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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【M-5撮影特報】中部方面混成団創設17周年記念大津駐屯地祭,自衛官候補生たちの初記念行事(2024-04-27)

2024-04-30 20:00:54 | 詳報 陸海空自衛隊関連行事
■大津駐屯地祭二〇二四
 土曜日に撮影して参りました今年度の大津駐屯地祭の様子を速報の形でしょうかいしましょう。

 中部方面混成団大津駐屯地創設記念行事、行って参りました。大津駐屯地、中部方面隊の教育訓練総本山であると共に即応予備自衛官部隊の教育訓練も一手に担う駐屯地です。第2教育団、旧称はこのように呼ばれていまして善通寺駐屯地から移駐してきました。

 指揮官入場、各部隊の指揮官が入場します。特に中部方面混成団隷下には第109教育大隊と第110教育大隊が隷下にありまして、自衛官候補生、昔は新隊員と呼ばれていましたが最近はすんなり自衛官にはなれずに自衛官候補生と呼ばれる、その教育を担います。

 野崎混成団長の巡閲、昔はすごい人数であったのですが、第110教育大隊が善通寺駐屯地から大挙式典に参加していましたので、二個大隊ずらりと並んだ様子は壮観でした、けれども現在は大津に駐屯しています第109教育大隊と陸曹教育隊だけが整列しています。

 第47普通科連隊と第49普通科連隊も混成団隷下に在りまして、連隊旗が2振り並んでいますが、こちらも連隊幹部だけの参加となっていまして、前は一個中隊位は並んでいたのになあ、と日曜日に部隊を動かさないのはこれ、働き方改革、なのでしょうかねえ。

 観閲行進の開始、今回のEOS-M5には15-45mmSTMレンズだけを装着していましたのでちょっと望遠が厳しい、PowerShotG3XとEOS-7DmarkⅡの写真は現在整理中となっています。この混成団隷下の普通科連隊は即応予備自衛官を招集し能登地震にも派遣された。

 第109教育大隊が本田大隊長を先頭に観閲行進、戦車乗りであった大隊長さんは後方や地本勤務なども長く、考えてみると戦闘職種でも最先鋒を担う戦車乗りから様々な任務にあたったかたで、こういう人材をたくさん練成してきたのが陸上自衛隊の強みなのかも。

 教育大隊長という任務は、多くの自衛官にとり昔風に云う軍隊生活において初めて接する大隊長、2士には2佐というのは遥か高みというところですが、その人となりは自衛官生活では長く印象に残りまして、例えば陸曹昇進や部内から幹部に任官しても影響はおおきい。

 自衛官候補生の観閲行進、女性自衛官の教育中隊となっています。大津駐屯地は撮影適地が多く、観閲行進をこの側面から観閲台とともに撮影する事も出来ますし真正面から撮影する事も出来ますし、椅子席も一部が一般に開放されていますので其処からも撮れます。

 第4陸曹教育隊の観閲行進、今年ちょっと残念であったのはスタンド席が準備されなかった事です、いや、スタンド席は全て関係者用なのですが、ここは新隊員、じゃない自衛官候補生、その部隊なので父母の方が観覧に来られるのですね、その為のスタンド席という。

 スタンド席はどの駐屯地祭で利用しましても、眺望は良いものでして、最前列でなくとも行事の様子というのはりっかり見えるものなのですけれど、今回はテントとなっていまして、いや小雨の際には濡れないのですが、その反面ちょっと見えにくいのですよね。

 陸曹教育隊をみますとちょっとほっとします、こういうのも陸曹に昇進しますと、漸く定年まで勤められるという事になるからです、それまでは曹候補学生ですと7年以内に昇進して陸曹教育隊を出ないと退官、任期制自衛官は2任期4年で狭き門をくぐらねば。

 幹部自衛官は終身雇用なのですけれども、自衛隊へ就職するという視点で見ますと昔の曹候補生のようにいつかは陸曹に昇進できる事実上の終身雇用制、公務員の安定した身分というものが過去のものになってしまっていますので、募集広報は苦労が続いているのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都発幕間旅情】榛名さんの総監部グルメ日誌-岐阜羽島,これが鶏チャンだ!変人のサラダボウル賑わう岐阜で愉しむ郷土料理

2024-04-30 18:29:39 | グルメ
榛名さんの総監部グルメ日誌
 今回のお店は実はコロナ禍の最中に初めていったお店なのですが今日も元気に営業している名店の一つで何故かいろんな人が薦めてくる名店で、たぶん一度行ってみてきてみてという意味か。

 岐阜、岐阜基地、岐阜城、大垣城、郡上城、最近は“変人のサラダボウル”という作品で有名になっているところ。そのうち実車化されるのだろうか、しないほうがとも。さて、岐阜には鶏チャンという、郷土料理があるそうでして、有名だ、と。

 鶏チャン、これが鶏チャンだ!。六角精児の呑み鉄本線日本旅という番組で、六角さんが郡上八幡を旅した際に食べているのがちょうど再放送されていまして、それならばわたしも食べてみようではないか、と勢い立ったのですが、これ、鶏チャンなの。

 変人のサラダボウル、僕は友達が少ない、のうりん!、氷菓、聲の形、星空にかける橋、ストラトスフォーOVA、岐阜っていうのは意外とアニメに出る場所なのですが、鶏チャンというのはアニメにも出てこない、食べたことがない、とおもっていた。

 ちんちん、というここは岐阜県羽島市の、新幹線岐阜羽島駅からちょっと北上した当たりに在りますお店なのですが、鶏チャンが名物だという。そこで注文しつつ、あわせてビールもお願いしまして。鶏チャン、NHKの番組で六角精児さんが食べていたもの。

 ホタルイカの刺身を合わせて並べまして、というのもこの鶏チャンというのはコンロで暫くじうじうやる必要があるようでして時間もかかるようですからその幕間にちょっとビールと仲良くできそうな子をと、箸休めといいますかなんといいますか。

 固形燃料が良い音を立てている。これ、ろうそくの固形燃料は昭和初期に元自衛官の方が退官後に思いついて開発したものなんだ、とまえに大津駐屯地で、なんとご本人、お教えいただきました。確かに強い火力と手軽さ、軍用蠟燭の蝋燭炊飯の流れ。

 白雪、清酒は伊丹の銘酒白雪をあつかっているということで、そうお刺身にはビールよりも清酒なんだよなあといただく。徳利は千代菊酒造というここ、ちんちんと同じ羽島市の酒造会社さんのものですが、中身は白雪、私が一番好きな日本酒なのです。

 霧の榛名とか、比叡桜とか、好きな清酒は色々ありますが、これおいしいな、と清酒で最初に思ったのは白雪でして、それも伊丹駐屯地祭の帰路という。わたしがはじめて痛み駐屯地祭に行きましたのは2002年ですのでもう20年以上前、昔ばなし。

 千代菊酒造さんは蔵開き、という行事にお邪魔した事がありましたが、それが2020年春、こんどは広島の有名な蔵開きに行ってみようと思い立ったものの、その十日後あたりにCOVID-19の日本上陸が始まりまして、実現できていない。海田市の近く。

 鶏チャン、出来上がりました。初老の大将さんが時折様子を見に来てくれて箸でかき混ぜてくれたので無事完成です。鶏チャンというよりも呉で聞いた鳥すきのような感じで、しかし榛名山のふもとは高崎で頂いた鳥すきとは全く違う、歯ごたえと味が。

 鳥のたたきを。いろいろ考えたのだけれども今晩は鳥尽くしで行こう、とさっきホタルイカで美味しいねえと思わずつぶやいたことはあとにしまして、京都や佐世保でいただくことのおおい鳥の珍味をちんちんで。そして時折鶏チャンをお酒とはさむ。

 しかし鶏チャン、ご飯が欲しくなるよね、というのはNHKの番組で六角精児さんと同じ流れ。でも、たしかNHKの番組では回鍋肉の日本版の様な味噌野菜炒め鶏肉付きのような感じのものが出ていたと思うのだけれども、羽島市ではこれが鶏チャンなのか。

 ちんちん。榛名さんちんちんのお店に行きました、といいますと、榛名さんのエッチ、といわれるかもしれない。まあ護衛艦はるな種別のヘリコプター搭載護衛艦はDDにHをつけてDDHだ。ここは竹鼻丸の内という、昔の城跡的な地名の居酒屋さんです。

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【京都幕間旅情】松本城-観桜,金華山城の支城としての歴史と小笠原氏狙う武田氏の信濃侵攻

2024-04-30 07:01:20 | 旅行記
■松本城は深志城
 城郭はその細部もさることながら歴史を辿りますと既知の知識と新しい知識の邂逅と体系化が面白いのです。

 松本城はもともと別の城郭の支城に過ぎなかった、というのは今の巨大な城郭を見上げますと驚きまして、ニセコ要塞や琵琶湖要塞のような巨大軍事施設でもあったのか、と訝るところですが、実は当初の松本城は深志城と呼ばれた、小さな城でした。

 深志城と呼ばれた時代にはスミノフ軍、じゃない武田信玄の脅威がありました時代でして、しかしその築城はもう少し時代を遡りまして、永正年間、これは16世紀初頭の西暦1504年から1520年頃の築城となっていました、築城は府中小笠原氏によるもの。

 府中小笠原氏が信濃守護を与った際に造営されました城郭は、しかしいまの松本市の市域でも少し離れた金華山城というところにあります。岐阜城とは凄い離れているなあ、と歴史好きは思われるでしょうが美濃の金華山ではなく松本の城郭の地名でして。

 金華山城とはもう一つ林城ともいい、ここで供されていた陣中飯がハヤシライスであったわけではないのですが、天文年間に武田信玄と小笠原長時との戦いで府中小笠原氏は林城に籠城の構えを見せますが、支城犬甘城陥落とともに防衛線が瓦解してしまう。

 林城跡、としていまも土塁など遺構が現存しているのですが、隣接して井川城跡という遺構が並びましてこの二つで小笠原氏城跡というものを構成している、この立地は松本駅から南方に1㎞程の立地ということで、行こうと思えば行けたのですが。

 足利尊氏、府中小笠原氏が当地を拝領しました際には当主小笠原貞宗が、室町幕府開府前の足利尊氏に付き従い、建武の新政などに際し功績を残したことで信濃守護を任され、その信濃を拠点に筑摩や安曇に勢力圏を広げていった、という歴史がある。

 居館としてこの際先ず井川館を構築、これは発掘作業により伝櫓台跡などが発見されていて、今は水路の縄張りが残る程度なのですが六田川という近隣河川の水源を利用した掘割など、かなり大きな城郭であったらしい、その支城として今の松本城を、と。

 信濃侵攻では、城郭の支城を防衛線とする構えで小笠原氏は迎え撃ちますが、結果は上記の通り、ただ、林城は使用に適さないとして廃城にしたうえで、この松本城を利用するわけです。もっとも、地形を見るとそう離れていないわけで、理由は気になる。

 林城の戦いでは武田信玄と直接戦火を交える前に落ち延び、しかし色々あった上で当主は上杉家に救われるものの後に織田家などの庇護を転々、その最後は会津という、ここ信濃とは縁もないような遠い地にて、戦国乱世の末期に天寿を全うしているもよう。

 武田信玄はこの勝利を以て筑摩平定を完了し、一方で小笠原長時は落ち延び、上杉景勝の配下を経て織田信長に重用、そして奇しくも三男小笠原貞慶は織田信長の配下として有名な長篠の戦に参陣し、一応は武田家への復仇を果たすという歴史があります。

 上杉謙信への備え。松本城は、その始まりが林城の支城ではあったのですが当地一帯を併合した武田信玄が越後の上杉謙信への防衛体制確立を期して大きく拡張した城郭といい、武田四天王の一人である馬場信春を城代として配置していました。

 小笠原貞慶、色々あって織田信長の配下に参陣したという事ですが、実際色々ありまして、しかし実際あったいろいろな先に、最終的には此処松本城を取り戻すという、なかなかに歴史情緒といいますか機運と数奇が交わる歴史が広がっているようです。

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