■新緑が彩る信長公の建勲神社
北大路通りは大徳寺から千本北大路にかけ緩やかな斜面が続くところですが、その沿道には船岡山という小山が在ります。
建勲神社。ここは京都市北区紫野北舟岡町の、船岡山という丘陵地の頂きに鎮座する、京都では比較的新しい社殿です。建勲神社の勲を建てるとは、その名の通り戦国時代を終わらせた稀代の武将、織田信長を主祭神として奉じ、その子の織田信忠を配祀する社殿です。
明治3年こと1870年に創建された神社ですが、この建勲とは明治維新に続き、明治天皇が信長子孫である天童藩主織田信敏、廃藩置県により天童県となり山形県となるのですが、織田信敏に建勲の号を下賜されたことに始ります。そしてその社殿は東京にありました。
東京旧天童藩邸と織田家旧領地山形県天童市に、建勲社として造営された社殿は廃藩置県とともに全国で領民が良政を布いた藩祖を祀る藩祖神社というかたちで造営された小規模なものでした。しかし、明治8年こと1875年、別格官幣社に列格することとなってゆく。
京都の船岡山の船岡山城址に1880年9月改めて社殿が造営される事となり、東京から遷座しました。この船岡山、大徳寺、織田信長の葬儀は大徳寺にて営まれましたが、この大徳寺は船岡山の山麓に広がり、織田信長とは船岡山はいうなれば相応に縁があったのですね。
国家安泰と難局突破と大願成就、織田信長を祀る社殿はこうした願いを受ける神社といい、そして船岡山は五山送り火大文字一望の眺望といいますが、石階段を上った先の社殿とともに一望する京都の街並みを視ますと、大願成就は果たせそうな、そんな感慨に浸れます。
神社に至る石階段は、緩やかな北参道と、美しい石階段が続く表参道、距離は短いものの凄い南参道がありまして、しかし北参道だけはクマバチが何故か多く坂道はなんでもないのですが、大きなクマバチは難渋させられました。なにしろ大きく、黒くて迫力は凄い。
しかし、クマバチは実は刺さない、というお話をここで高齢の方にお教えいただきまして、なんでもクマバチ恋の季節には動くものすべてにアタック、攻撃を意味するものでもオーストラリアの新型潜水艦でもなく、アタックをかけるため、寄ってくる、と教わりました。
織田信長といえば岐阜ですが、そしてこれは余談ですが、遙か後にここから遙か遠く岐阜基地を一望する三井山に上るようになりますと、あそこもクマバチが多く、寄ってくるものですが、刺さないのだ、この参道でお教えいただいた知識が大いに役立ちましたしだい。
クマンバチ、方言によってはこうした名称がありますが、ちなみにクマンバチとクマバチは全く別物でして、クマンバチとはオオスズメバチの地方名です、これはアタックを掛けてくるのは攻撃を意味し、刺しますし毒は致命的ですので間違えないよう、ご注意下さい。
船岡山はかつて、城郭があったといいまして、応仁の乱の西軍の城として応仁元年こと西暦1467年に造営、翌年落城するとそのまま放置された歴史が。しかし廃城になった訳ではなく、再整備され室町時代にも京都の西側ににらみを利かせる城郭として機能しています。
応仁の乱の後の船岡山城は、永正8年こと1511年には細川政賢と大内義興の間で幕府の政権と細川氏家督を巡る船岡山合戦が戦われており、参道の道端斜面にみえる暗渠か溝かという情景は、しかしもしかするとここも郭だったのだろうか、とこう思ってしまいますね。
船岡大祭、神社では信長上洛の日ということで毎年10月19日に船岡大祭という祭事を執り行っています。船岡山は此処から近い今宮神社との所縁や、平安時代には人々送るもう一つの役割も担った不思議な地、その参拝は眺望と共に歴史を感じる事ができるでしょう。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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北大路通りは大徳寺から千本北大路にかけ緩やかな斜面が続くところですが、その沿道には船岡山という小山が在ります。
建勲神社。ここは京都市北区紫野北舟岡町の、船岡山という丘陵地の頂きに鎮座する、京都では比較的新しい社殿です。建勲神社の勲を建てるとは、その名の通り戦国時代を終わらせた稀代の武将、織田信長を主祭神として奉じ、その子の織田信忠を配祀する社殿です。
明治3年こと1870年に創建された神社ですが、この建勲とは明治維新に続き、明治天皇が信長子孫である天童藩主織田信敏、廃藩置県により天童県となり山形県となるのですが、織田信敏に建勲の号を下賜されたことに始ります。そしてその社殿は東京にありました。
東京旧天童藩邸と織田家旧領地山形県天童市に、建勲社として造営された社殿は廃藩置県とともに全国で領民が良政を布いた藩祖を祀る藩祖神社というかたちで造営された小規模なものでした。しかし、明治8年こと1875年、別格官幣社に列格することとなってゆく。
京都の船岡山の船岡山城址に1880年9月改めて社殿が造営される事となり、東京から遷座しました。この船岡山、大徳寺、織田信長の葬儀は大徳寺にて営まれましたが、この大徳寺は船岡山の山麓に広がり、織田信長とは船岡山はいうなれば相応に縁があったのですね。
国家安泰と難局突破と大願成就、織田信長を祀る社殿はこうした願いを受ける神社といい、そして船岡山は五山送り火大文字一望の眺望といいますが、石階段を上った先の社殿とともに一望する京都の街並みを視ますと、大願成就は果たせそうな、そんな感慨に浸れます。
神社に至る石階段は、緩やかな北参道と、美しい石階段が続く表参道、距離は短いものの凄い南参道がありまして、しかし北参道だけはクマバチが何故か多く坂道はなんでもないのですが、大きなクマバチは難渋させられました。なにしろ大きく、黒くて迫力は凄い。
しかし、クマバチは実は刺さない、というお話をここで高齢の方にお教えいただきまして、なんでもクマバチ恋の季節には動くものすべてにアタック、攻撃を意味するものでもオーストラリアの新型潜水艦でもなく、アタックをかけるため、寄ってくる、と教わりました。
織田信長といえば岐阜ですが、そしてこれは余談ですが、遙か後にここから遙か遠く岐阜基地を一望する三井山に上るようになりますと、あそこもクマバチが多く、寄ってくるものですが、刺さないのだ、この参道でお教えいただいた知識が大いに役立ちましたしだい。
クマンバチ、方言によってはこうした名称がありますが、ちなみにクマンバチとクマバチは全く別物でして、クマンバチとはオオスズメバチの地方名です、これはアタックを掛けてくるのは攻撃を意味し、刺しますし毒は致命的ですので間違えないよう、ご注意下さい。
船岡山はかつて、城郭があったといいまして、応仁の乱の西軍の城として応仁元年こと西暦1467年に造営、翌年落城するとそのまま放置された歴史が。しかし廃城になった訳ではなく、再整備され室町時代にも京都の西側ににらみを利かせる城郭として機能しています。
応仁の乱の後の船岡山城は、永正8年こと1511年には細川政賢と大内義興の間で幕府の政権と細川氏家督を巡る船岡山合戦が戦われており、参道の道端斜面にみえる暗渠か溝かという情景は、しかしもしかするとここも郭だったのだろうか、とこう思ってしまいますね。
船岡大祭、神社では信長上洛の日ということで毎年10月19日に船岡大祭という祭事を執り行っています。船岡山は此処から近い今宮神社との所縁や、平安時代には人々送るもう一つの役割も担った不思議な地、その参拝は眺望と共に歴史を感じる事ができるでしょう。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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