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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】勧修寺-観梅,三月は卒業の季節-今春卒業の大学生はCOVID-19世界感染拡大の2020年入学

2024-03-21 07:00:45 | 写真
■COVID-19をこえて
 卒業の季節というこの時期は多少羽目を外す様子をみても寛容な気持ちとなってしまうのはわたしだけではないでしょう。

 梅花と云えば、卒業の季節の花という。または高校生には受験戦争に勝利した記念日というところでしょうか。さあ新しい年度へ、といざないたいところですが、特に四回生として卒業を迎える大学生の方々、本当に大変な四年間で在ったと思う、卒業おめでとう。

 2024年卒業、つまり2020年大学入学、COVID-19新型コロナウィルス感染症のパンデミーという影響を真正面から受けた大学生が2020年入学の方々という事は間違いないでしょう。いや、既に2020年4月には日本国内にも徐々にその感染の影響が顕在化していました。

 この季節には既に一月の春節の時節にWHO世界保健機関公衆衛生緊急事態宣言PHEIC発動が間に合わず、結果的に観光客やなにより世界経済への影響力増す商用の往来が拡大し、結果的に欧州では膨大な死者を前に戒厳令に近いロックダウン都市封鎖が実施されていた。

 致死率2%、重症化した場合は死亡率は15%に達していて感染力は麻疹以上、次亜塩素水ではウィルスが死滅せずとの研究結果や既存薬品の薬効が確認され病床での投与の結果は真逆であり、ワクチン開発を大車輪で進めるも再感染の事例など抗体が形成されにくい。

 ロングコビットという、コロナ生還者、コロナサバイバーと当時の造語の完治後にあっても脱毛や嗅覚障害と味覚障害、ブレインフォグといううつ病に似ているとも脳機能要害ともとれる症例が続発し、運動や思考を阻害すると共に就業に影響する事例さえ報告される。

 サイトカインシンドロームという突然死、当初は新型肺炎と云われていた為に酸素投与などの措置が行われ救命を図っていて初期には医療用酸素ボンベ不足などが問題視されるも、脳血栓が突如ショック死のような症状で劇症化する事例、中国では歩行中の突然死なども。

 日本は、自粛主体の感染対策と、何より戦後の公衆衛生対策により整備された保健所制度による感染追跡などの施策が功を奏し感染者数を抑えられたのですが、感染対策を誤った諸国、アメリカやイギリスなどG7先進国さえ、爆発的な感染者数と死者数を生みました。

 感染対策に感染対策、しかし、このなかで教育というものがどこまで顧みられていただろうか。緊急事態宣言の最中、外出を最小限としてリモートワークに励む一方で、久々にいくつかの大学キャンパスの前を通りますと、閑散と、というような状況でさえ無かった。

 キャンパスは、無人でした。大学は図書館封鎖、リモートにより、いやリモートを行う側も急な方針変更に位置からのインフラ整備とセキュリティ両立を図って、先ず機材をそろえる為に必要なものを列挙する段階から始まったのですが、学生にどう向き合えていたか。

 BCP事業継続計画として世界規模の感染症拡大を想定していた大学は皆無だった、仕方ないように思われるかもしれませんが、この危機管理の不備、危機管理の限界とも思うのだけれども、この割を正面から喰ったのがいま卒業式を迎えているがくせいたちなのですね。

 2022年からはある程度対面が軌道に乗り始めた、けれども2021年の段階ではワクチン接種さえ始まったばかりであり再開された対面講義には大きな制約が在った、そして2020年と2021年は本来、基礎科目を履修したうえで専門研究専門演習へ臨む基盤固めだった。

 2011年の東日本大震災の頃でさえ、直撃を受けた教育施設を例外として原発事故の影響が在っても東京も仙台も福島さえ浜通りを除けばここまで影響はありませんでした。この苦労を乗り越えて専門演習を経て卒業論文を作成し卒業、みなさま、おめでとうございます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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【京都幕間旅情】勧修寺-観梅,観音堂と梅花の幻想的な情景とともに考える次の季節

2024-03-20 20:24:45 | 写真
■梅花そして桜花
 京都市でも山科区は梅花の開花が遅い方なのですが今年は異常な早咲きと云えました、けれどもそれに続く桜花の開花はまだ先か。

 勧修寺、梅花の名所、と明記されているわけではなくこのあたりでは隨心院の梅林が有名となっています。梅林を眺めるならば隨心院、なのかもしれませんが、隨心院さんの梅林は三月中旬まで非公開となっていて、しかし梅花開花は待ってくれません。

 隨心院で梅林を昨年は眺められたものの、今年の梅花は開花が早く、しかし寒の戻り、特に寒さが戻るとともにかなりの風雨が定期的に梅林を洗い流してしまいましたから、思ったのはこれ、隨心院さんが梅林を公開するころはもう梅花、散っているだろうなあ。

 氷室池のまわりに梅花が咲き誇っていましたのは、嬉しい誤算というべきでしょうか、これも西日が強く逆光のように白梅の真白さを強調してくれましたので、若干陽光がレンズに影響を及ぼしはしたものの、これは幻想的な情景、春を感じさせる一瞬と思う。

 応仁の乱により荒廃した寺院ですが、江戸時代に入りますと本格的に復興します。安土桃山時代の間には豊臣秀吉の街道整備により氷室池が半分以上埋め立てられるなど郊外に追い打ちを掛けられてしまいますが、江戸時代に本堂などが復興されることになって。

 本堂再建は寛文12年こと西暦1672年のことでして、霊元天皇仮内侍所が下賜されることとなり、本尊千手観世音菩薩立像を奉じています。ここ、春の特別公開では内部が御開帳となるのですが、この日は梅花の先にご本尊を思い浮かべこうべたれるのみ。

 観音堂と梅花、これが京都らしい情景と思うのですが、この観音堂は昭和初期の再建という。もっとも再建というからには初代があるはずなのですが、当地に観音堂が情景に溶け込んだ始まりの時代がいつなのかは、ちょっとしらべられるにはいたっていません。

 雪景色、そう雪は少なかった、というのは暦の上での冬には暖冬であって、これも異常気象だとかスキー場がたいへんとか、もう梅が咲いたというような、暖冬を印象づける話題が続いていて、三月中旬には桜が咲きそうな、そんな熱気がこもっていまして。

 熱い冬、なんて考えたものですが今度は寒い春が来ました。沈黙の春、レイチェルカーソンの大著ではないのですが寒すぎて立春の日には寒の戻りを痛感したものですが、一過性と思っていて桜花開花の季節も三月中旬を過ぎたあたり、と予想されていました。

 桜花を考えれば昨年こそ寒い冬の先に熱い春が来た、なにしろ平野神社の桜花祭のころには全て葉桜で観桜を当て込んだ観光業が二週間も外れてぎゃくに閑古鳥なんてCOVID-19から立ち直りつつある京都の景気にまた沁みて痛い一撃を加えたものでしたが。

 寒の戻り、しかし考えると開花の時期は一か月半は長く咲いていましたので、もちろん、満開の絶景、という期間は短く、特に早咲きと遅咲きの梅花満開の時機が大きく間が開いてしまいましたので、割いている様子は長く楽しめたが満開は中々愉しめなかった。

 春の訪れ、そういえば昨年は梅花から桜花への転換に合間が無かったようにもおもえるのですけれども、今年は、来週に開花という。すると見ごろは四月に入ったあたりか。異常気象異常気象と言っていたのは立春までで、桜花は例年通りという。不思議ですね。

 熱い冬と寒い春、さてこれから春本番となるのですが昨年は熱い春の先に灼熱の夏という表現でさえ甘いほどの40度越えの真夏がやってきました、気象庁の長期予報では例年より熱いという予報がでましたが、さてさて、異常気象が平常となるのか気懸りです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】勧修寺-観梅,山科は千年超える歴史と梅花包む真言宗山階派門跡寺院

2024-03-20 20:00:45 | 写真
■熱い冬と寒い春
 本日は異常な暖冬と云われた冬を越えた春分の日の割にはみぞれ交じりの雨が降っていたようにみえましてまだまだ春は遠いようにおもえます。

 勧修寺、今年の冬は、変だ、と立春の後にも春分の日にも思ってしまうのです、要するにもう暦の上ではとっくの昔に春のはずなのですが、冬の嵐が続いている。いや、冬は暖かかった、暖冬だ。実際問題冬らしい雪景色はなかなか撮影できなかったものです。

 梅花は。そう暖冬であったゆえにもう一月から開花が始まっていまして、これはもう風流を愉しむほかないと少々嘆息しつつカメラを片手に愉しもうと開き直ったものです。勧修寺は、その京都に在って最後に梅花が鮮やかに咲き誇る山科界隈の門跡寺院だ。

 かじゅうじ。勧修寺と記しましてこう読むのです。どうしても教養の限界といいますか学校漢字学習の影響で“かんしゅうじ”“かんじゅじ”と読んでいるのですけれども、“かじゅうじ”と正しくは読むのだという。このあたりの地名は、かんしゅうじ、いやはや。

 貴船神社は“きふねじんじゃ”で地名の貴船は濁点の“きぶね”と読むのと同じようなものなのだろうなあ、と思いつつ、ここ勧修寺の庭園は、まあ真冬には雪化粧が欲しいところですが春夏秋冬の春夏秋には鮮やかな、いや艶やかなというような木々が彩り。

 真言宗山階派門跡寺院の勧修寺です。その創建は昌泰3年こと西暦900年、京都には数多ある千年以上の歴史を紡ぐ寺院の一つです。その庭園は壮大な池泉、いまはかなり狭まったといわれてもまだ広い池泉を浄土式庭園というより寝殿造を思い浮かべる趣き。

 醍醐天皇が生母藤原胤子の追善を願い右大臣藤原定方に命じ造営したという寺院です。藤原定方さんは藤原胤子さんの異母兄弟ということで、この際に仏縁をもとめまして祖父藤原高藤の諡号を冠し寺院をこの勧修寺としたという。山号が難しいわけですね。

 承俊律師、藤原定方は東大寺の承俊律師を開山に招きまして、あの醍醐天皇の時代ですので天皇からは曽祖父、外戚ではあるのですがこの血筋に当たる宮道弥益の邸宅跡をそのまま寺院にとなりまして、そうこの門跡寺院として壮大な寺域が確保されたという。

 宮道弥益の邸宅、といいますが宮道弥益さんは山城国宇治郡の郡司でもありましたので、当地の邸宅もその通りの規模がありまして、そう、歴史を辿ればここは寝殿造りの邸宅を延長線上に造営された寺院であるという事は分かり、納得するものなのですけれど。

 氷室池、勧修寺が寝殿造りの遺構のようだなあと感じる背景にはこの氷室池という存在がありまして、もちろんここは近世にかけてかなり小さくなってしまったというのですが、池泉周囲に自生します木々は大樹のようになりまして、主のような鳥さんがいる。

 池泉回遊式、というには護岸の関係で池の周りは一部が公開されているだけなのですが、主のような鳥さんと、主の様な鯉さんが、ちょっと浅くなった水位を背鰭まで潜水艦の洋上航行のように示しましてゆったりと泳いでいて、そのまわりを梅花が包んでいて。

 寺領などは建武の新政が執り行われました建武年間がその最盛期といいまして、加賀や三河と備前などに広がりまして、当時の当地はどのようであったのかは流石に古地図まで探して調べることは出来ず、なにより古地図を扱っていた古書店が無くなってしまった。

 建武年間、その最盛期の頃が来たとは前述の通りでして、残念ながら文明年間には応仁の乱の戦果がここまで及びました。これにより現存する建物は中世よりは近世のものなのですけれども、なぜか少ない拝観者のなかを、風情と静けさは祈りをつつんでいます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】梅宮大社-観梅,ここはネコさんの神社で神域を警邏するネコさんたち

2024-03-13 20:24:37 | 写真
■猫たちの梅宮大社
 神域を散策していますと業務目的の撮影は禁止であり発見次第法的措置も辞さないという張り紙が複数掲示されている事にきづくのです。

 梅宮大社、ここは猫の神社でもあるという。十二支干支に入ることができなかったネコさん、なんでも鼠さんから偽情報で神々の会合の日程を騙された故に十二支に入れなかったという悲しい歴史があり、いま世界を襲うフェイクニュースの嵐と重なるものが。

 十二支と世界を襲うフェイクニュースでは次元が違うだろう、と言われるのかもしれませんが、情報をウクライナ関連はISWアメリカ戦争研究所とイギリス国防省、ここに防衛省防衛研究所を含める程度にしなければ、世論形成の認知戦は手元まで潜り込む。

 猫さんの神社、本論を戻すと十二支に入れなかったことで千年単位の不利益がある故に十分大きな影響だろうと考えるのですが、此処は梅宮大社、梅宮大社が猫の神社となったのは最近だという、なんというか境内に多数猫さんが住み着き、神社で飼われている。

 神使の狐、と伏見稲荷大社では狐さんが大事にされているのですが、散歩中に狐を見たのは私などは2022年が最後、北海道にでも行けば多数いるのは知っていますが今の時代に狐は住処が限られるらしく、伏見稲荷大社でさえ猫さんが多数派を形成していました。

 神使の猫、とあと数百年もしましたらば価値観にも変容があるのかもしれませんが、実際ここ梅宮大社には社務所も猫の寝床が多数整備されていまして、機動巡察として猫さんが巡回している、神社には奉納品など鼠食害に遭うものもあり、猫さんの役割は大きい。

 飼われている猫です、と大書されていますし、なんでも猫の写真で仕事をしている人が多いらしく、個人用写真撮影は自由だけれども収益に繋がる写真撮影は禁止、としっかり大書された注意書きが並んでいて、幸いWeblog北大路機関は広告さえ出していない。

 お賽銭や庭園拝観料が猫さんの生活費になるのだろうねえ、こう考えるとともに、しかし世の中猫好きが多い、わんわん派のわたしとしては街猫のようなわんわんの立ち位置がないというのは寂しいところなのですが、猫好きの方々の撮影機材も中々すごい。

 RFを使って撮影していた。神社上空を退役したはずのRF-4戦術偵察機が旋回していたのではなく、EOS-Rシリーズの白レンズを装着した本格派の方が撮影していて、要するに望遠レンズなのだから猫さんをしっかり撮影したいのだろうなあ、と察するわけでして。

 EOS-Rの白レンズならば業務用ではないのか、と思われる方はいるかもしれませんがその子、どう見ても小学生くらいの娘さんでお母さんらしき方も似たような、小松基地とか岐阜基地とかで戦闘機を狙う、小牧基地ではあまり見ない長いレンズを構えていた。

 300mmF2.8ISとかいう大きなレンズをわたしも航空祭や展示訓練に戦車射撃を撮影する際には構えるのですが、あれ、カメラに装着すると重さが懐かしの64式小銃と同じ重さになり、G3Xとか周辺機器を加えると重さはMINIMI分隊機銃の重さに迫り、肩や腰が。

 猫さんに触れないように、しかししっかりと撮影しようと思うと望遠の明るいレンズを使い少々距離を置いて撮影する事となるのでしょうけれども、こうなると次の機会はわたしも70-300mmDOを出すか。神社で最新鋭のカメラが並ぶ様子というのも凄いなあ。

 京都の四季、神社のツキ、NHKの“岩合光昭の世界ネコ歩き”でもここ梅宮大社は紹介されていまして、ここは橘氏の氏神、潜水艦の神社、という印象の先に猫さんの神社となった契機と思う。ただどうあれ、参拝者を迎えてくれる神職の方々には感謝ですよね。

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【京都幕間旅情】梅宮大社-観梅,インディアナポリスからボノムリシャールへ歴史の妙

2024-03-13 20:00:36 | 写真
■潜水艦の神社
 酒造の神社故に社務所では御神酒も売られていてそう神域には不思議と座るところの覆い神社なのですけれどもね。

 梅宮大社、潜水艦の神社、と表現しますと今の神職の方にはちょっと意見を寄せられてしまうのかもしれませんが、これは潜水艦の艦長で有名な方が宮司を務められていた、という意味であり、次の大戦果を願うというようなものではありません、ただしかし。

 戦争からの和解、というものはある程度考える、社殿というよりも場、とはいってもいいのではないか、と。そういうのも社殿は明治維新後に梅宮神社として近代社格制度に包含されましたが、1951年に単立神社として梅宮大社となりまして今に至る中立性が。

 和解、というのはやはり橋本元艦長の話題となるのですが、橋本さんというのは実兄も実父も梅宮大社宮司を務められています、実兄橋本順忠さんは宮司であるとともに日本画家、戦後復員して橋本以行元艦長も宮司となった訳ですので神社とつながりは深い。

 伊58とインディアナポリス、さてテニアン島に原爆を輸送したインディアナポリスを伊58が撃沈しましたのはこれまでにお話ししましたが、アメリカ側はインディアナポリスを駆逐艦の護衛もなく単艦航行させ、しかも重要任務中に撃沈されたことに驚く。

 原爆輸送情報が漏洩していたのではないかという危惧とともに、責任問題が沸き上がった為に責任を生還したインディアナポリス艦長チャールズBマクベイ3世大佐に押し付ける形で軍法会議にかけ、海軍全体の作戦失敗を艦長に押し付けようとした、押し付けた。

 橋本元艦長はこの際にアメリカ側に証人として召喚され、実際には橋本元艦長は自分が矢面に立つのだろうという達観もあったそうなのですが事実は真逆でした。ただ、艦を撃沈され責任を問われて軍法会議というのは、別に敵前逃亡でも独断降伏でもなく。

 チャールズBマクベイ3世大佐は軍法会議での汚名を嫌い自決されるのですが、その後に名誉回復のために尽力した一人が橋本元艦長であったという。いや伊58は酸素魚雷でインディアナポリスを沈めましたが任務は回天による特別攻撃でもあり、その慰霊にも。

 回天慰霊碑を訓練基地のあった大津島に建てられるなど慰霊の日々を送る中でのチャールズBマクベイ3世さん名誉回復運動に携わられ、その際に元乗員の方々との和解や交流が深まった、というこの話を聞きますと、戦争と和解、というものを感じさせられる。

 ジョーズ、さて時代は1975年に公開された映画の話題ですが、この作品の登場人物の一人が重巡インディアナポリスの生き残りであると劇中語る場面があります、この描写は印象的なものでフロリダのとある小学生さんが1990年代にこの映画を見て衝撃を受けた。

 ハンタースコットさんという小学生さんは夏休みの研究にインディアナポリスを題材とした調査を行い、その上で生存者への聞き取りなど研究結果は下院議員の目に留まることに。ここからクリントン政権時代に新しい名誉回復運動が始まり、橋本宮司も加わる。

 ボノムリシャール、かつて佐世保に居ました強襲揚陸艦ですが、ハンタースコットさんはこののちROTC奨学金を得てノースカロライナ大学に進み、ROTC課程を経て海軍少尉に任官、航空機搭乗員なり強襲揚陸艦ボノムリシャールなどで勤務したという。

 数奇な運命というものはあるのですが、日米の和解というものは様々なところで進み今や先方が配慮するほどの同盟国となっている訳です。名誉回復の大統領署名直前に橋本元艦長は91歳の生涯を閉じられましたが、こう、考えさせられる秘話を秘めた神社だ。

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【京都幕間旅情】梅宮大社-観梅,京都と核の繋がり-伊58潜水艦インディアナポリス撃沈と比叡山の観測所

2024-03-06 20:24:09 | 写真
■酒と核と梅花の神社
 国際報道の現実に目を向ければ背けたくなる羅列ばかりが並びます故に情報の解釈咀嚼はこうした静かな場所にて平穏と共に一幕置きたい。

 梅宮大社、この名前を聞いてどういった連想を広げるでしょうか。最近は難しいところで現代は多様性の時代というのですが、信仰と崇敬の多様化を感じる際にここ梅宮大社ほどのところというのはないのかもしれません、なにせ潜水艦さえ浮かぶのだから。

 潜水艦なのだから浮かぶのは当たり前だろう、と思われるかもしれませんが歴史を深く知る方にとり、梅宮大社という名前を聞きますと橋本以行艦長が退官後に宮司を務められた神社、と思い浮かべられるのかもしれません。いや平成中期までご存命でした。

 伊58艦長として重巡洋艦インディアナポリスを撃沈した艦長さんです。巡洋艦を撃沈して人命を奪うなんて、と京都にお住まいのサヨクさんやシンポ的なチチキジンさんは思われるかもしれませんが、この巡洋艦が原爆を輸送していたと聞きますとどうでしょう。

 インディアナポリスを撃沈、テニアン島へ広島原爆を輸送したアメリカ海軍の巡洋艦ですが、その帰路、機密保護のために護衛を伴わず航行していた為に伊58に捕捉され、魚雷攻撃を受け撃沈されました。撃沈が数日早ければ、広島原爆投下は無かったともいう。

 京都は原爆攻撃の標的であった。別にインディアナリス撃沈が京都核攻撃からの回避に繋がった訳ではないのですが、核兵器と京都、というつながりを見せますと、伊58潜水艦の行動というものは、いろいろと考えさせられるものです。京都原爆攻撃は実際に。

 荒勝文策博士、日本原子核物理学の始祖的存在で1941年に京都帝国大学時代、帝国海軍より核分裂兵器の開発を依頼されています、同時期に理研の仁科芳雄博士は陸軍から同様の研究を依頼されていて、いや一本化しろよ、とは思うものの研究はあった。

 比叡山の山頂に観測所をつくった、荒勝文策博士は広島核攻撃を受け、調査団として8月10日に広島入り、当時爆発物の正体は不明でしたが核分裂兵器の完成を確信していた博士は土壌の放射線測定を実施し、ベータ線を検出、次の攻撃地を考えました。

 京都が攻撃目標として適地ではないのか、あらゆる地形と共に核攻撃をするうえでの必要な定義に威力を確認するためにほとんど空襲が行われていない地域として京都が攻撃されるであろうとの予測を立て、その様子を徹底的に観測研究する施設を比叡山に置く。

 新潟などでは次の攻撃目標と考えた市長の独断で避難命令が出され、駆逐艦響が治安維持と防空へ舞鶴から緊急出動する騒ぎがありましたが、荒勝文策博士には核分裂への興味の方が、つまり学究の価値が、市民の安全などよりも優先度が高かったといえる。

 湯川秀樹博士は当時荒勝文策博士の助手であり、反核運動への参画などで知られている湯川博士の倫理観には当時の荒勝文策博士への反発が含まれていたのかもしれません。実際当時の京都は鉄道輸送の一大拠点、本土決戦前の大規模攻撃は予定されていました。

 核兵器と京都、という簡単には扱えない命題ではあるのですが、核兵器と広島にはある程度のかかわりを持つ宮司さんの社殿、ということでどうしても印象深くなってしまうのです。もっとも、インディアナポリスは艦長の名誉回復というもう一つの話題もあるが。

 香りたかい梅花とともに春の訪れを思い出しつつ、しかし報道に目を向ければロシアが再度、何度目か、NATOを核兵器で脅す報道が二月にも続いています。複雑な歴史をすべて織り込めたような春の景色と歴史の社殿と神苑を、こう散策した訳なのですね。

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【京都幕間旅情】梅宮大社-観梅,奈良時代橘氏氏神の社は檀林皇后橘嘉智子の手で京都へ遷座した歴史ある社殿

2024-03-06 20:00:22 | 写真
■梅花咲く酒造の神社
 熱い冬とさえ言われた暖冬を越えて立春の先に来ましたのは寒い春でしたがそんな最中に梅宮大社さんへ散策に行った話題をひとつ。

 四条通といえば京都の中心部を通るところではあるのですが、その四条通は延々と嵐山の方まで伸びています、その先に至るのは松尾大社という、阪急嵐山線の松尾大社前駅の隣なのですが、四条通の中心部は阪急河原町駅などがあり、ちょっと不思議に思う。

 梅宮大社は、そう四条通を延々と西へ進みまして、しかし桂川の手前あたりに鎮座している社殿です。もちろんその歴史は阪急は勿論鉄道技術さえ完成する遥か前の交通手段の主流が徒歩か牛車であった時代までさかのぼる連綿とした歴史を湛えています。

 右京区梅津フケノ川町、創建は奈良時代とされているのですが社殿ではなく歴史研究の視座からは平安時代初期とも伝えられている、すくなくとも千数百年の歴史を有します社殿が、四条通から鳥居をのぞかせていまして、その北に向けて静謐な神域を湛える。

 梅花の季節、というものですからその名を冠しました梅宮大社へは歩み進むところです。いや若干早かったか、と思うのは嵐山と保津川の冷涼な空気が開花時期を北野天満宮程は止めなかった故でしょうか、しかしもう見ごろと言える風景が迎えてくれました。

 酒解神、酒解子神、大若子神、小若子神。ご祭神はその名の通り、もう呑むしかない、というほどにお酒の名前を冠していまして、しかし酒の名字や酒を冠した地名が全員呑兵衛というわけではないではないか、という注釈を差し置き、此処は酒造の神の社だ。

 橘が神紋となっていますので、ますます梅とは無関係に思われるのかもしれませんが、連綿たる歴史と共に古い社殿を包む鎮守の森には数多花々花木が植えられ整備、そうその神苑には梅林さえ整備されていまして、参道からして梅花が迎える春のおももち。

 山城国葛野郡梅宮社、六国史という日本の律令制度を記した国史にはこの梅宮大社は承和3年こと西暦836年に神階叙位を賜ったとされています、平安時代初期の記録ではあるのですが、ただ梅宮大社の記録は散逸しており確認が困難という。もとは氏神の社で。

 県犬養三千代、このひとは橘三千代とも呼ばれていました奈良時代の女官なのですが、橘三千代さんの呼びかけにより橘氏の氏神を祀る社殿を造営することになった、それは梅宮大社の始まりであるとともに神紋が橘の花を冠している背景ともなっています。

 綴喜郡井手町、ただこの橘三千代さんの呼びかけにより造営されました社殿は京都府南部の綴喜郡井手町あたりとなっていまして、ここには多賀という地名もあり、いやしかし有名な近江鉄道沿線の多賀大社とは別の地名なのですけれども歴史ある土地といい。

 檀林皇后橘嘉智子、橘氏の氏神が平安遷都を経て京都に遷座しましたのは平安時代初期、檀林皇后橘嘉智子さんの手によるものでした。興味深いのはその遷座の在り方で、具体的には神霊を井手寺から当時当地にあった円堤寺の境内に祀ったというものでして。

 仁明天皇の時代、この天皇さんは平安朝初期の頃の方なのですが、皇太后橘嘉智子さんが、円堤寺に祀られる神霊は一応は外戚神となったのに大幣大社として扱われていない事に立腹したということで、遷座した円堤寺に祀られる神霊を延喜式に列したのがはじまり。

 山城国葛野郡梅宮社の神階はこの際に賜れたとのことでして、なにかこう歴史だけ聞きますと神々の崇高なる神話以前の神話を構成する際の俗っぽさを感じるところなのですけれども、この社殿にはいつも活気と朗らかさと厳粛な機運が隣り合っているのですね。

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【京都幕間旅情】北野天満宮-梅花祭,菅原道真そのひととは-高雄の峰々から暗雲が清涼殿落雷事件

2024-02-29 07:00:00 | 写真
■和歌を愛する詩人
 歴史を散策するのですから表面だけでは無くもう少し奥深い成り立ちや縁というものを思考の散策として楽しみたいものです。

 北野天満宮は梅園を花の庭として、2022年に再整備し完成させました。これは明治維新の後に破壊され縮小されていた部分の再生ということなのですが、その源流たる北野天満宮の祭神、菅原道真の配流という歴史はこれまでに経緯と経過を示しました。そのさきに。

 清涼殿落雷事件は、その再集団として発生した、しかし大きな事件でした。時は延長8年6月26日、西暦では930年7月24日、この頃京都は日照りに悩まされ、雨乞神事の是非を議論する太政官会議を醍醐天皇御座所の内裏は清涼殿にて行うところでした、そのとき。

 高雄の峰々から暗雲が垂れ込め内裏の方に雲行きが怪しくなったのは正午頃、当時の様子を記した日本紀略にはあり、平安京一帯は豪雨に見舞われるとともに1600時過ぎ、清涼殿南西に落雷がありました。落雷は電撃が廊下を瞬時に帯電させ結果死傷者十数名がでます。

 大納言藤原清貫卿はこの瞬間に即死、右兵衛佐美努忠包と内蔵頭平希世らほか数名が焼死し、扶桑略記によればこののち数回の落雷が内裏にあり、更に数名が死亡している。大納言藤原清貫卿は直撃を免れるも床を這った雷撃で立ったまま焦げて即死していると記録が。

 死穢、という、当時は遺体に触れたものに触れただけでも数日間出仕停止という穢れを避ける制度があり、実はこの為に鴨川河原などで一部を拾ってくるワンコさんは嫌われたのですが、その穢れが内裏の最中、天皇さえお隠れの際には出る内裏で起こったという訳だ。

 醍醐天皇は清涼殿から常寧殿に遷座し、穢れから距離を置いたのですが歩いている人間が目の前で立ったまま黒焦げて亡くなる災禍を目の当たりにした醍醐天皇はそのまま引きこもり三か月後に崩御、しかも驚かれたのは雷雲が高雄の方角からやってきたことでしょう。

 神護寺、和気清麻呂を祀る神護寺が置かれた高雄と愛宕は宮城の守り、すると菅原道真が引き起こした祟りを皇室守護で名高い和気清麻呂の神霊も黙認した事なのか、と大騒ぎになりまして、醍醐天皇の崩御もあり、改めて北野天満宮を造営することとなったのですね。

 吉祥院天満宮に始まり菅大臣神社や菅原院天満宮神社、果ては北野天満宮を創建せよと夢のお告げを受けた少女を祀る文子天満宮まで造営されていますが、即位された朱雀天皇は北野天満宮を造営、齢7歳の若冠ながら平将門や藤原純友が跋扈する時代に挑む訳です。

 歴史を慎重に見ていますと、菅原道真を道真公としてお祀りしました北野天満宮造営以降は大きな祟りはありません。いや、平将門の乱や藤原純友の乱の方も大変なのですが、北野天満宮はその後も公家や武家と町衆に愛され、今も梅園はひとびとの活気が絶えません。

 菅原道真公、こう紹介しますと没後は怖いこととなりますし、生前は何しろ天才という人物故に近寄りがたい印象を持たれるかもしれませんが、漢詩と和歌を愛し、仕事には丁寧ではあるものの言葉を荒げることはなく、盛り上がる酒宴では妖艶な和歌を残している。

 和歌を愛する詩人であり、また教育は大好きという言葉を残すものの子煩悩で子供の成長の旅に和歌を残し、それは毎日わが子の写真を撮るパパの平安朝版だ。和歌繋がりで親交深かった在原業平とは、ナイショで遊女の街である今の大山崎に度々あゆみ運ぶほどに。

 武官藤原滋実とも親交、天台宗の僧相応和尚とも親交、配流の藤原時平の弟である藤原忠平とも和歌を通じ親交を結び、渤海から帰化した王文矩、また私塾菅家廊下の弟子からも慕われ、醤油ご飯とお酒が好き、そんな一面もある、祭神の社は今年も梅花で満開です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】北野天満宮-梅花祭,浄妙院での謹慎を経て怨霊に-清涼殿落雷事件への長い道

2024-02-28 20:24:41 | 写真
■太宰府配流その先に
 梅花祭とともにしかし単に花を愛でるだけでは風流を実感するところまで至らずやはりその先と源流にある歴史を知りたい。

 北野天満宮、梅花が美しいのですがその背景には祭神となられました菅原道真公、配流先の太宰府で没した元右大臣を慰霊するという社殿でもあります。太宰府、あそこは酷い街だ二度と行きたくはない最悪だ、という印象は今行きますと九州には全くありません。

 太宰府配流、しかし現実はといいますと今の太宰府の街並みからは想像できないところがあったようです。先ず配流ですので太宰府への移動は全て自費で移動しなくてはなりません、いや配流ではなく左遷、と反論があるのかもしれませんが実態を見てみると。

 左遷か配流か、ですが太宰府には菅原道真に仕事がありませんでした、先ず官職が大宰員外帥といい、員外、という称号なのです。大宰府という地名は今こそ定着していますが、大宰というのは重要な行政機関であるものの、九州以外にはおかれていない制度でして。

 吉備国大宰、という役所が置かれた記録はあるのですが一時的なものであり、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅、この9国を治め且つ離島地域、壱岐、対馬、奄美の離島地域を所管する、その長官には大宰権帥という官職の官僚が補職された。

 大宰員外帥、すると今風に言えば名ばかり管理職なのか、といわれますともう少しひどく、俸給と従者が認められませんでした。何より仕事がなく実質的に大宰府浄妙院での謹慎、というものが実態であったようで、これは左遷というのでは余りに、まさに配流だ。

 浄妙院での謹慎を経て怨霊に。太宰府配流から菅原道真が没したのは2年後、です。浄妙院といいますと今は祠がありますが、当時の浄妙院は放置された荒れ寺という様相であったようで、先ず壁が無かった、その上で雨漏りが。南国九州とはいえ冬は越せぬ。

 清涼殿落雷事件が有名ですが、菅原道真没したのちの、怨霊の仕業ではないか、と心当たりある方が夜眠れなくなるようなことは幾つか起きていまして、実際菅原道真薨去から清涼殿落雷事件までは実に27年間もありました、ただ27年間が平穏では無かった。

 菅原高視放免、実はこの菅原道真配流は、菅原道真その一人だけを配流したわけではなく一族郎党全員様々な場所に配流されているのですが、菅原道真没後3年を経て嫡子高視が放免され帰京を許されています、官職は大学頭、これで皆ひと段落と思ったのだけれど。

 藤原菅根死亡はその5年後でした、敦仁親王立太子に際し菅原道真が春宮侍読として推挙し、蔵人頭まで出世するのですが昌泰の変に際し内裏に向かった宇多法皇を追い返した官僚といい、その後に醍醐天皇治世下で参議となりますが、落雷に打たれ死んだ。

 藤原時平、藤原北家出身で左大臣として活躍し、しかし昌泰の変では菅原道真を配流に追い込んだ張本人とされています。この方は藤原菅根死亡の翌年に病死します。実はこのひと、習志野訓練場の近くにある二宮神社では祭神と祀られていて驚いたものです。

 二宮神社参拝の際に藤原時平を改めて別の角度から知る機会になったと喜んだものですが、大鏡、北野天神縁起絵巻、扶桑略記、今昔物語、大和物語、十訓抄、どれをみても好色とか下品とか引きこもりとか、散々書かれていました。没したのは39歳で早逝だ。

 清涼殿落雷事件はこうした幾つもの出来事の先に発生しまして、それまでに菅原氏由緒の場所にはいくつもの神社が創建され、慰霊を試みていたのですが、大事件と言える清涼殿落雷事件を経て、この地に北野天満宮が造営され、人々の集いの場となりました。

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【京都幕間旅情】北野天満宮-梅花祭,美しい梅花の先に菅原道真公と天神信仰の中心地で考える昌泰の変

2024-02-28 20:00:31 | 写真
■菅原道真公を祀る社殿
 寒い冬の戻りという割にはここのところ強風がものすごくいよいよ梅花の季節も風により強制的な終幕が近いこの頃です。

 梅の名所は天満宮、今出川通を京都府警上京警察署の向かい側に鎮座しています北野天満宮はその大鳥居から参道が続き、そして楼門へ本殿へ至る参道の道々には梅花と、そして西方には梅園が、ちょうどこの季節には梅花の美しさをみせているところで。

 北野天満宮、その歴史は無実の罪により配流となり、配流先の太宰府で没した菅原道真公を弔う、ことで当時頻発していた災害や不審死をどうにか祟らないでほしいと願う為に創建されたことは良く知られています。すると、菅原道真公に興味が湧くのですね。

 菅原道真公を祀る社殿、此処北野天満宮は菅原道真公と天神信仰の中心地であり、天暦元年こと西暦947年に創建されました。宇多天皇に重用された官僚、醍醐天皇の時代には右大臣にまで上り詰めました。宇多天皇といえば寛平の治の行革で知られる天皇さん。

 宇多天皇の寛平の治、平安朝の行政は摂政の系譜に在った藤原基経が清和天皇と陽成天皇と光孝天皇そして宇多天皇と四代の天皇に仕えるとともに実務を取り仕切り、事実上初の関白となります。宇多天皇は先ず藤原基経薨去を受け若手起用に乗り出します。

 藤原時平、源能有、菅原道真、藤原保則、こう若手起用といいますと語弊がありますか、実際には藤原基経の藤原北家嫡流のみによる政治を改め、藤原北家からは藤原時平を重用するとともに幅広い人材を起用し、そして行政改革に乗り出した、ということ。

 遣唐使廃止による冊封体制や朝貢関係等への一体化からの離脱、類聚国史編纂による歴史問題の明確化、問民苦使派遣による地方政治の規律強化、昇殿制の制定による文官登用制度への世襲から実力主義への転換、この行政改革はその後の日本史に影響が大きい。

 法皇宣下、しかし宇多天皇は譲位により天皇を退位すると東寺での受戒を経て仁和寺に出家し法皇となられます。そして仁和寺からの院政、この際に勅令を以て菅原道真公の大納言除目を発布し、藤原北家の藤原時平に続く第二位の官職を賜れたのですが。それはそれ。

 斉世親王、太宰府配流の要因となりました無実の罪というのは宇多法皇の皇子である斉世親王を菅原道真が天皇に即位させようとした、というもの。大納言となりました礼に普通の事ではないか、と思われるかもしれませんが時の醍醐天皇、その弟でもあったという。

 醍醐天皇に退位を強いるのではないかという嫌疑とともに、この斉世親王さんは菅原道真の三女菅原寧子と結ばれていまして、つまりは斉世親王さんは婿という係累となっていた。いやそもそも即位させようとしていないのでしょうが、ケシカラン、ということ。

 昌泰の変、こうした背景で進んでいました。院政の時代ですので醍醐天皇と宇多法皇の御世であったのですが、宇多法皇は高野山や比叡山と熊野詣を熱心に行っていまして、いまならば特急くろしお、特急こうや、日帰りが可能なのかもしれませんが、当時はそれは。

 熊野詣は当時特急くろしお等は運行されておらず当然オーシャンアローも運行されていない、つまり往復で一か月程度を要する行幸となりまして、これは時の権力者が相当安定した時期でなければ首都である京都を空けられないというのが当時の熊野詣という。

 菅原道真配流、この一報が宇多法皇に上奏された際には時すでに遅く、直ぐ内裏に向かうものの内裏の門扉は既に閉ざされ醍醐天皇に問うことも出来なかった、昌泰の変はこうして起こりまして、美しい梅花の先には、こうした悲しい歴史があったのですね。

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