■影響は遠く中華民国-台湾へ
カブールでの混乱は今現在も続いています、まだアメリカは引き返せる分水嶺の近くに居ますが、このまま変化が無ければ、影響は遠く西太平洋地域へ及ぶのは必至でしょう。
アフガニスタン撤退による政府崩壊、この影響は、アメリカが今後重点を置くとされる中国を見据えたインド太平洋戦略に大きな影響を及ぼす可能性があります、それはインド太平洋戦略の基盤ともいえる台湾への政治的及び社会的な影響に他なりません。こういいますのも、バイデン政権がアフガニスタンを見放した経緯が過去を思い出させるためです。
カブール国際空港から離陸するC-17が航空に達する中を次々と機体に掴まり脱出を試みた人々が零れ落ちる様子を見て、申し訳ないのですが、流石アメリカは頼りになる、と思う方は世界広しといえども少数派でしょう、AH-64Eが威嚇し滑走路上の避難民を追い出す情景はパニック映画の悲惨さそのものであり、なりふり構わずの敗走としか印象付けません。
そして、これを冷静に考える事は簡単ですが、政治的で社会的な影響、あの様子を報道された際にアメリカに対する印象がどのようになるのかを考えますと、芳しい評価は出せません、1950年12月の朝鮮戦争興南撤退作戦のような堂々たる撤収ではなく、敗走する様子そのものだったカブール国際空港の報道映像は、事実であり将来に渡り影響を残します。
国家としての過去の記憶は簡単には消えません、日韓関係が従軍慰安婦問題と韓国が主張する徴用強制労働問題で未だに長引くのは云うに及ばず、日本がいまだに八月六日と八月九日を終戦記念日である八月十五日と並べて記憶している部分と変わりありません。そして、それは第三国からみれば認識の相違を感じるものなのですが、台湾には過去の歴史が。
ジョセススティルウル陸軍大将、第二次世界大戦中の米軍将官が1942年に提出した報告書に、当時の蒋介石政権が日本軍に対し戦意があまりにも低すぎ、軍事援助を行った場合でも対日戦に投入を躊躇しているとし、また蒋介石政権への中国民衆の支持の低さや国民党政権の制度上の問題を指摘しています。そして抜本的な制度改革の必要性を提案しました。
ルーズベルト大統領はこの時点では蒋介石と中華民国を重要なステイクホルダーと扱いましたが、一変したのは日本陸軍が実施した1944年年末にかけての一号作戦、通称、大陸打通作戦です。大陸打通作戦はシーレーンを喪失しつつある日本海軍に対し、陸軍が東南アジアと日本本土を中国大陸1000km縦断により一挙に確保するという、一見無謀な作戦だ。
大陸打通作戦へ日本側が投入した兵力は、地上戦力50万と戦車800両、火砲1500門など、そして日本軍としてはまとまった数の自動貨車を投入し、戦闘機も四式戦疾風を一時的に重要方面から転用するなど、中国大陸上空の航空優勢を掌握しました。同時に日本軍は中国にアメリカが建設したB-29爆撃機飛行場を装甲部隊により制圧、九州空襲を遮断します。
蒋介石政権は、当該地域守備戦力だけで100万以上、援蒋ビルマルートとジョセススティルウル将軍の提唱によりアメリカ軍方式の装備と米軍将校訓練団により編成された精鋭師団等も配備され、また戦闘機など航空機材が提供されていたにも拘らず、遥かに小規模の日本軍攻勢に、通常攻撃には防御側の三倍兵力が必要、常識破りの敗北を喫しています。
ルーズベルト大統領はこれをうけ、1943年のカイロ会談までは連合国首脳として蒋介石を招いていますが、大陸打通作戦以降に蒋介石を冷遇するようになり、戦後構想を話し合うヤルタ会談と、そして第二次世界大戦終戦を結論付けたポツダム会談に蒋介石を出席させていません。軍事作戦としての敗北以上に、戦後世界秩序を一変させた方針転換といえる。
大陸打通作戦については、誤解の無い様追記しますと、中国軍は装備と人員規模で日本を圧倒していても、地方軍閥の暫定連合体に近い組織であり、軍事機構としての基盤は近代的とは言い難いものがありました、ただこれは2021年のアフガニスタン国軍を思い浮かべさせますが、この日本軍への敗北もある種致し方ないものはありましたが、敗北は現実だ。
ジョセススティルウル陸軍大将は沖縄戦で戦死した米軍司令官バックナー中将の後任として知られますが、中華民国では蒋介石の軍事顧問参謀長やアメリカ陸軍中印ビルマ戦域軍総司令官、そして連合国軍東南アジア方面副司令官として知られ、少なくとも中華民国への軍事支援やアメリカへの中華民国の影響を変えました。この流れは戦後へと続いてゆく。
大陳島撤退作戦。第二次世界大戦終戦とともに中国は対日戦への国共合作により停戦していた国共内戦が再発する事となり、対日戦での消耗も大きかった中華民国国民党政府は中国共産党に対し大陸での敗走を重ね、とうとう1955年2月、アメリカ海軍の空母ミッドウェー等の支援を受けつつ、大陸の最後の橋頭保から台湾へ撤退、遷台する事となります。
台湾では蒋介石に続き第二代総統となった蒋経国が1987年に解除するまで、戒厳令が布告され、李登輝政権が転換するまで国防政策の主軸は大陸反攻となっていました、この経緯で何故大陸での覇権を失ったかは、多少誇張を含め、長らく歴史教育として維持されており、暗に第二次大戦での消耗を支えられるほどに軍事援助が低調であったとも認識される。
台湾はしかし、価値観のモザイク国家であり、蒋介石政権が、遷台するまでは1895年の日清戦争以降、日本統治が為されると共に1944年には本土編入となり、価値観に日本教育と戦後200万の遷台により転居した外省人と国民党独裁政権時代の価値観とがモザイクを形成しています、1987年以降民主化が始り、1996年に総統選挙も実現したのが今の台湾です。
もちろん、中華民国はアメリカに見捨てられたことはないし、いつかアメリカが支持し大陸復帰が叶う、逆に現実を受留め独立国として共存できる、こう考える方もいるのかもしれませんが、アフガニスタンから敗走するように対米協力者も大使館さえ投げ捨て敗走する米軍の様子を見て、本腰で台湾支援へ転換するのだ、と歓迎できる方は少数派でしょう。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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カブールでの混乱は今現在も続いています、まだアメリカは引き返せる分水嶺の近くに居ますが、このまま変化が無ければ、影響は遠く西太平洋地域へ及ぶのは必至でしょう。
アフガニスタン撤退による政府崩壊、この影響は、アメリカが今後重点を置くとされる中国を見据えたインド太平洋戦略に大きな影響を及ぼす可能性があります、それはインド太平洋戦略の基盤ともいえる台湾への政治的及び社会的な影響に他なりません。こういいますのも、バイデン政権がアフガニスタンを見放した経緯が過去を思い出させるためです。
カブール国際空港から離陸するC-17が航空に達する中を次々と機体に掴まり脱出を試みた人々が零れ落ちる様子を見て、申し訳ないのですが、流石アメリカは頼りになる、と思う方は世界広しといえども少数派でしょう、AH-64Eが威嚇し滑走路上の避難民を追い出す情景はパニック映画の悲惨さそのものであり、なりふり構わずの敗走としか印象付けません。
そして、これを冷静に考える事は簡単ですが、政治的で社会的な影響、あの様子を報道された際にアメリカに対する印象がどのようになるのかを考えますと、芳しい評価は出せません、1950年12月の朝鮮戦争興南撤退作戦のような堂々たる撤収ではなく、敗走する様子そのものだったカブール国際空港の報道映像は、事実であり将来に渡り影響を残します。
国家としての過去の記憶は簡単には消えません、日韓関係が従軍慰安婦問題と韓国が主張する徴用強制労働問題で未だに長引くのは云うに及ばず、日本がいまだに八月六日と八月九日を終戦記念日である八月十五日と並べて記憶している部分と変わりありません。そして、それは第三国からみれば認識の相違を感じるものなのですが、台湾には過去の歴史が。
ジョセススティルウル陸軍大将、第二次世界大戦中の米軍将官が1942年に提出した報告書に、当時の蒋介石政権が日本軍に対し戦意があまりにも低すぎ、軍事援助を行った場合でも対日戦に投入を躊躇しているとし、また蒋介石政権への中国民衆の支持の低さや国民党政権の制度上の問題を指摘しています。そして抜本的な制度改革の必要性を提案しました。
ルーズベルト大統領はこの時点では蒋介石と中華民国を重要なステイクホルダーと扱いましたが、一変したのは日本陸軍が実施した1944年年末にかけての一号作戦、通称、大陸打通作戦です。大陸打通作戦はシーレーンを喪失しつつある日本海軍に対し、陸軍が東南アジアと日本本土を中国大陸1000km縦断により一挙に確保するという、一見無謀な作戦だ。
大陸打通作戦へ日本側が投入した兵力は、地上戦力50万と戦車800両、火砲1500門など、そして日本軍としてはまとまった数の自動貨車を投入し、戦闘機も四式戦疾風を一時的に重要方面から転用するなど、中国大陸上空の航空優勢を掌握しました。同時に日本軍は中国にアメリカが建設したB-29爆撃機飛行場を装甲部隊により制圧、九州空襲を遮断します。
蒋介石政権は、当該地域守備戦力だけで100万以上、援蒋ビルマルートとジョセススティルウル将軍の提唱によりアメリカ軍方式の装備と米軍将校訓練団により編成された精鋭師団等も配備され、また戦闘機など航空機材が提供されていたにも拘らず、遥かに小規模の日本軍攻勢に、通常攻撃には防御側の三倍兵力が必要、常識破りの敗北を喫しています。
ルーズベルト大統領はこれをうけ、1943年のカイロ会談までは連合国首脳として蒋介石を招いていますが、大陸打通作戦以降に蒋介石を冷遇するようになり、戦後構想を話し合うヤルタ会談と、そして第二次世界大戦終戦を結論付けたポツダム会談に蒋介石を出席させていません。軍事作戦としての敗北以上に、戦後世界秩序を一変させた方針転換といえる。
大陸打通作戦については、誤解の無い様追記しますと、中国軍は装備と人員規模で日本を圧倒していても、地方軍閥の暫定連合体に近い組織であり、軍事機構としての基盤は近代的とは言い難いものがありました、ただこれは2021年のアフガニスタン国軍を思い浮かべさせますが、この日本軍への敗北もある種致し方ないものはありましたが、敗北は現実だ。
ジョセススティルウル陸軍大将は沖縄戦で戦死した米軍司令官バックナー中将の後任として知られますが、中華民国では蒋介石の軍事顧問参謀長やアメリカ陸軍中印ビルマ戦域軍総司令官、そして連合国軍東南アジア方面副司令官として知られ、少なくとも中華民国への軍事支援やアメリカへの中華民国の影響を変えました。この流れは戦後へと続いてゆく。
大陳島撤退作戦。第二次世界大戦終戦とともに中国は対日戦への国共合作により停戦していた国共内戦が再発する事となり、対日戦での消耗も大きかった中華民国国民党政府は中国共産党に対し大陸での敗走を重ね、とうとう1955年2月、アメリカ海軍の空母ミッドウェー等の支援を受けつつ、大陸の最後の橋頭保から台湾へ撤退、遷台する事となります。
台湾では蒋介石に続き第二代総統となった蒋経国が1987年に解除するまで、戒厳令が布告され、李登輝政権が転換するまで国防政策の主軸は大陸反攻となっていました、この経緯で何故大陸での覇権を失ったかは、多少誇張を含め、長らく歴史教育として維持されており、暗に第二次大戦での消耗を支えられるほどに軍事援助が低調であったとも認識される。
台湾はしかし、価値観のモザイク国家であり、蒋介石政権が、遷台するまでは1895年の日清戦争以降、日本統治が為されると共に1944年には本土編入となり、価値観に日本教育と戦後200万の遷台により転居した外省人と国民党独裁政権時代の価値観とがモザイクを形成しています、1987年以降民主化が始り、1996年に総統選挙も実現したのが今の台湾です。
もちろん、中華民国はアメリカに見捨てられたことはないし、いつかアメリカが支持し大陸復帰が叶う、逆に現実を受留め独立国として共存できる、こう考える方もいるのかもしれませんが、アフガニスタンから敗走するように対米協力者も大使館さえ投げ捨て敗走する米軍の様子を見て、本腰で台湾支援へ転換するのだ、と歓迎できる方は少数派でしょう。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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