■念仏を唱えればという信仰
念仏を唱えればと繰り返すとともに救われるという浄土教の考え方は仏教の中でも大きな転換でした。

永観堂、この名は永観さんという禅林寺中興の祖、その堂宇を示す名なのですが、禅林寺という名は貞観時代に清和天皇より賜りました名という。そして事実上の官寺となっていたのですが、当時の官寺は要するに国の寺院、民衆救済よりも国の安寧を願っていた。

永観さんは官寺の学問僧という地位にありまして、南都六宗の三論宗を東大寺にて修学しています、そしてこの時代は藤原頼通が平等院鳳凰堂などを開いた時代であり、南都では多くの有力貴族からの交流を得ていたという事ですが、これで良いのか、と考える事に。

山城国光明寺に隠棲し、一万遍の念仏を日課とする修行を始めましたのはこの少し後の事となります。山城国光明寺、しかし厳しい環境だったらしい、ここで永観は体を壊す事となり、禅林寺へ戻る事となりましたが、禅林寺出始めたのは民衆救済の為の奔走でした。

永観の民衆救済は、単に祈る事だけではなく、勧進により集めた寄付による貧救堂宇の造営や、また獄中に赴いて重罪を犯した咎人への説法説教、寺での梅の栽培と薬湯、というような救済策を行いまして、これが民衆に慕われる事になったという。中でも梅について。

悲田梅とは、永観がこの禅林寺で育てた梅の実を全て病人へ分け与えた事で珍重されたもの、林檎酸や琥珀酸など有機酸を多く含む梅は今でも健康食品の一翼を担っていますが漢方薬の烏梅は強心に整腸や消炎作用、科学的にも真菌抑制効果の高さが確認されている。

中世の民間療法、こう思われるかもしれませんが11世紀から12世紀にかけての時代ですので、扁桃炎等に対しては当時の薬品にはなにせ抗生物質などが普及し、いわゆる伝統医学から世界が脱したのは20世紀初頭の事ですので、この意味の一端が分ることでしょう。

悲田院、貧救の為の堂宇というものをこう呼びました。永観はこの禅林寺周辺だけではなく幾つか洛中に造営したといいまして、官営の悲田院が平安京には二つあったのですが、東五条に造営した悲田院は永観が規模の拡大に尽力したと伝わり、民衆に慕われるゆえん。

永観遅し。さて禅林寺の御本尊は、これは撮影こそできないのですが直ぐ傍らまで拝観が許されています、これは不思議な阿弥陀如来像でありまして、振り返るように御本尊は傍らまで歩み進めますとこちら側を見ている事に気付かされます、みかえり阿弥陀、という。

みかえり阿弥陀。一万遍の念仏を日課とする修行を続けていました永観を、ある日に御本尊が振り返り、永観遅し、はやくわたしについてくるように、こう振り返ったという。西暦1082年、永保2年のはなしです。みかえり阿弥陀は重要文化財に指定されています。

平安時代末期の彫像と考えられている、みかえり阿弥陀、堂森善光寺という山形県の寺院などこうした説話的な阿弥陀像は幾つかあり、大陸では北宋時代に四川省安岳円覚洞に安置される仏像などが挙げられるとの事です。説話と共に拝む、何を思うかが重要なのね。

薬王寺悲田院、永観は齢65にして無料の診療所を寺域に造営することとなりまして、貧民施療等の救済に当りました。しかし2年後に朝廷より南都仏教の立て直しを担う権律師へ任じられます、これは即日辞任しましたがその翌年に東大寺別当に任じられ奈良へと行く。

念仏を唱えれば身分の貴賤なく阿弥陀如来に救われる、この浄土教の教えというものはいわば仏教を国教ではなく民間信仰へ昇華させた、永観はその転換期の一人といえるのかもしれません、東大寺の再興は七重塔造営など幅広く行われ、能治の永観と慕われました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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念仏を唱えればと繰り返すとともに救われるという浄土教の考え方は仏教の中でも大きな転換でした。

永観堂、この名は永観さんという禅林寺中興の祖、その堂宇を示す名なのですが、禅林寺という名は貞観時代に清和天皇より賜りました名という。そして事実上の官寺となっていたのですが、当時の官寺は要するに国の寺院、民衆救済よりも国の安寧を願っていた。

永観さんは官寺の学問僧という地位にありまして、南都六宗の三論宗を東大寺にて修学しています、そしてこの時代は藤原頼通が平等院鳳凰堂などを開いた時代であり、南都では多くの有力貴族からの交流を得ていたという事ですが、これで良いのか、と考える事に。

山城国光明寺に隠棲し、一万遍の念仏を日課とする修行を始めましたのはこの少し後の事となります。山城国光明寺、しかし厳しい環境だったらしい、ここで永観は体を壊す事となり、禅林寺へ戻る事となりましたが、禅林寺出始めたのは民衆救済の為の奔走でした。

永観の民衆救済は、単に祈る事だけではなく、勧進により集めた寄付による貧救堂宇の造営や、また獄中に赴いて重罪を犯した咎人への説法説教、寺での梅の栽培と薬湯、というような救済策を行いまして、これが民衆に慕われる事になったという。中でも梅について。

悲田梅とは、永観がこの禅林寺で育てた梅の実を全て病人へ分け与えた事で珍重されたもの、林檎酸や琥珀酸など有機酸を多く含む梅は今でも健康食品の一翼を担っていますが漢方薬の烏梅は強心に整腸や消炎作用、科学的にも真菌抑制効果の高さが確認されている。

中世の民間療法、こう思われるかもしれませんが11世紀から12世紀にかけての時代ですので、扁桃炎等に対しては当時の薬品にはなにせ抗生物質などが普及し、いわゆる伝統医学から世界が脱したのは20世紀初頭の事ですので、この意味の一端が分ることでしょう。

悲田院、貧救の為の堂宇というものをこう呼びました。永観はこの禅林寺周辺だけではなく幾つか洛中に造営したといいまして、官営の悲田院が平安京には二つあったのですが、東五条に造営した悲田院は永観が規模の拡大に尽力したと伝わり、民衆に慕われるゆえん。

永観遅し。さて禅林寺の御本尊は、これは撮影こそできないのですが直ぐ傍らまで拝観が許されています、これは不思議な阿弥陀如来像でありまして、振り返るように御本尊は傍らまで歩み進めますとこちら側を見ている事に気付かされます、みかえり阿弥陀、という。

みかえり阿弥陀。一万遍の念仏を日課とする修行を続けていました永観を、ある日に御本尊が振り返り、永観遅し、はやくわたしについてくるように、こう振り返ったという。西暦1082年、永保2年のはなしです。みかえり阿弥陀は重要文化財に指定されています。

平安時代末期の彫像と考えられている、みかえり阿弥陀、堂森善光寺という山形県の寺院などこうした説話的な阿弥陀像は幾つかあり、大陸では北宋時代に四川省安岳円覚洞に安置される仏像などが挙げられるとの事です。説話と共に拝む、何を思うかが重要なのね。

薬王寺悲田院、永観は齢65にして無料の診療所を寺域に造営することとなりまして、貧民施療等の救済に当りました。しかし2年後に朝廷より南都仏教の立て直しを担う権律師へ任じられます、これは即日辞任しましたがその翌年に東大寺別当に任じられ奈良へと行く。

念仏を唱えれば身分の貴賤なく阿弥陀如来に救われる、この浄土教の教えというものはいわば仏教を国教ではなく民間信仰へ昇華させた、永観はその転換期の一人といえるのかもしれません、東大寺の再興は七重塔造営など幅広く行われ、能治の永観と慕われました。
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