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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】平野神社観桜,人工知能はさくら吹雪の夢を撮るか?2020年代に2030年代を未だ期待する

2024-04-17 07:00:54 | 写真
■さくら吹雪の夢を見るか
 京都をはじめ毎年同じような話題を同じような季節に紹介しているところではあるのですけれども。

 人工知能はさくら吹雪の夢を見るか?2020年代に2030年代を未だ期待する、こう銘打ち、AI人工知能の話題を平野神社の写真と共に紹介しましたのは昨年のこの季節でした、大急ぎで調べましたならば2023年4月16日とありますので、一年前でほぼほぼ。

 平野神社とAIの話題は、直接関係はないのですが要するに初詣の季節に平野神社を紹介していますので、その深い歴史というものは十数週間前に語りつくしている故の幕間の話題といえるものなのですが、平たい文章については確かにAIは頑張っているようにも。

 小説家とイラストレーターはAIが発達しても仕事を奪われない業種である、とCNNでしたかNHKでしたか、2010年代にAI人工知能の発達を背景に想定されていましたが、模倣、というAIの特性を考えますとこの二つこそ脅かされている、といえるでしょう。

 尖った文章である必要から、過去の自分の書いた文章すべてを記録させ、且つ過去自分の読んだ書籍や学習機会を入力させることで、本人の模倣を可能とするAIが開発できるのかもしれないが、現状AIが書いてくれるのはWikiのようなあたりさわりのないもの。

 ガイノイドのようなものにAIを搭載させて人間社会の一員として生活させることで、人間的な学習を積み重ねるまでは、単なる模倣でデスクに叱られるような文章しか書けないのが実情なのだろうなあ、と最先端の技術を見てさえも嘆息するのですが、ただし。

 写真は。時間のない中に将来的にこの北大路機関の一部をAIが補助してくれることを考えたのですが、AIは写真をどのように撮影してくれるのでしょうか。いやこの点こそ、たとえばCANONがAI搭載カメラを開発した事で少し期待したものなのですけれど。

 人工学習ということで、わたしはてっきりCANONのカメラ連動画像処理ソフトがカメラには同封されているので、これまでCANONユーザーが撮影した膨大な写真を、手動でも、学習させることで撮影のタイミングをカメラに教えるAIが搭載されるのだ、と。

 良い写真と失敗写真を、例えば祭事撮影、例えば行事写真、例えば鉄道写真、例えば報道写真、まあ一般的にはスナップ写真や学校行事に旅行写真など、これが100点最高の構図で、これは70点まあまあ構図、60点の及第点と15点の失敗写真、という感じ。

 CANON,しかし考えればAI開発の部署の規模は特段大きな規模ではありませんし、AI開発のスタートアップ企業を買収して傘下に置いたわけでもない、そして聞いてみると、AI搭載というものの学習させる能力がない使いにくい器材という苦情が聞こえた。

 UGV無人地上車両に搭載して行事の際などに助手一号助手二号、という感じで撮影者本人の居ない角度から過去その撮影者が撮影したような構図をズームと広角を使い分けて撮影し、そして周りの邪魔にならないような撮影、ということは技術的に可能なのか。

 カメラメーカーが本気になって、過去の本人が良い写真だ、と太鼓判を売った写真の構図を再現するような、AIを撮影者が教育できるカメラを開発して、その上でまともな性能のカメラ、AI補正ではなくミラーレスでもコンデジでもカメラを自律操作できれば。

 人工知能はさくら吹雪の夢を撮るか?2020年代に2030年代を未だ期待する、まあなんというか昨年の、人工知能はさくら吹雪の夢を見るか?2020年代に2030年代を未だ期待する、という文字をひねればこうした期待を今年新たに待ってみたくなったのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
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【京都幕間旅情】平野神社観桜,四月十日は桜花祭と花山天皇神霊は神輿の御輿を迎えるこの春満開の桜花たち

2024-04-14 07:00:08 | 写真
■平野神社桜花祭
 この週末は彦根城等が満開なのですが桜花もさて次の火曜日水曜日の悪天候とともにいよいよというところなのでしょうかねえ。

 鳥居には扁額が戻り、台風被害から拝殿も復旧した先に本殿も修復は完了していてもとどおり、いやCOVID-19新型コロナウィルス感染症もそのさきにはありましたが、花見客用のお酒とかの出店も出ていませんが、個人的には静かで、観桜を愉しめる季節という。

 平野神社、桜花祭を迎えました。四月十日に祭日が明確に決められていますので、例えば4月14日の日曜日に今宮のやすらい祭を行っていますがこちらは曜日で決めていまして、行きやすい曜日を調整するのか、それともやはり祭日は動かさないようにするべきか。

 桜花祭というのは花山天皇がはじめて桜の木を御手植えしましたことを記念する祭事でして、もともとここ平野神社は奈良時代から続く皇太子守護の社殿でありまして、この祈りと共に平城京から平安京まで遷座した寺院なのですが、神紋はさくらとなっていまして。

 花山天皇、在位期間は特段長くはないのですが、改革の天皇として知られていまして、そのなかには梅花の花見から桜花の花見に切替えた事でも知られてまして。それまで宮廷文化での花見と云えば観梅が一般的ではあったのですが、観桜にきりかえていました。

 観桜、これは開花の期間が梅花よりもみじかい桜花となっていますので、いわゆる遊興となる花見の期間を短縮した、という事でしょうか。花山天皇は無駄を省く、いまふうにいうならば行政改革か、こうしたことを断行しましたが、反発を買う事もおおかったという。

 御輿、さて子供の頃から御神輿を担ぐ事は数多いのですけれども、考えればここ平野神社の桜花祭は花山天皇をまつるものですから、この神輿の御輿は花山天皇の神霊を祀っていることとなりますから、天皇さんご本人をそのまま祀った御神輿というのは珍しいのか。

 暖冬という事で実はこの桜花祭は心配していたのです、なにより桜花祭でしたので散ってしまってはこまる、四月十日の祭事ですので既にサクラサクは経ているのでしょうけれども昨年等はもう四月十日はサクラチルという状況におちいってしまっていたのですから。

 寒い春、そう驚いたのは確か節分までは物凄い暖冬であったので下手をすると二月中にさくらが開花してしまわないかという危惧もあったのです、こんなに暖かくて大丈夫なのか、というほどに実際スキー場も全国でどこも早々と店じまい、シーズン営業を終了していて。

 開花時期は、しかし平年よりも若干遅いといいますか昨年が異常な暖冬でほんとうに開花が早く四月一日にはほぼ散ってしまっていたような状況でしたから、もう昨年と比較すると二週間ほど開花時期が違った、という感じでして、故に今年は本当におそくかんじた。

 この週末などは全国でも夏日がありましたほどですから、もうこれは気候変動、というものを感じるのですけれどもしかし、四月初旬は開花を経てまた寒さが戻ってきましたから、さくらの期間が長く感じました、いや梅花の開花は暖冬ではやかったこともやはりたしか。

 花見では梅花が二月初旬から華やかな季節となっていた、いや一月の内から梅花は咲き始めていましたから、一月下旬から四月後半まで、梅花に桜花という、もうこれはとても長い期間を愉しむ事が出来ました訳で、さてこの先は青葉と、その先は痛い青空、となる。

 桜花祭、御輿が式典を待つところではありますが、そうここでは青空となりまして漸く曇天ばかり続いていました花曇りの季節が終わりまして、春らしい風景となりました。喩え逆光であったとしても、曇天よりも色彩が鮮やかなこの情景の方がわたしはすきです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】平野神社観桜,花曇りと黄砂超え青空戻る京都の空と大鳥居に戻る扁額とさくらを見上げる

2024-04-13 07:01:15 | 写真
■満開の桜は平野神社
 この春も色々と時間を見つけましてさくらを見上げたものですがさてさてどこまで紹介できるのだろう。

 さくら満開の季節、カメラを片手に散策しました際にどうしても今年は花曇りという言葉が適合する程にどうしても空が白く曇り、若しくは大陸からの黄砂が視界を遮ってしまう事も多かったのですが、満開を少しだけ過ぎた頃にようやく青空が戻ってきた印象です。

 平野神社、初詣の定番という一つとして位置づけているのですけれども、もうひとつここは観桜という文化の始まりの神社であることも初詣などの際に示しましたとおりです。しかし、平野神社、春がきたなあという印象とともにことしはもう一つ感慨深い。

 扁額、鳥居の扁額がようやく配置されまして、考えてみると平野神社、2018年の台風被害からの復興に非常に大きな時間がかかりましたが、鳥居の扁額の復興とともにようやく、あの災害の前まで戻ってきた、という印象でしょうか、COVID-19よりも前だ。

 台風被害はおおきなもので、拝殿が倒壊しました、全壊よりも大きな倒壊で巻き上げられたことですべて破損してしまいまして、その復興に仮拝殿を構築して、そして、江戸時代の再建されたものをさらに台風被害からの再建ということになったわけですけれど。

 COVID-19の前には拝殿の復興が目処もたった、こういわれたところで喜び勇んで参拝に歩み進められたかたもおおいのでしょうけれども、拝殿の復興は破損という非常事態を背景に進められたものですから、ようするに予定されていた修復作業を棚上げしていた。

 本殿修復は拝殿復興とともに開始されましたので、もとどおりになった拝殿のまえにありました本殿は、やはり足場が組まれて少し後に覆いで覆い隠されてしまいまして、要するに台風被害前の平野神社というよりは修復中の神社というような外見となったかたち。

 桜花の季節、それは昨年の話題なのですけれども今度こそ日常の、昨年の桜花の季節にはまだCOVID-19には感染症法上の五類変更前の二類相当とされていましたけれども、まあ致死性と社会維持と秤に掛けて再起動を始めた頃に参拝しますと、今度は扁額が、と。

 しかし、これ西大路通りから平野神社の観桜を迎えた鳥居を眺めますと、そういっけんして紅白幕が鳥居の向こうに見えるのです。COVID-19の前にあって平野神社は、観桜の季節には出店が並んでいまして、非常な喧噪の先に神社がある、という印象でした。

 団子か花かなんて言葉もあるのですけれども、ここでの酔客は参拝くらいはしたのだろうかと少々場所柄を考えてしまった以前に、やっぱりうるさいのは苦手だったなあ、と思いつつCOVID-19の時代には、静かすぎるのも考え物か、と贅沢な思いをしましたが。

 コロナ前、とは今年の平野神社も行かなかったようで、出店などはなく静かに観桜をたのしむべく桜苑が有料公開されていました。ちょっと心引くのですが一歩引けば、桜苑には神社を象徴するものはほぼ無く、みれるのは桜だけ、ちょっとなあ、と思うところ。

 日常の再開、そうこの日の参拝は特別な日に歩み進むことができるようになりまして、時間を何とかあけた次第です。それにしても昨年は桜の開花が早すぎたこともありますから、ちょっと残念ではあったのですけれど、満開、という言葉が適合するような情景だ。

 NHKが空撮の準備をすすめていまして、もう散り始めなのかという理解で望んだところ、NHKさん的には見頃、であったようで、そして特別な日ではあるのですけれども思ったほどの混雑はなく、所用を早めにすませた余裕とともに、いよいよ参拝へ臨みました。

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【京都幕間旅情】大覚寺-観桜,嵯峨野のこの静けさと観光過多下京都の忙中有閑は数多市中寺社仏閣に在り

2024-04-11 07:00:54 | 写真
■この静かな観桜と拝観
 静けさというものこそが情感を実感に置換えて思考と哲学と日々の精神の清涼剤とするには重要な要素だとおもうのです。

 大覚寺、観光過多が叫ばれる京都なのですが何故かここは静けさが保たれている。なぜだろうか不思議なのです。多宝塔と大沢池の情景は、多宝塔の造営は確かに戦後なのだけれども、大東亜戦争と太平洋戦争の犠牲者鎮魂という寺院らしい所以がある。

 嵐山駅から距離があるからかとも考えたのですが、距離があるとはいっても知れている距離ですし市バスも頻繁に運行されている。すると歴史の短さがあるのかと追われれば創建は平安初期、ここよりも歴史の長い寺院は京都でもそれほど多い訳ではない。

 応仁の乱の戦火には見舞われていますが、寛永年間には復興を終えている、というよりも先ず門跡寺院でしたので多くの建物を京都御所から賜るなど、寺院に流れる宮廷文化という日本独特の風情と情感を湛えていますし、なによりもここ大沢池があるのだ。

 大沢池は、人工池泉としては日本最古のものだといいます、記録されていないだけで実はあのため池は二千年前の土木工事で、というものは実はあるのかもしれませんが記録がはっきりしているものはない、ここはかつて舟遊び、いまは農業用として現役で。

 高雄と愛宕を借景として池の向こうに見えます風景というものも、そう水面に映る情景といいますと宇治の平等院を思い出すかもしれないのですが、池泉の規模は寺院としては京都でも最も広い水面と峰々の借景なのではないか、するとますますわからない。

 観桜の季節、それはもう京都旅行を思い立つ距離が遠ければ遠いほど、なにせ観梅と違って観桜は一瞬で散ってしまいますので、京都探訪の最中に咲いている保証はないのですけれども、すると一点豪華集中の様な構図が成り立っているのかもしれません。

 天龍寺、は一応混雑しているらしい、それは嵐電への帰路の際にここには人は居るのだなあと感じた故に。あとは、金閣寺も混雑しているのかもしれない、バス停を見るだけでは如何は落ち着いたのちに使用、と感じる故に。清水寺も、まあ混雑しているか。

 東寺は日曜日にもそれほど混雑していない、此処ほど疎らという訳ではないのですが混雑という印象はありませんでした、それも先日といえばまさに満開という頃合いですので、入れないほどの混雑を覚悟していましたが、穴場なのか運がいいのか、さてさて。

 清水寺は混雑しているのでというのですが具体的には、火曜日の高台寺界隈は仕事の関係でいった話ですが、それはもう凄い混雑であったものといい改めて二年坂を通じて高台寺界隈と清水寺は直結しているのだ、と。バス駐車場の有無という関係もあるのかな。

 日曜日の夕方に、ちょっと帰路に就く前にお洒落なお店で一杯やろうか、と考えますとここではオーバーツーリズムが凄いのです、チェーン展開の焼き鳥屋もラーメン屋さえも場所によっては長蛇の列でして、いっそ此処起業しようかしらん、とおもうほどに。

 日本観光、エキゾチックなジャパニーズカルチャーにフレッシュナブルでサステマチックにシステムエラーのオリエンタルなゴージャスの、というのかもしれませんが、数ある街並みから京都を選ぶのですから、もう少し来ていてもよいと思う場所があるのだ。

 京都はオーバーツーリズムで混雑している、というのは残念ながら事実ではあるのですが、混雑しているようだから行くのはやめよう、というほどには、大覚寺のように静けさを保ち拝観の時間を過ごすことのできる場所もあるのです。そう、ここも嵐山なのです。

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【京都幕間旅情】大覚寺-観桜,唐朝は洞庭湖を模す大沢池に掛かる桜花は嵯峨天皇築堤の日本最古人造池泉

2024-04-10 20:23:57 | 写真
■大沢池巡る拝観路と桜
 高雄と愛宕の峰々を眺めつつそして大沢池に映るもともとの絶景という情景はこの季節には桜の花々が加わるところでして。

 大沢池は唐の洞庭湖を模して嵯峨天皇が造営したものという。平安時代の大工事だスゴイゾニッポン、と思うかもしれませんが当地は緩い傾斜地となっていまして築堤さえしましたならば高雄からの水が静かに溜まり池泉を形成しているという実情はある。

 唐の洞庭湖っていうのはこんな感じなのかあ、とわたしも知るまではあんまりほかの池と違わないなあと日中の親和性と文化的共通性を嗜んでいたのですが、よくよく聞きますと名古曽の滝という、ここの水源あたりが平安時代にその意趣で作庭された、と。

 華道嵯峨御流といいまして、実はこの大覚寺は生け花発祥の地という歴史があります、なぜ急に生け花の話か、といいますと、先ずこの大沢池に見立てて花を生けたのが生け花の始まり、という一説があるようでして、そうきいて池泉を見渡しますと何か違う。

 天神島、庭湖石、菊の島、亀さんが上陸して甲羅干しをのんびり微睡んでいる様子などが見えるのですけれども、まさに二島一石この配置こそが華道嵯峨御流の原点となる構図といわれていまして、時とともに移ろいながら情景を一新させているとのことで。

 嵯峨天皇の時代には天神島は地続きであったといい、これも日本列島がヴルム氷河期に大陸と地続きであったことの名残、というわけでは全くなく、実はこの天神島、庭湖石、菊の島、その並ぶ構図は室町時代に再建されたものの一つといい、一新した、と。

 菊の島などは嵯峨天皇が菊を植えたという場所で、この菊の島に植えられた菊を一輪差したのが最初の生け花、と。いわばこの大沢池をそのまま嵯峨院に持ち込まれて愛でた、という構図ですね。ただ、この水源となるのは100mほど先の名古曽の滝といい。

 名古曽の滝、いや大沢池の水源はせせらぎがいまも、原風景というか実はこうした小さな流れの元で子供の頃はキャンプをしていたものなのですけれども、ごくごく浅い流れが、しかし清冽というのはこの為の言葉なのだろうなあ、大沢池へ流れ込んでいる。

 応仁の乱はじめ大覚寺は幾多の戦火とそして失火の大火で、結局現存するものは江戸時代の寛永年間のもので建物が攻勢されているとは前述のとおりですが、この池泉は普通に農業用として活用され、いわばそう役割だ、役割と共に維持され今日に至るのです。

 大沢池の築堤は、歴史学的には当時の築堤がそのまま活用されているといい、しかし名古曽の滝からの水際の距離はどうも動いているようなのですから、この堤がどのように維持され、千二百余年の歴史を紡いできたのかはどこまで研究が進んでいるのか。

 観桜の際には、さてさてせっかく文字通り池泉回遊式庭園を回遊しているのです、構図を気にするものなのですがひと際、借景をどこの風景に溶け込ませるのか、そう水面と桜花という構図は数多ある故にここは大覚寺、と一見して分かる構図を探すのですね。

 満開の季節ですのでもう少しここは混雑しているものだと思っていましたが、実際散策していますと人は、どちらかというと疎らで、なんといいますか、オーバーツーリズムといわれるようなところでも、しかしここまで人のいない場所、2024年にも在るのだ。

 拝観、というには少々この大沢池だけでは寺院という印象は薄いのですが、嵯峨天皇の時代からここは嵯峨殿で嵯峨院の一部であるとともにそののちにも大覚寺の一部であることは歴史が示す通りで、この風景を独り占めし、春の到来を改めて実感するのです。

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【京都幕間旅情】大覚寺-観桜,興福寺の塔頭による兼帯は後嵯峨法皇の落飾により門跡寺院となり院政の地へ

2024-04-10 20:00:03 | 写真
■日本政治史と大覚寺
 さくら綺麗と素通りするにはここ大覚寺は惜しい歴史を秘めていまして思い馳せつつ情景を思い起こすのもまた愉しい。

 嵯峨天皇の嵯峨院、ここに空海が五覚院を造営したのがここ大覚寺の始まりということですが、それを以て離宮の扁額に大覚寺と記した訳ではありません、なにしろ嵯峨天皇も出家したわけではありませんから。するとここが今に繋がる大覚寺になるのは。

 淳和天皇皇后正子内親王、この方は嵯峨天皇が崩御しお隠れになったのち数十年後に実子で仁明天皇廃太子である恒寂入道親王を開山とする寺院造営を思い立ち、既に使われる事の無かった嵯峨院を寺院とすることとしました、時は貞観18年こと西暦876年で。

 興福寺塔頭という扱いであり、考えれば空海さんの神護寺はこの直ぐ近くの高雄山に鎮座しているのですから、興福寺という南都の影響というのも少し不思議に感じるものではあるのですが、兼帯というかたちで、真言宗への牽制ではないと思いたい、続いた。

 門跡寺院、さて興福寺の塔頭による兼帯というか牽制というかという状況が大きく変わりましたのはそれからまた数百年の後、後嵯峨上皇の法皇宣下という転換期を待たねばなりません。また嵯峨院跡地だから後嵯峨法皇の落飾、という安直ではないと信じたい。

 後嵯峨法皇の落飾は文永5年こと西暦1268年、文永年間といえば鎌倉幕府執権が北条時宗、元寇の日中激突が間近に迫っている時代ではあるのですが、ここに法皇の院を置いたことにより当地は門跡寺院となりまして、院政の舞台となる嵯峨御所となります。

 亀山天皇の法皇宣下とともに当地にて院政を取り仕切る大覚寺統という正統性が確立されるのはこののちでして、同時に後深草天皇が法皇宣下しますと持明院統という二つの院政の流れが自然形成され、二つの正統性は交互に権力を譲位する系譜となりますが。

 両統迭立という二つの流れでも、それは先ず院政からして権力二重構造ですので対立の萌芽となり、結果的に南北朝時代というに品が二つに分断されるが国家は二つに分断しないというよくわからない治世上の危機につながるのは、まあもうすこしあとのはなし。

 南北朝の時代まで話題が進みましたが、元中9年こと西暦1392年に南北朝の対立が解消され、実権を握った北朝に持ち去られた三種の神器が南朝より変換される場となったのも大覚寺でして、こう考えますと日本史、政治史における特異な位置づけが垣間見える。

 室町幕府開府とともに南北朝時代の始まりは、正当性を幕府が有して統治しながらも国家の正統性は朝廷にあるという、日本型の統治機構にあって足利尊氏が心を痛めた大きな転換点でもあったのですが、南北朝の対立解消により大覚寺はまた重要性を持つ。

 足利義満の実子義昭を門跡に、さすが日本国王を自称するだけあって実子を迎えれば門跡寺院という考えもなかなか飛んだ発送、発想ではなく最早発送、なのですけれども幕府の庇護と財政支援を受けることとなりまして、その間発災した火災からも復興します。

 応仁の乱では、やはりといいますかまあそうなるな的な結果ですべての建物が灰燼に帰しますが、安井門跡蓮華光院門跡の支援とともに細々と復興をはじめ廃寺を免れまして、時間はかかりましたが江戸時代の寛永年間にはほぼ現在の姿まで復興したという。

 宮廷文化華やかな、と安易な言葉を使いたくはないのですが、大沢池の向こうに見えます大覚寺は、そう時には観月の舟遊びなど平安朝の頃から嗜んだ当地ですので、なにかこう挙げています歴史の深さが満開の桜花の先に際立って、みえるようなのですね。

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【京都幕間旅情】大覚寺-観桜,嵯峨天皇離宮は平安遷都と空海との縁が生んだ壮大寺院はさくら花々に飾られる

2024-04-10 07:00:07 | 写真
■さくら咲く大覚寺
 桜花咲き誇る季節ゆえに一つ嵐山まで歩み伸ばしてみましたがあいにくの曇天の狭間に時折除く陽光に七分咲きの桜花が鮮やかでした。

 大覚寺、右京区嵯峨大沢町に所在します真言宗大覚寺派大本山となっています。ここは、JR山陰線の嵯峨嵐山駅から歩いて十分、いや充分というところにありまして、少々坂道ですのでちょっとした散歩道となっています。神護寺と違って歩ける距離ですが。

 嵐山、そう嵐山です。京都といえばオーバーツーリズムと観光過多、両方とも同じ意味だろうといわれましても二重に強調しなければならないほどに観光客が多すぎることで、嵐電の嵐山駅前は変な話で来意電車内よりも人口密度が凄いことになっている。

 観桜の季節にそう、大覚寺といえば京都を代表する観光地となっているのですから、立錐の余地もなく観光客は大沢池に落ちて広沢池や琵琶湖まで流れ着く、ような覚悟とともに出かけたのですけれども、いやはや、驚いたのは混雑していなかった、という。

 真言宗大覚寺派大本山の寺院、と同時にここは嵯峨天皇の離宮でもありまして離宮から発展した寺院、嵯峨天皇といえば平安遷都間もない混乱期に治世を担った、そしてそれは同時にかの弘法大師空海と同じ時代に混乱の時代をおさめた天皇でもありました。

 嵯峨天皇は桓武天皇から皇位を継承した第五二代天皇、そして桓武天皇といえば平安遷都としてこの京都と京都たらしめた天皇、山城国を京都としました転換点の天皇でもあるのですが、その生涯は軍事と造作という、遷都に北方遠征とを続けた治世でして。

 桓武天皇は藤原京に平城京と長岡京と幾度も遷都を繰り返しつつ、しかし晩年に徳政相論という、若き官僚の藤原緒嗣による建言を受け、遷都をこの平安京の完成と共に永年の王都とする方針を示し、そして蝦夷討伐についても守りの姿勢へ転換を果たします。

 徳政相論はまさに最晩年の転換であり、その直後の崩御とともに皇位を継承した嵯峨天皇はまさに新しい一歩をすべて決めることから始まる訳ですが、しかし剛腕を思わせた桓武天皇ですが、現代に残る書物や研究では東宮をそれは可愛がったとも記録される。

 坂上田村麻呂、蝦夷討伐についても攻勢限界というような消極的な停戦ではなく志波城造営による北辺地域の平定、そしてこの頃の日本農業における牛馬、特に馬の普及から奈良時代の農民徴用徒歩歩兵からある程度の騎馬兵力健軍に成功しての転換でした。

 薬子の変というような出来事は嵯峨天皇の治世初期には世の中を混乱させましたが、先ずは北方脅威の減退、そして平安京という最大規模の遷都事業の完成とともに嵯峨天皇の時代には日本文化が漸く一つの方向性を定め、いまの日本へ繋がる一筋が差す。

 空海とは、そのころに縁を得たという。いや、ここ大覚寺は空海が寺院への一歩を示した場所でして、そう九州や奈良などをかつての壮大建造物の遺構をと調べますと今は石碑のみ、というところが数多ある、離宮や宮殿は役目を終えれば姿を消すのですが。

 嵯峨天皇の時代、薬師の変が勃発しますと、当時唐にて最新の密教を修め帰国した空海に国家鎮護の法要を要請することとなります。保守的なわが国は当時も同様であり、密教の布教には天台宗の最澄による尽力が無ければ洛中に入ることも難しかった、とも。

 鎮護国家大祈祷を行いました空海は嵯峨天皇にその離宮へ五大明王持仏堂の造営を勧め五覚院を造営、こうしてここに離宮から始まる大覚寺の歴史への一歩が刻まれ、その場所がいまは京都へ春の訪れ、桜花の満開という美しい季節を迎えているのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】大報恩寺-千本釈迦堂観桜,おかめさんはおかめ桜と鎌倉時代の価値観

2024-04-04 07:00:50 | 写真
■おかめさんはおかめ桜
 千本釈迦堂は決して大きな寺院ではないのかもしれませんがたたえている歴史はどの寺院にも、とおもうのです。

 おかめさん。おかめ納豆とかで有名になりましたおかめさんですが、ここ千本釈迦堂のおかめさんがもととなっています。と、こう断言しますともともとおかめとお多福の神話上の親和性などを示していやいや、といわれるかもしれませんが、ここはひとつ。

 長井飛騨守高次さんという、千本釈迦堂の工事に携わった大工の棟梁さんがいましたが、当時替えの利かない木材の寸法を誤って切り落としてしまい、これでは堂宇が完工できないとして大いに困った、という話がありまして。当時の日本でも太い木材は貴重で。

 組み木式に斗組を組んではどうか、とこう長井飛騨守高次さんの細君といいますか奥様のおかめさんが助言しまして、なるほどということで無事落成させられたのですが、おかめさんは、当時の男社会で女性の助言を基に完工させたことで考えることとなる。

 堂宇は無事完成したのですが、夫に引け目を取らせないようにおかめさんは自害してしまった、と。このことを大いに悔やんだ長井飛騨守高次さんは求法上人義空さんにことのしだいをはなしまして、そして現代にもつながる宝篋印塔が造営されたとのこと。

 時代錯誤、と800年前の価値観を今と混同しないように思えるのですが、最近の方は歴史を考えることのできずに主義主張を、縄文時代にも議会民主制を求めかねないような主張を為さいます型が中にはいますので、いろいろいわれるのかもしれませんが。

 歴史は、しかしいろいろといわれますおかめさんの様々な話の源流が、此処千本釈迦堂の片隅から始まることを示していまして、おかめさんの銅像はいまもおかめ桜の枝垂れた花々の隙間から、御簾の向こうの様なしおらしさとともに、みえているわけですね。

 さくらの季節はこうして千本釈迦堂から始まっています。平野神社もほぼほぼ、歩いてみますと、まだまだだなあ、とおもうところもありますが、梅花と違い桜花はあっという間、すると季節の移ろいにちょっと急ぎ、を醸すようになる新年度のころあいでして。

 京都市観光協会の桜花開花情報、気をつけた方がいい、この暖冬と、しかし昨日からの寒の戻りにより、情報はそれこそ寸秒とともに変化しまして、特に三月末尾は土日の休日でしたが、開花情報は平日に出された為に数日の違いが景観を激変させる。

 枝垂桜は、もう満開に近い時期であっても染井吉野はまだ二分咲き、開花宣言後は高温もあって一気に花が、という天気予報なんかは多くTVを賑わしていましたが実際にはそんなことは、というような寒の戻りもありましたので、予報があてにならないのだ。

 染井吉野の開花は関係なく、では実際行ってみるべきなのか、と思いますと、先日平日に醍醐寺に行かれた方の話ですけれども混雑といいますか先ず自動車の駐車場がないという、自動車の移動とは思い切った観桜だと思いましたが、そんな話も聞きまして。

 観桜は予報よりも経験、過去数年前ではなく十年前くらいの気象と開花状況を見て散策するべきなのかなあ、と思ったりも。そして、やっぱり醍醐寺は混雑するのね、とも改めて。千本釈迦堂は、穴場、という訳ではないのですが静かな寺院となっています。

 大寺の桜名所を巡るのも確かに、花見をしたのだ、という思い出にはいいのかもしれませんが、歴史ある古刹は数多並ぶのが京都ですので、一つ順路を決めて散歩道のように巡るのも、京都らしい花見の一日を過ごすにはいいのかもしれません。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】大報恩寺-千本釈迦堂観桜,洛中最古となった鎌倉時代造営の釈迦堂が湛える歴史の不思議

2024-04-03 20:24:46 | 写真
■鎌倉時代の求法上人義空
 世界ふしぎ発見、という38年にも及んだ人気クイズ番組が先週最終回を迎えましたがここ京都を散策しますと歴史の不思議はまだ数多で。

 千本釈迦堂は、捻じれた様な歴史の妙と言わざるを得ない紆余曲折を幾つも経て、敢えて乗り越えたとは云わない、今日も凛としたたたずまいの堂宇とともに迎えてくれる寺院で、日々門扉を拝観者に開放する御山の飾らない歴史には奥行き深く感じます。

 義空、求法上人義空により創建された寺院となっていまして、それは鎌倉時代初期の承久3年こと西暦1221年、そしてこの創建に尽力しました求法上人義空さんはもともと比叡山において厳しい修行を収めたとともにその祖父はあの藤原秀衡さんであったのですね。

 藤原秀衡、そう奥州藤原氏最盛期を飾ったあの藤原秀衡の孫となっていまして、いや実は不思議な時代、日本に複数の首都があったとさえ解釈できる平安朝末期の時代に奥州へ栄華を飾った奥州藤原氏、源義経を歴史が扱う際には必ず示されるあの奥州の。

 治承・寿永の乱ではあの源義経の養父となりまして、そして源義経が兄頼朝の号令に付き従い出立を決めた際には、惜しみながらも家臣佐藤継信忠信兄弟を家来につけ、見送った一方、鎌倉幕府開府の後には源頼朝との決定的対立を危惧しつつ逝った武将だ。

 源義経との関係はその名の通りであり、藤原秀衡没後には奥州藤原氏は幕府との全面対立となり滅亡しています。しかしその孫である求法上人義空が、祖父が奥州平泉に拓いた無量光院のような華美な堂宇ではなくとも、洛中に堂宇を開いたことは印象深い。

 後白河法皇、歴史の字面だけを俯瞰しますと奥州藤原氏は幕府にとり謀反人であった源義経を匿ったことで滅亡の端緒となった訳ですから、何故洛中に寺院を、と思うところですか、藤原秀衡は生前に後白河法皇との関係も重視していて院近臣も輩出していた。

 大報恩寺の堂宇が小さくとも確と開かれた背景にはこうした歴史の妙があるのですね。一方、もう一つの歴史の妙とは、山名氏清と山名宗全との関係と、そして切り離せない応仁の乱との関係です。応仁の乱は、日本的というほどに分かりにくく、傍迷惑だ。

 山名宗全、応仁の乱そのものは幕府が将軍職の形骸化を進めるとともに集団指導体制により権力闘争を次第に進めるという不安定な中で管領家の畠山氏と同じく管領家の斯波氏それぞれの家督争いが巻き起こり、実に11年間、イラク戦争並みに続いた戦争で。

 千本釈迦堂はその隣に山名氏清の慰霊塔と、そして山名宗全の持仏堂がありまして、その関係で山名宗全はこの堂宇について、何があっても守るべしと号令を発した事で、西陣という今の地名からも指呼の距離にありながら堂宇は戦災を免れた、という。

 山名陸奥太守氏清之碑や持仏堂としての不動明王堂なども堂宇として維持されています。もっとも、ここはいまおかめ桜が満開という状況でして、そして境内は決して広い訳ではないのですがおかめ桜の桜花からは若干遠く、なにか戦災への忌諱も感じます。

 戦災への忌諱というのは、堂宇をここ一つ護るよりも何故京都はもちろん全国に飛び火し焦土戦になるような内戦を放置したのかということで、ただ、権力集中を避け、言い換えれば、だれが責任者なのかを曖昧とする日本の気風そのものには今も危うさが。

 責任はわたしがとる、という発言を好む方も決断が成功した場合は成功の果実を独占しますが失敗した場合は責任を取らない事が多い、だから会議により良案を探るよりも責任の分散を図る、お前も同意したろう、と。木々の並びにそんな錯覚を感じました。

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【京都幕間旅情】大報恩寺-千本釈迦堂観桜,三月の桜便りは京都に春の訪れを伝える枝垂れのおかめ桜

2024-04-03 20:00:50 | 写真
■三月の枝垂れ桜
 新年度と年度末を分かつ三月末は土曜日と日曜日でしたが散策に出てみますと意外と枝垂れ桜を中心に満開へ近づいていました。二日後の新年度は更に。

 大報恩寺さん、千本釈迦堂というのは通称といいますか愛称であり、正しくは大報恩寺という。ここには枝垂桜であるおかめ桜が京都では早咲きの桜という印象がありまして、ちょうど早めに拝観へ探訪しました際にも煌々と優美を静かに示していました。

 京都に桜とは春の便り、という印象を最初に伝えるところは何処だろう、河津桜を含めますと意外な場所が梅花の香り残る頃合いから春の便りを、いわば梅花が旧暦の春便りならば桜花は新暦の春の便りか、いち早く届けてくれるのですが、考えてみると。

 平野神社は桜の便りが最速だ、けれども境内には十月桜という、年末から延々と咲いている桜が、さくらを神紋とする平野神社の矜持を示していますので、初詣でも桜がかすかながら咲いて迎えてくれる故に、ここが春の便り、といわれますと、それは、ねえ。

 千本釈迦堂に行ってきた、とはずいぶん昔の学生時代に兎角現実主義で活発且つ闊達で快活という、こういう人物になりたいものだ、という名古屋からの学友殿が朗らかに語っていまして、頃合いは師走の頃、なるほど急に信心深く、とおもえば視点は逆で。

 大根焚き、という。いまは有料なのですけれども20年前は無料だったのだろうか、余程このことが無ければ混雑を避けるわたしとしては、ふーんそうなんだあ、という程度の話題ではありましたが、意外と街中にあります、けれども大寺の千本釈迦堂の印象だ。

 振る舞い酒を無料で頂ける神社は平野神社の初詣でお神酒をコップ酒感覚でお参りの際に頂けますし、そういえば上賀茂神社も観月祭で参拝者に月見団子とお神酒の振る舞いが無料であったか、忠臣蔵の大石神社も甘酒の初詣振る舞いが、と考えれば数多い。

 千本釈迦堂はこうした印象の一つではあるのですが、いまは有料であるという。ただ拝観の方は、本堂と宝物館の拝観は有料ですが堂宇の目の前までは自由に拝観できるようになっていまして、小さな賽銭箱に気持ちだけは拝観料を収め日々手を合わせる。

 上京区七本松通今出川上ル溝前町、こう書きますと知らない方には上京区といえば京都御所でしょうけれども、実のところ七本松通りは都おどり広告がいつの間にか北野おどり掲示に変わっているあたり、そう、千本今出川の交差点から住宅街の方へ入ったさき。

 新西国三十三箇所第十六番札所としても知られる堂宇は、本堂釈迦堂が国宝指定されていることでも知られます。そして寺の歴史は実は鎌倉時代からという、禅寺を除けば平安朝やその以前からの歴史を湛える寺社仏閣多い洛中に在っては意外なあたらしさ。

 釈迦堂は、檜皮葺の屋根を冠しました入母屋造の造りとなっていまして、正面桁行五間の間口からはご本尊が微かに。しかしほかの寺院と比較しましても古さを湛えていまして、それもそのはず、京都市では二番目、洛中に在っては現存最古の建物だという。

 安貞元年こと西暦1227年に上棟となりました釈迦堂ですが、この約二百年の後に勃発しました応仁の乱においてほぼすべての寺社仏閣が被害を受けた中で洛中では例外的に戦災を免れたことで、結果的ではあるのだけれども、洛中最古の建物となりました。

 おかめ桜、早咲きの枝垂れ桜はこの釈迦堂の前に、支柱に助けられてはいるのだけれども、旧王都に桜の便り、というのはここがその最初あたりという印象がありまして、まだ蕾、と観光協会がWebに情報を載せる傍ら、それは見事な春の便りを示していました。

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