■茅葺屋根迎える法然院
COVID-19がひと段落し落着きましたがコロナに命脅かされるか熱さの熱波に脅かされるかという夏がもう直ぐやってくる。

京都の夏がはじまる、熱いという一言で片づけられないものなのですが、市内を散策していますともう少し堀川通りの様に大木を増やせないものかと思いつつ、しかし熱い中でも散策しますと、その時は暑くとも情景そのものを記録した写真は、熱さを忘れさせる。

東山を巡りますと、流れる水と煌びやかな緑に古刹の庵、写真で涼しさを感じるのにこの暑さは何なのだろうと、五月末で厳しい暑さを予感させるものですから、思いやられます。気候変動なのか盆地なのかヒートアイランド現象なのか、それでも歩み、そしてめぐる。

山門は茅葺屋根でありまして、これは洛中の寺院ではなかなかに稀有というもの、佇むという名を示すようにというものですが、新緑は色濃く木々の幹の様に当地に溶け込んでいる、銀閣寺にほど近い庵なのですが、出会いの場となる寺院でもある。不思議な一角です。

法然院とは、その始まりの歴史を辿りますと鎌倉時代、専修念仏の教えを説くべく比叡山を降りた法然が弟子たちと共に六時礼讃行の修行を深めました庵をその始まりとする堂宇なのですが、ほどなくして荒廃、しかし江戸時代初期に再興されたという歴史ある寺院だ。

慈照寺こと銀閣寺はここ法然院にほぼ隣接している立地なのですが、銀閣寺といえばもう観光寺院の定番というもので延々門前町にはきつねうどんと天丼にかき氷の観光門前町定番が軒を連ねるものの、少し稜線を歩むだけでここまで静けさが包むのか、と驚かされる。

哲学の道、京都大学の西田幾多郎先生や田辺元先生といった哲学者が当地を散策しつつ思想冥想を巡らせたとの由来から始まる地名なのですが、法然院はこの哲学の道に面した、そして門前に茶店も一軒ありますので、なんといいますか学問と所縁或る立地に違いない。

善気山法然院萬無教寺という名が正式名称でして、太平洋戦争後に単立寺院となりました。萬無、この方は知恩院38世であるのですが法然所縁の地に念仏道場を造営するべく幕府に発願したといいまして、門弟の忍澂とともに再建、延宝8年こと西暦1680年のことでした。

百砂壇という、山門から拝観へ探訪しますと白砂の盛り砂が構成する小山に波紋などが描かれている様子が、左右に百砂壇という狭間は清め砂を意味するものでもありまして、ここで心身を清めて拝観に向かうという。この先には名水が懇々と湧く庭園がひらかれた。

善気水、京都の名水なのですが法然院の方丈庭園は所謂浄土庭園の様式を執りまして、名水が湧きまして、その向こうに経蔵と、そして方丈など堂宇が広がるのです。気付かされるのは拝観料をとらない、ここは数多の檀家により支えられている聖域ということです。

萬無の時代、江戸時代に幕府は徳川家菩提の浄土宗を重要視しましたが、特にこの時代の保護政策は、キリスト教文化に対するけん制という意味もありましたので、本来日本仏教のかたちでは権力との距離感が在ったが、江戸時代には保護が進み過ぎたようにもおもう。

忍澂とともに幕府に願い出たのは、浄土宗の中に保護に甘んじ修行の怠りが大寺院ほど顕著に出ていたという実情への改革を期したともいわれています。徳川家綱、江戸幕府四代将軍は、浄土宗改革を求め法然院の再興を求める声に応じます。こうして寺院は再興へ。

本堂は延宝9年こと西暦1681年に客殿として落成しまして、方丈は少しのちに貞享4年こと1687年、後西天皇皇女の御殿を移築する事で造営されました。法然院は念仏道場ですが、この再興の際に白蓮小清規という修行が示され、法然院ではいまも継承され続いています。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
COVID-19がひと段落し落着きましたがコロナに命脅かされるか熱さの熱波に脅かされるかという夏がもう直ぐやってくる。

京都の夏がはじまる、熱いという一言で片づけられないものなのですが、市内を散策していますともう少し堀川通りの様に大木を増やせないものかと思いつつ、しかし熱い中でも散策しますと、その時は暑くとも情景そのものを記録した写真は、熱さを忘れさせる。

東山を巡りますと、流れる水と煌びやかな緑に古刹の庵、写真で涼しさを感じるのにこの暑さは何なのだろうと、五月末で厳しい暑さを予感させるものですから、思いやられます。気候変動なのか盆地なのかヒートアイランド現象なのか、それでも歩み、そしてめぐる。

山門は茅葺屋根でありまして、これは洛中の寺院ではなかなかに稀有というもの、佇むという名を示すようにというものですが、新緑は色濃く木々の幹の様に当地に溶け込んでいる、銀閣寺にほど近い庵なのですが、出会いの場となる寺院でもある。不思議な一角です。

法然院とは、その始まりの歴史を辿りますと鎌倉時代、専修念仏の教えを説くべく比叡山を降りた法然が弟子たちと共に六時礼讃行の修行を深めました庵をその始まりとする堂宇なのですが、ほどなくして荒廃、しかし江戸時代初期に再興されたという歴史ある寺院だ。

慈照寺こと銀閣寺はここ法然院にほぼ隣接している立地なのですが、銀閣寺といえばもう観光寺院の定番というもので延々門前町にはきつねうどんと天丼にかき氷の観光門前町定番が軒を連ねるものの、少し稜線を歩むだけでここまで静けさが包むのか、と驚かされる。

哲学の道、京都大学の西田幾多郎先生や田辺元先生といった哲学者が当地を散策しつつ思想冥想を巡らせたとの由来から始まる地名なのですが、法然院はこの哲学の道に面した、そして門前に茶店も一軒ありますので、なんといいますか学問と所縁或る立地に違いない。

善気山法然院萬無教寺という名が正式名称でして、太平洋戦争後に単立寺院となりました。萬無、この方は知恩院38世であるのですが法然所縁の地に念仏道場を造営するべく幕府に発願したといいまして、門弟の忍澂とともに再建、延宝8年こと西暦1680年のことでした。

百砂壇という、山門から拝観へ探訪しますと白砂の盛り砂が構成する小山に波紋などが描かれている様子が、左右に百砂壇という狭間は清め砂を意味するものでもありまして、ここで心身を清めて拝観に向かうという。この先には名水が懇々と湧く庭園がひらかれた。

善気水、京都の名水なのですが法然院の方丈庭園は所謂浄土庭園の様式を執りまして、名水が湧きまして、その向こうに経蔵と、そして方丈など堂宇が広がるのです。気付かされるのは拝観料をとらない、ここは数多の檀家により支えられている聖域ということです。

萬無の時代、江戸時代に幕府は徳川家菩提の浄土宗を重要視しましたが、特にこの時代の保護政策は、キリスト教文化に対するけん制という意味もありましたので、本来日本仏教のかたちでは権力との距離感が在ったが、江戸時代には保護が進み過ぎたようにもおもう。

忍澂とともに幕府に願い出たのは、浄土宗の中に保護に甘んじ修行の怠りが大寺院ほど顕著に出ていたという実情への改革を期したともいわれています。徳川家綱、江戸幕府四代将軍は、浄土宗改革を求め法然院の再興を求める声に応じます。こうして寺院は再興へ。

本堂は延宝9年こと西暦1681年に客殿として落成しまして、方丈は少しのちに貞享4年こと1687年、後西天皇皇女の御殿を移築する事で造営されました。法然院は念仏道場ですが、この再興の際に白蓮小清規という修行が示され、法然院ではいまも継承され続いています。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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