は院政をはじめ白河法皇と上られましたが、同時代に平清盛や源頼朝が歩んでいた。

平清盛や源頼朝、武家政治の時代の萌芽、というこちらのほうが時代の転換点でもあるよう思えるのですが、白河法皇の時代は日本における多極化の時代であり、一つはもちろん時代が示す武家政治が関連しているのですけれどももう一つは寺社勢力の再興という。

石清水八幡宮、白河法皇が保安4年こと西暦1123年に石清水八幡宮へ、王法は如来の付属により国王興隆す、という告文を掲げていまして、つまり日本版の王権神授説のような、仏が国権を天皇に導いているという告文を示し、寺社勢力の取り込みを図っています。

熊野詣や春日詣も盛んに行い、片や法勝寺や尊勝寺などの造営を盛んに行っています。院政は、天皇を守るためという題目ではありますが、例えば当時の熊野詣ではいまのように特急くろしお号で日帰りという訳にはいかず、二か月程度を要する一大行事でした。

白河法皇は寺社勢力の取り込みを行い皇室の安定化を図るには、天皇へ権力を集中した場合には二か月間首都を空ける訳にはいかず、いわばこうした行政上の要求が、院政、という見方によっては二重権力時代を醸成したともいえる。待賢門はそんな時代のひと。

天安寺、これまで法金剛院法金剛院と紹介していましたが、当時の山号は天安寺であり、これは9世紀中ごろに時の文徳天皇が定めたもの、待賢門さんは落飾に際しこのお寺に入られ、その際に名を今の法金剛院と改められたという、そして荒廃した寺院を再興へ。

西御堂と九体阿弥陀堂、そして待賢門さんの御所を整備し、その上で浄土式庭園を整備した。庭園にある青女ノ滝はこの時に林賢というひとの技術で整備されたといい、人工滝としては日本最古のものであるとともに、いまも清冽な水の流れを奏で湛えています。

浄土式庭園は、池泉回遊式庭園であるとともに、確かに周りに山陰線と丸太町通りは舗装されていますが、法金剛院の立地はいまと昔、そうかわらないという。待賢門さんは絶世の美女とされ、崇徳天皇や後白河天皇の実母である関係から当院へは天皇行幸も多い。

円覚十万上人、さて現代にいたる法金剛院の歴史ですが弘安2年こと1279年に律宗寺院と改めまして開かれた寺院となり多くの人々共に今も歴史を紡いでいます。そして美しい桜と青女ノ滝の奥に花園西陵、法金剛院の直ぐ北に待賢門さんはいまも眠っています。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
千年を超える寺院というものはそれだけ表記される歴史以上に情緒というものをたたえているものなのです。

法金剛院は平安遷都の頃の右大臣清原夏野邸宅、庭園は水木に溢れ天皇が幾度も行幸した邸宅をそのまま卿の没後に寺院としたことが起点であることは記しました。しかし当時の仏教もまた揺動期であり、宗派と信仰の寄る辺は変革がなければ必衰の時代でした。

待賢門院藤原璋子、時代は平安朝末期の11世紀となりますが、法金剛院は歴史の彼方へ掠れ行こうと黄昏時を迎えつつある中、恰も水平線に陽炎の先の朝日のように中興を担う転機が訪れようとしていました、その人こそが時の中宮で皇后の待賢門院藤原璋子さん。

鳥羽天皇皇后であらせられた待賢門院藤原璋子、NHK大河ドラマ新・平家物語、少し古い作品ですが久我美子さんが演じていまして再放送世代なのですが、美しかった。あの平田昭彦さんと結ばれた高貴な女優さん。実父は藤原公実ですが幼い頃に旅立たれている。

白河法皇が天皇の時代に養父となりまして藤原璋子を育て、後に鳥羽天皇の皇后として迎えられた。白河天皇、そう白河天皇という名は日本の転換期の一人という、そして白河天皇は院政をはじめ白河法皇と上られましたが、同時代に平清盛や源頼朝が歩んでいた。

平清盛や源頼朝、武家政治の時代の萌芽、というこちらのほうが時代の転換点でもあるよう思えるのですが、白河法皇の時代は日本における多極化の時代であり、一つはもちろん時代が示す武家政治が関連しているのですけれどももう一つは寺社勢力の再興という。

石清水八幡宮、白河法皇が保安4年こと西暦1123年に石清水八幡宮へ、王法は如来の付属により国王興隆す、という告文を掲げていまして、つまり日本版の王権神授説のような、仏が国権を天皇に導いているという告文を示し、寺社勢力の取り込みを図っています。

熊野詣や春日詣も盛んに行い、片や法勝寺や尊勝寺などの造営を盛んに行っています。院政は、天皇を守るためという題目ではありますが、例えば当時の熊野詣ではいまのように特急くろしお号で日帰りという訳にはいかず、二か月程度を要する一大行事でした。

白河法皇は寺社勢力の取り込みを行い皇室の安定化を図るには、天皇へ権力を集中した場合には二か月間首都を空ける訳にはいかず、いわばこうした行政上の要求が、院政、という見方によっては二重権力時代を醸成したともいえる。待賢門はそんな時代のひと。

天安寺、これまで法金剛院法金剛院と紹介していましたが、当時の山号は天安寺であり、これは9世紀中ごろに時の文徳天皇が定めたもの、待賢門さんは落飾に際しこのお寺に入られ、その際に名を今の法金剛院と改められたという、そして荒廃した寺院を再興へ。

西御堂と九体阿弥陀堂、そして待賢門さんの御所を整備し、その上で浄土式庭園を整備した。庭園にある青女ノ滝はこの時に林賢というひとの技術で整備されたといい、人工滝としては日本最古のものであるとともに、いまも清冽な水の流れを奏で湛えています。

浄土式庭園は、池泉回遊式庭園であるとともに、確かに周りに山陰線と丸太町通りは舗装されていますが、法金剛院の立地はいまと昔、そうかわらないという。待賢門さんは絶世の美女とされ、崇徳天皇や後白河天皇の実母である関係から当院へは天皇行幸も多い。

円覚十万上人、さて現代にいたる法金剛院の歴史ですが弘安2年こと1279年に律宗寺院と改めまして開かれた寺院となり多くの人々共に今も歴史を紡いでいます。そして美しい桜と青女ノ滝の奥に花園西陵、法金剛院の直ぐ北に待賢門さんはいまも眠っています。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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