北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

アフガン崩壊,アメリカ失策二〇三〇年代へ影響【2】見捨てられる恐怖と見捨てられた認識

2021-08-21 20:15:21 | 国際・政治
■影響は遠く中華民国-台湾へ
 カブールでの混乱は今現在も続いています、まだアメリカは引き返せる分水嶺の近くに居ますが、このまま変化が無ければ、影響は遠く西太平洋地域へ及ぶのは必至でしょう。

 アフガニスタン撤退による政府崩壊、この影響は、アメリカが今後重点を置くとされる中国を見据えたインド太平洋戦略に大きな影響を及ぼす可能性があります、それはインド太平洋戦略の基盤ともいえる台湾への政治的及び社会的な影響に他なりません。こういいますのも、バイデン政権がアフガニスタンを見放した経緯が過去を思い出させるためです。

 カブール国際空港から離陸するC-17が航空に達する中を次々と機体に掴まり脱出を試みた人々が零れ落ちる様子を見て、申し訳ないのですが、流石アメリカは頼りになる、と思う方は世界広しといえども少数派でしょう、AH-64Eが威嚇し滑走路上の避難民を追い出す情景はパニック映画の悲惨さそのものであり、なりふり構わずの敗走としか印象付けません。

 そして、これを冷静に考える事は簡単ですが、政治的で社会的な影響、あの様子を報道された際にアメリカに対する印象がどのようになるのかを考えますと、芳しい評価は出せません、1950年12月の朝鮮戦争興南撤退作戦のような堂々たる撤収ではなく、敗走する様子そのものだったカブール国際空港の報道映像は、事実であり将来に渡り影響を残します。

 国家としての過去の記憶は簡単には消えません、日韓関係が従軍慰安婦問題と韓国が主張する徴用強制労働問題で未だに長引くのは云うに及ばず、日本がいまだに八月六日と八月九日を終戦記念日である八月十五日と並べて記憶している部分と変わりありません。そして、それは第三国からみれば認識の相違を感じるものなのですが、台湾には過去の歴史が。

 ジョセススティルウル陸軍大将、第二次世界大戦中の米軍将官が1942年に提出した報告書に、当時の蒋介石政権が日本軍に対し戦意があまりにも低すぎ、軍事援助を行った場合でも対日戦に投入を躊躇しているとし、また蒋介石政権への中国民衆の支持の低さや国民党政権の制度上の問題を指摘しています。そして抜本的な制度改革の必要性を提案しました。

 ルーズベルト大統領はこの時点では蒋介石と中華民国を重要なステイクホルダーと扱いましたが、一変したのは日本陸軍が実施した1944年年末にかけての一号作戦、通称、大陸打通作戦です。大陸打通作戦はシーレーンを喪失しつつある日本海軍に対し、陸軍が東南アジアと日本本土を中国大陸1000km縦断により一挙に確保するという、一見無謀な作戦だ。

 大陸打通作戦へ日本側が投入した兵力は、地上戦力50万と戦車800両、火砲1500門など、そして日本軍としてはまとまった数の自動貨車を投入し、戦闘機も四式戦疾風を一時的に重要方面から転用するなど、中国大陸上空の航空優勢を掌握しました。同時に日本軍は中国にアメリカが建設したB-29爆撃機飛行場を装甲部隊により制圧、九州空襲を遮断します。

 蒋介石政権は、当該地域守備戦力だけで100万以上、援蒋ビルマルートとジョセススティルウル将軍の提唱によりアメリカ軍方式の装備と米軍将校訓練団により編成された精鋭師団等も配備され、また戦闘機など航空機材が提供されていたにも拘らず、遥かに小規模の日本軍攻勢に、通常攻撃には防御側の三倍兵力が必要、常識破りの敗北を喫しています。

 ルーズベルト大統領はこれをうけ、1943年のカイロ会談までは連合国首脳として蒋介石を招いていますが、大陸打通作戦以降に蒋介石を冷遇するようになり、戦後構想を話し合うヤルタ会談と、そして第二次世界大戦終戦を結論付けたポツダム会談に蒋介石を出席させていません。軍事作戦としての敗北以上に、戦後世界秩序を一変させた方針転換といえる。

 大陸打通作戦については、誤解の無い様追記しますと、中国軍は装備と人員規模で日本を圧倒していても、地方軍閥の暫定連合体に近い組織であり、軍事機構としての基盤は近代的とは言い難いものがありました、ただこれは2021年のアフガニスタン国軍を思い浮かべさせますが、この日本軍への敗北もある種致し方ないものはありましたが、敗北は現実だ。

 ジョセススティルウル陸軍大将は沖縄戦で戦死した米軍司令官バックナー中将の後任として知られますが、中華民国では蒋介石の軍事顧問参謀長やアメリカ陸軍中印ビルマ戦域軍総司令官、そして連合国軍東南アジア方面副司令官として知られ、少なくとも中華民国への軍事支援やアメリカへの中華民国の影響を変えました。この流れは戦後へと続いてゆく。

 大陳島撤退作戦。第二次世界大戦終戦とともに中国は対日戦への国共合作により停戦していた国共内戦が再発する事となり、対日戦での消耗も大きかった中華民国国民党政府は中国共産党に対し大陸での敗走を重ね、とうとう1955年2月、アメリカ海軍の空母ミッドウェー等の支援を受けつつ、大陸の最後の橋頭保から台湾へ撤退、遷台する事となります。

 台湾では蒋介石に続き第二代総統となった蒋経国が1987年に解除するまで、戒厳令が布告され、李登輝政権が転換するまで国防政策の主軸は大陸反攻となっていました、この経緯で何故大陸での覇権を失ったかは、多少誇張を含め、長らく歴史教育として維持されており、暗に第二次大戦での消耗を支えられるほどに軍事援助が低調であったとも認識される。

 台湾はしかし、価値観のモザイク国家であり、蒋介石政権が、遷台するまでは1895年の日清戦争以降、日本統治が為されると共に1944年には本土編入となり、価値観に日本教育と戦後200万の遷台により転居した外省人と国民党独裁政権時代の価値観とがモザイクを形成しています、1987年以降民主化が始り、1996年に総統選挙も実現したのが今の台湾です。

 もちろん、中華民国はアメリカに見捨てられたことはないし、いつかアメリカが支持し大陸復帰が叶う、逆に現実を受留め独立国として共存できる、こう考える方もいるのかもしれませんが、アフガニスタンから敗走するように対米協力者も大使館さえ投げ捨て敗走する米軍の様子を見て、本腰で台湾支援へ転換するのだ、と歓迎できる方は少数派でしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【榛名備防録】もがみ型護衛艦もがみ,そして重巡洋艦最上ともう一つの最上は通報艦最上

2021-08-21 14:48:13 | 防衛・安全保障
■最上,FFMは現代の通報艦か?
 もがみ。久々に佐世保と長崎を巡りたいところですが中々昨今遠出が難しい事情がありまして、あぶくま型の写真に代役を頼みつつ。

 もがみ型護衛艦、30FFMとして計画されていた3900t型護衛艦が現在長崎にて建造中です。この護衛艦ですが、旧海軍の重巡洋艦最上、その活躍が余りにも有名です。15cm艦砲を搭載した大型軽巡洋艦として建造され、ワシントン海軍軍縮条約失効を以て艦砲を戦艦撃破さえ可能な20cm艦砲に換装、更に航空巡洋艦として発展、最後の時まで奮戦した。

 最上。しかしよくよく考えてみますともう一つ護衛艦もがみ建造には思い起こすべき一隻がありました、それは通報艦最上、日本海軍が最後に建造した通報艦です。通報艦、それは速度と航続距離を誇り哨戒任務に当たり脅威となる敵戦力と遭遇した際には文字通り艦隊司令部に位置や戦力などを通報、この偵察任務は後に軽巡洋艦へと統合されています。

 通報艦最上は明治37年度計画として建造、常備排水量1350t、8000hpの蒸気タービンエンジンを搭載し、速力は23ノット、全長は91mとなっています。その武装は12cm艦砲2門と7.6cm艦砲4門、および45cm魚雷発射管2基となっていまして、艦砲は全て単装砲、更に最大の武装は艦橋後部に設置した長大なマストにより運用される通信能力でしょう。

 日本造船史上における最上、三菱重工長崎造船所が建造した初めての軍艦でして、戦艦武蔵や戦艦日向と戦艦霧島、重巡洋艦青葉や羽黒や鳥海を建造した三菱重工長崎造船所、通称"長船"の軍艦建造の始まりといえる貴重な一隻だったのですね。そしてもう一つ、通報艦最上は宮原式水管缶を6基搭載、石炭重油の混燃方式を採用していましたが、重要な点は。

 日本造船史上における通報艦最上、その位置づけには日本で初めて国産された蒸気タービン推進艦となっていました、まさにここから日本の艦艇国産技術は一歩大きな段階に達したのですね。このほか、通報艦最上はスクリュー形状を日本独自設計としており、また日本で初めて建造された三軸推進艦ともなっていました。さて通報艦についてみてみます。

 最上の常備排水量1350tというのはやけに小さく思われるかもしれませんが、当時の駆逐艦は350t程度でしかなく、駆逐艦の外洋航行は可能ではあっても外洋での戦闘が想定されていない時代でした。ただ、最上は新造された最後の通報艦ですが、平行して海風型という、日本駆逐艦史上初めて常備排水量が1000tを超えるものが建造、ここに収斂しました。

 駆逐艦との比較をしますと、通報艦最上は三本煙突構造を採用していまして、防護巡洋艦や5500t型軽巡洋艦に通じる形状を採用、もちろん水雷戦隊との連携を考えた設計ではありませんが、12cm艦砲の搭載は小型軽巡洋艦と言いうる設計でした。もっとも、日本海軍の通報艦はこの後、商船改造で航洋性の高いものに転換しますが警備任務に活躍します。

 三本煙突ものちの日本海軍軽巡洋艦と繋がるところですが、魚雷発射管も同様です。もっともこの魚雷発射管配置は不可思議でして、右舷一番煙突脇と左舷後部船楼脇のブルワーク部分に開閉式扉を配置して、ここから投射するという、当時魚雷攻撃はかなり接近して行うものであったのですが、航行中に命中させるには難しいような配置となっていました。

 もがみ、さてこう考えますとFFMという任務は護衛艦隊護衛隊群の護衛艦と言うよりは昔の地方隊護衛艦の系譜であり、通報艦と重なる部分がありますし、一番艦として三菱重工長崎造船所にて建造されています、基準排水量では3900tとかなり大型化していますが、現代版もがみ、重巡洋艦最上よりも通報艦最上との縁が深いように、思えてしまいますね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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