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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】東寺観桜,さくらでこの春を振り返り真言宗から京都と日本の成り立ちを振り返る

2024-05-08 20:00:14 | 写真
■ 熱い冬寒い春急な夏日
 寒い春だと思えば急な夏日が有ったり北海道の方が京都より暑くなったりという春でしたが。
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 さくらでこの春を振り返りますと、そう、開花時期は昨年よりもだいぶずれてしまいこれは例年と比較しても数日は遅かったということですけれども、しかし散ってしまう時期というのは例年くらいでして、やはり春も暖かいを通り越しつつあるのかなあ。

 東寺のさくら、ちょっと考えまして久居駐屯地のあとで実は今年もゆったり伊賀上野城か名古屋城あたり、は遠いにしても津城と伊賀上野城は寄れるしいっそ彦根城経由でとも考えたのですけれども貴重な日曜日、こう東寺の観桜によることとしまして。

 枝垂桜は前の週に撮影した際のほうがくっきりと満開であることを告げていたようなのですが、枝垂桜と染井吉野の微妙な開花時期の違いからどう観桜を愉しむべきかと少々考えたものの、散りゆく枝垂れと満開の染井吉野という構図を撮影できたもので。

 教王護国寺、真言宗の根本道場というのがここ東寺の真名です。本尊に薬師如来を奉じる寺院は立地が南区九条町という、京都駅新幹線ホームからはっきりと見える寺院となっていますので、おそらく皆さんが最も目にすることの多い五重塔なのかな、と。

 八幡山金光明四天王教王護國寺祕密傳法院、正確には正式名称がこのように長いものなのですがほぼほぼ東寺の一言で通じます寺院は京都駅から近鉄線沿いに徒歩でも十数分、近鉄京都駅から東寺駅というのが最寄りなのですが、正門へはこちらがちかい。

 桓武天皇が開基となりました寺院で、その名の通り東寺とは左右対称に造営されました平安京にあって東寺と、そしていまは廃れたのちに消えてしまい石碑だけが残ります西寺と、官寺はこの二つのみを許すという指針と共に平安遷都が執り行われたという。

 西寺と東寺とともに左右対称に大陸風の首都を造営することとなった平安遷都ですが、左右対称をあまり平野部が広くない京都で執り行った為に西寺のほうは定期的に大堰川の水害に悩まされたといいまして、先に廃寺となってしまった歴史があるようです。

 真言宗の根本道場といいますが、しかしご承知の通り平安遷都の頃には未だ大陸から密教というものは伝来していません。実際その通りでして、桓武天皇は西寺の造営に尽力を命じましたので東寺の完成が遅れていたという事情で、密教が間に合った。

 長岡京からの遷都、桓武天皇は遷都を繰り返した天皇でありまして、いや実際、京都と東京、平安遷都から明治維新までと、明治大正昭和平成令和と続く東京が例外的と言えるかもしれない、けれども長岡京は二年に一度中心部が壊滅する水害多発地帯で。

 飛鳥京に藤原京と平城京に長岡京と平安京、短期間で続々と首都を遷都していました東寺の日本、大津京への臨時遷都もありましたし聊か方針が定まらない、国家の方向性に思い悩んでいた時代でもある。それが遷都まで行かずともと思われるでしょうが。

 中央集権体制を強化しますと天平の疫病として天然痘が大流行し国家崩壊しかける、しろ右大臣左大臣など行政実力者が短期間で次々と倒れいなくなる状況、体制固めの最中に所謂御霊信仰ではないですが大陸の易姓革命という概念も中途半端に入りまして。

 日本とは何者なのかが定まらない時期、しかし日本自身が九州や朝鮮との間で独自の冊封体制を試みるなど大陸の衛星国には留まらない考えなどを持っていた故、するとどうすればいいのかという戦略概観が持てないでいた、今と似る状況がありました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】真如堂-観桜,比叡山を借景とした庭園拝観と開山戒算以来の戦乱と火災と再開発に転々とした歴史

2024-05-03 07:00:25 | 写真
■此処に真如堂あり
 京都には古い寺院は数多いけれども歴史にもまれることを避けられた寺院は数少なくこちらもそのひとつ。ここに真如堂ありという歴史は実は比較的新しいのです。

 真如堂、美しい伽藍とともに今日此処にあるのですが、戒算が比叡山を降りて創建しました寺院は神楽岡東の東三条院詮子、源氏物語が描かれた時代の一条天皇生母、その離宮に安置されていたのですが、やはりといいますか応仁の乱に巻き込まれ堂塔は焼失します。

 応仁の乱においては琵琶湖畔などを転々とするのですが動乱期が終わりますと先ず一条西洞院に寺地を改め、そして創建の地神楽岡にもどることとなるのですが、しかし将軍足利義昭の命により一条通北に移転することとなり、ようやく本堂などを再建するのですが。

 豊臣秀吉の時代となりますと一条通北には聚楽第建設を行うこととなりまして京極今出川に移転を強いられます、ここで江戸時代を迎えるのですが、寛文元年こと西暦1661年に本堂が火災で焼失、再建するも元禄5年こと1692年にはまたしても本堂が焼失してしまう。

 東山天皇の勅を受けまして元禄6年こと1693年にこの現在地に移転してくるのですが、それから三百余年、幸いにして今日まで無事に在ります。そして、庭園が昭和にはいり大きく整備される事となりまして、拝観の際に当地の位置を再認識することもできるのですね。

 比叡山を借景に、重森三玲の大胆な借景の作庭は、確かに現代的で時には少しいきすぎを感じる直線の使い方があるのですけれども、得度したこともあります重森氏の寺院庭園には、無理に華美さを強調するようなところはなく、いわれてみると仏教的だ。

 重森氏の作庭しました庭園は京都には実のところ数多く、しかし聞きますと京都以外ではそれほど頻繁にみるところではないという、もっとも拝観できる庭園が徒歩圏内にいくつもあるところは、鎌倉とか奈良とかになってしまうのかもしれませんけれど。

 比叡山を借景とした庭園は洛北にもいくつかあるのですが東山のほうに向かってしまいますと逆に近すぎるということなのでしょう、急に少なくなってしまいまして、しかしここ、狭く腰掛けてゆったりみられる場所も広くはないのですが、この日は人が。

 庭園拝観というものは、考えてみると靴を脱ぐ一動作で気分一新、というほど単純なものではないのですけれども、靴下だけの裸足で堂宇のなかの新鮮な床の上を歩みその向こうに情景をながめるということで、時間をぜいたくに使い確かに気分がかわってゆきます。

 寺院、わんこ散歩が例外的に認められているのがここの不思議なところでして、ただ粗相してそのままという事例が若干あるようでその注意書きがあるという。わんこ散歩、盲導犬さえも却下というところがある訳ですから意外といいますか不思議なのですよね。

 涅槃図をみますと、わんこさんも含めてお釈迦様の入滅を悲しんでいる様子が描かれているのをみますと、粗相さえしなければわんこさんにゃんこさんも歓迎、というのが本来の寺院のあり方なのでしょうか、昔のわんこさんに関する考え方の不思議ともいえる。

 特別公開される涅槃絵図はここともうひとつ本法寺のものが有名ですけれども、堂々足るというのでしょうか、ここまで大きなものを時間をかけて描いたわけですが、その熱意とともに大きさが、絵図を美術本などでみるとは次元が違う圧巻というひとこと。

 お釈迦様の入滅、その様子に多くのゆかりある人々とともにあらゆる動物たちが嘆き悲しんでいる様子を、壮大といえる大きな絵図としたもので、いやこれ今の時代に長い歴史を越える中でよく自重で破れなかったものだ、ともその一点でも感慨深いものですよね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】真如堂-観桜,頷きの阿弥陀奉じる鈴聲山真正極楽寺は長大な歴史とそして桜に包まれる

2024-05-02 07:01:41 | 写真
■真如堂のさくら
 桜の季節は去ってしまいましたが春の情景をもう少しだけ紹介してゆきたいのですね。

 真正極楽寺、真如堂。ここは京都市左京区浄土寺真如町、有名な金戒光明寺に隣接し、如意ヶ嶽の大文字といった風景が見えます一際高い一角は観桜の浮かれた季節には有名ではないのかもしれませんが、実は凛とした桜並木が静かに拝観者の探訪を迎えています。

 鈴聲山真正極楽寺、正しくはこのように称します山号の寺院は不断念仏の道場となっていまして、戒算が比叡山を降りて創建しました寺院、ただその場所は転々としていまして、江戸時代中期に現在の位置に安置されたという複雑な歴史と共にある寺院でもあるのだ。

 頷きの阿弥陀、東山に面したこのあたりには不思議な仏像を安置する寺院は多く、頷きの阿弥陀は空海に師事した慈覚大師円仁が一刀三礼にて彫刻とされるものです。こちらは夕方までであれば本堂が開かれていまして、自由にお参りする事が出来るというところです。

 比叡山の修行者の本尊となりたまえ、円仁さんはこう仏像に祈りましたがこの際に仏像が首をふって断ったという逸話があり、では京の都に下り一切衆生の特に女性たちをお救い下さい、こう問うたさいに頷かれたということで頷きの阿弥陀、こう呼ばれるようになる。

 三重塔、さくらはそう歩いてみますと多そうに見えまして実はそうではないのですけれども、考えてみるとここは紅葉が美しいということで秋と冬にも拝観に探訪するのですから、椛の美しい画角はさくらが植えていないのだと当たり前のことを考えるのです。

 EOS-M3,予備機となっていますカメラを久々に動員しての撮影です。EOS-M-3はいろいろいいたいことがあるカメラですが、期待していたEOS-M5がもっと駄目なカメラでしたので、やはりCANONは一眼レフは凄くてもミラーレス一眼はまったくだめだなあ。

 M-3でもよい情景を撮ることができる、ということを示すために、ということもあるのですがなにより少しだけ小型のM-3ですと気兼ねなく昔のコンパクトかバッグに差し込んで、そのまま散策できるという。こういう気軽さというものは大事なことなのだ。

 本堂と桜の花々、堂宇というものは基本的に深い黒色ですので手前の桜花を中心に撮りますと塗りつぶされたような構図になってしまいますし、堂宇とともにその伽藍を中心に構図を決めますとどうしても桜花々が白跳びしてしまう、その分水嶺はどのあたりか。

 映画発祥の地、ここはマキノ映画が初めて撮影しました場所となっていまして、考えてみると日本の映画というものは京都から始まったということになるわけです、古都、という響きを考えますと保守的な印象があるものの、やはり京都は先進的な点が多い。

 映画、もっとも初期の映画はフィルムが劣化しやすく残念ながら現存しているものは少ないというよりも複製に成功した例外的なものしか存在しないといい、大昔のここで撮影した作品の現存は聞かないものでして、この点は少し残念でもあるのですが。技術の限界だ。

 フィルムにセルロイドを用いた関係で上映の際に映写機での熱、放電を利用したアーク灯を使っていた時代もありますのでよく燃えたらしく、たとえば嵐山の大河内庭園などはフィルムと違い失われない美しさを求めて造営されたという映画人の嘆きもあるのですが。

 キャメラを、敢えてカメラといわない、寺院に持ち込む際には門前で黙認のかたちで撮影させたということで青蓮院さんなんかは有名になっていますが、ここは寺域での撮影を許したという。もっとも、マキノ映画は等持院を拠点に活動していました故に不思議ですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】立本寺-観桜,一年に一回出会えるか出会えないかの絶景

2024-04-27 07:00:29 | 写真
■偶然の一瞬との出会い
 こういう構図を撮影したいからこそ重いカメラを何台も収めたカメラバクを担ぎ持ち歩くのです。

 立本寺、伽藍とともに撮影する情景は意図せず企図せずものすごい感性に投げかける情景を撮影する事があるのですが、この一枚はおそらく一年に一枚というような情景かもしれません、建仁寺で偶然撮影しました情景や仁和寺で偶然見つけた構図に並ぶと思う。

 伽藍の人工的な、しかし確実に寺院の情感を秘めた構図が満開の花々に覆われている、中世の宗教画のような情景の中に夫婦二人がぽつんと、しかし温かみとともに観桜を、という様子は、偶然撮影した何枚かの一枚に有りました一枚なのですが、よく映っていたもの。

 日常というものの代えがたさという一枚のような構図でしたが、例えば市バスが西大路通を行くとき、例えば三条大橋を京阪から阪急に乗り換えるとき、例えば大宮へ買い物に出るとき、見過ごしているようで素晴らしい風景は日常のすぐ隣にあるのかもしれない。

 寺院を拝観しているのか、情景を愛でているのか。こうとわれますとわたしは本格的に困ると思う、これは観桜なのか拝観なのか、と問われても同様に困るのだけれども、こうした情景を偶然でも撮影できるというのは、ご縁といいますか、やはり拝観なのだろうなあ。

 宝永大火という、京都も江戸のように度々大火に見舞われてきた歴史があるのですが、この西暦1708年の大火に際して、とうじ立本寺は京極今出川にありましたが、堂宇の多くを焼かれてしまいまして、祖師堂、開祖廟、鐘楼堂、本堂前井戸屋形、経蔵等は焼け残る。

 本堂は寛保3年こと西暦1743年に当地で再建されたもので、京極今出川にあった焼け残りの建物を移築するとともに、18世紀後半の天明年間にかけて順次当地で再建されていったという。建物は比較的新しいものとはいえ、それを超える風情の様なものがあります。

 観桜の名所は数あれど、なんていうきざな表現ではなく、おそらく古刹名刹にさくらの季節が訪れた、なんていう感覚の方が近いのかもしれませんね。それは四季とともに紡がれる歴史の一幕を拝観という形を通じてみている、という説明がいちばん納得できるもの。

 天文法華の乱に洛中法華二十一寺と妙顕寺、なにかこう戦国乱世的な話題のほうでこれまでに説明してまいりましたが、天台宗と日蓮宗の全面衝突は圧倒的な兵力を誇る僧兵による天台宗の動員力にはやはり民衆の支持集める日蓮宗といえども及ばなかったという。

 洛中法華二十一寺は灰燼に帰しましたが、天文年間といえば既に町衆の勢力も強く、日蓮宗寺院の多くは堺に避難しています。そして天文11年こと西暦1542年、時の後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を示すところとなりまして、漸く日蓮宗寺院帰京が許されたのです。

 後奈良天皇の論旨、この際に堺から戻る寺院には時間差がありまして、ここで妙顕寺と立本寺が分立することになった、といわれています。ただ、四条櫛笥と三条坊門堀川に五条大宮と御溝傍今小路、妙顕寺は天文法華の乱以前にも何度も天台宗により焼かれています。

 四条櫛笥と三条坊門堀川など焼かれる都度、場所を移して再建されているのですけれども、この際に既に妙顕寺と立本寺が分立している、つまり妙顕寺が焼かれた際に塔頭寺院のような関係ではなく本坊を二つに再建したという解釈もできるようでして、おくぶかい。

 今年は桜の季節が速かった、梅花を愛でていたと思いましたらばすぐに桜花が、しかもいきなり遠く東京が満開になったと思いましたら追うように京都も満開に、しかし桜の季節は満開の報道から楽しめる満開の頃合いまで意外と長く、散策を楽しめました次第です。

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【京都幕間旅情】立本寺-観桜,洛中法華二十一寺は松本問答を経た天台宗と日蓮宗の全面対決

2024-04-25 07:00:11 | 写真
■いまはさくらが誇る
 こころと信仰の解釈を巡る対立というものは今なお世界を巡りますが中世には日本でも例外ではなかった実情があります。

 立本寺、このお寺の歴史を深く知るには日蓮宗の理解も開山となりました鎌倉時代の日像さんの歴史も一通り興味深い歴史を讃えているのですが、なにより洛中法華二十一寺と天文法華の乱という歴史を踏まえておきますと奥深さと難しい日本史の一端がみえる。

 松本問答という、今でいえば問答という話し合い的な要素ではなくこれは暴行に入るのではないかなあ、論破しただけでさやに収めればよかったもの、ともいえる一つの事件を契機に天台宗と日蓮宗が全面対決となります、天台宗は日蓮宗の法華宗自称も反発していた。

 天文5年こと1536年、天台宗からの報復を恐れた日蓮宗宗徒は相国寺を占領し陣地構築を開始、この陣地構築は塹壕を掘り櫓や障害物を増強、野戦築城というに相応しいもので、同時に天台宗もこの暴挙を含め室町幕府へ仲裁と武装解除を求めるも幕府は動きません。

 山科本願寺の戦い、というこの遡ること五年前に勢力を伸ばしていました浄土宗の勢力が一向一揆に打って出た際、日蓮宗は幕府に呼号し、細川晴元や茨木長隆の軍勢とともに本願寺攻撃に参加しており、幕府としては天台宗の要請を受け入れられない事情があった。

 幕府の係争に対する慎重姿勢は、熟考を重ねているうちに状況が悪化する危機管理上の禁忌でもあり、60年前に勃発した応仁の乱と似た構図とともに広がったものなのですが、この結果、日蓮宗の寺院は京都を追放、これが立本寺の形成させる背景となっています。

 本願寺と興福寺及び三井寺と東寺はこの動きに対して中立を宣言、他者の介入がないことを確信するとともに比叡山は僧兵の動員を開始、この時の兵力は6万とも15万ともいわれます、これに対して日蓮宗は洛中法華二十一寺から兵力を動員し2万を集めていた、と。

 陣地構築で先行した日蓮宗側は、遊里を活かすべく先制攻撃をかけたとされています。鹿苑日録記など当時の日記にしるされている一方、近江より六角定頼の軍勢3万が延暦寺に増援を出し、当時係争中であった三井寺も3千の増援を派遣し戦闘加入で兵力増強へ。

 洛中法華二十一寺、陣地構築で先行していた分は有利であったのだけれども兵力差は如何ともし難く、開戦から五日を経て比叡山僧兵は六角氏とともに洛中まで到達、洛中法華二十一寺への攻撃に移りました。日蓮宗も激しく応じ、応仁の乱以来の市街戦となった。

 四条口から洛中に進出した比叡山僧兵は洛中法華二十一寺を構成する本圀寺以外の20の寺院を焼き討ちし、戦闘七日目には本圀寺を包囲し焼き討ち、これにより日蓮宗側の戦死者は一万ともいわれます、しかしこの焼き討ちによる火は留まるところなく延焼してゆく。

 応仁の乱では京都の寺社仏閣の大半が焼け落ち、と説明されますが当時動員された足軽は現地雇用の傭兵に近く多くが下町に住居を構えていました、この為に応仁の乱の主戦場に広大な下町は含まれず、現在の市域に置き換えればおおくが焼け残っていましたが。

 天文法華の乱では焼き討ちされた洛中法華二十一寺は町衆の支持を集めたこともあり下町に隣接する寺院も多く、ここが焼き討ちされ大火を招いた。結果論ですが焼失面積は応仁の乱よりも広範な地域が焦土となり、幕府はこれをうけ日蓮宗の京都追放を決定します。

 幕府の禁令は厳しく、日蓮宗からほかの宗派へ移籍することや還俗し一般に戻ることを禁止、京都とその周辺への立ち入り禁止、そして破壊された寺院の再建を禁じました。これは勅許により許されるまで六年間続き、日蓮宗ではこれを天文法難と呼ぶほどでした。

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【京都幕間旅情】立本寺-観桜,洛中法華二十一寺は天文法華の乱と妙顕寺そして三宝尊を奉じる寺院を巡る

2024-04-24 20:22:49 | 写真
■満開の桜
 ここは静けさの寺院なのですが拝観の際に観桜とともにその歴史まで辿りますと成程感慨深いものが有ります。

 立本寺、ここは上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町という市電横丁とこどもたちには縁が遠い日活映画館あたりからぐっと住宅地のほうに入りました、ほんとうの街中の寺院です。梅花の季節には梅は香と思いましたが、数が多かれば桜並木も桜は香るのです。

 桜花の季節にはどうしてもここに歩みを進めたくなる、というのはこの堂宇を巡り合いましたのは、ふっとした偶然の向こうに出会ったような経緯がありまして、それほど混雑しない、というよりも混雑とは無縁の堂宇は激しく感受性を揺さぶる情感にみちている。

 上京区七本松通、静かな一角ですので観光客というのは、もしかしたらばいるのかもしれませんが静かな拝観者だけが歩み進めているという印象で、桜花の季節には花弁が音を吸収するためなのでしょうか、山寺のようなしんとした静寂と微かな蜂の羽音が響くのみ。

 COVID-19のいちばん猛威を振るったころ、いや日本では静観していても国際報道では世界中が欧州だけで毎日数千が死亡し、北米大陸もひどいが人口比で南米大陸がひどく、アジアでは集計さえできない地域があったなか、ふと桜を見上げていましたようなお堂だ。

 宿坊と高齢者施設とを運営しています立本寺さん、本堂の方へ桜並木が続いているのですが、伽藍の堂宇が哲学的な直線と桜花の曲線とを交響詩のように織り込んだ風景を醸していまして、そう歩けばそれほど長い距離ではないのだけれども、奥深さを感じさせる。

 由緒寺院という日蓮宗の本山にあたる寺院の一つで、門構えは入っていいのかな、とおもいつつ観光でなく拝観ならばと但し書きがありまして、凛とした方に力を入れて拝観することとしました。これは遊興の場としないためなのか、過去に何かあったのか、とも。

 天文法華の乱、何かあったのかといいますとお寺の歴史については何かあった寺院であり、このお寺は日像さんが開いた寺院という、妙顕寺を開きましたあの日像さんです。創建は1321年、元亨元年に当たる寺院でこの創建年間というものもやはり妙顕寺とおなじ。

 妙顕寺さんは上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町、堀川通沿いにありますので若干距離はあるのですが、三宝尊を奉じる寺院という点も同じでして、少し調べてみますと、ここはもともと妙顕寺さんでもありまして、洛中法華二十一寺としてもかぞえられています。

 天文法華の乱、洛中法華二十一寺といいますのは室町時代と安土桃山時代の狭間という戦国乱世の時代に京都で影響力を増していた日蓮宗と京都遷都の時代は桓武天皇の時代より京都の奉護を自認する天台宗との対立が、とうとう全面衝突に至った際の寺院のこと。

 洛中法華二十一寺は大半が現存しているのですが、天文法華の乱では松本問答という日蓮宗と天台宗の問答の末に論破を自称した日蓮宗の僧侶が上壇の天台宗僧侶から法衣を剥ぎ取る暴行を加え、これを基に反発した天台宗との全面戦争に発展した、というもので。

 立本寺のいろいろあった歴史、というものはここを示しています。詳細は後述しますが、一時京都から離れていた一つの寺院が、京都に戻った際の時差などから二つの寺院に分かれてしまった、という。日本の宗教史を遡れば意外と多い出来事なのですけれどもね。

 並木一面さくら色という風情とともに、立本寺には庭園も拝観できるという事なのですけれども、ここを見上げますと余韻は花吹雪までだよなあ、と今一度見上げるのです。刹堂は階段がありまして、少し腰かけて、春が来たのだなあ、今年も実感し時を過ごすのです。

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【京都幕間旅情】醍醐寺観桜-五重塔は五分咲き七分咲き枝垂れ桜に透ける京都最古の建築物

2024-04-24 20:00:16 | 写真
■桜すく醍醐寺五重塔
 こういう写真は年に何枚も撮影できるものではないというものがあるのですが絶景という情景を逃さないよう。

 枝垂桜、染井吉野、山桜、八重桜、此処にもう一つ御室桜でも加われば完璧なのでしょうけれども、醍醐寺には開花時期の異なる幾種類ものさくらの木々が植えられ大切にされていまして、さくらの観桜という季節を長く楽しめるようになっています。

 五重塔と枝垂桜、いやもっと早咲きのものに河津桜がありましたか、早々と大輪の花を春に添えてくれます枝垂桜を、こう曇天というのが残念だなあ、と思いつつ五重塔とともに見上げて構図に含めますと、これ、年に一枚で会うか、という情景に仕上がる。

 枝垂桜と五重塔、ここ醍醐寺の五重塔は京都でも数少ない平安時代の建築物となっています、もうひとつは千本釈迦堂の堂宇ですが、なにより京都市内の建物は悉く応仁の乱を乗り切ることができませんでしたから、平安時代の建物は例外的といえるのだ。

 醍醐寺の枝垂桜、染井吉野、山桜、八重桜、そんな情景に在って透けて見える桜の花々という無効に確たる五重塔の情景が映りこんでいる様子は、もう少し開花してしまうと花々に隠れてしまいますし、咲いていないと単なる遅れた冬景色となってしまう。

 春らしいといいますか、五分咲き七分咲きの枝垂れ桜を透かしてこの情景を撮影できたというのは。もちろん多くの方々が写真に記録する瞬間なのですが露出と圧縮効果とが、こういうのを絶妙というのか撮影できた、これこそ写真の醍醐味、というのかなあ。

 五重塔は、醍醐天皇の冥福を祈り代明親王が建立を発願したという歴史がありまして、その造営は二十年の時間を要しましたが天暦5年こと西暦951年に落成を迎えました、このころ天皇は既に村上天皇の時代、平安朝末期の混乱も始まったころとなっている。

 醍醐寺五重塔は応仁の乱の戦災も免れている一方、災害による被害は幾度も乗り越えているものの大破することも多く、例えば天正地震、天正13年こと西暦1586年の天正地震では大破し全壊直前にまで追い込まれるものの、倒壊だけは免れています。

 能登半島地震、今年は元日に、ちょうど親類のあいさつ参りという最中に地震が発生しまして、過疎地域故に傷跡は多い楽し難い大きな被害を及ぼしました、が、醍醐寺の五重塔を見上げますと、復興というものは意志があればできるのだ、という印象も。

 染井吉野の桜花は淡い白にややさくら色が薄曇りの印象を湛えていまして、しかし花弁は最もひろくひらき、これは不思議と空気中の振動、つまり雑音、音を吸収してしまうのか街中に在って静寂という、思想の探求に適した情感を醸してくれて好きです。

 山桜、日本に多く植樹された染井吉野の樹齢には人と同じくらいの限界があるとのことですが、江戸彼岸桜と並んでこの山桜は樹木としての寿命が長く、つまり大樹の桜を形成します、けれども開花と同時に若葉が茂るために独特の白さがなにか不思議だ。

 八重桜、強い鮮やかな色彩が何か紅梅の季節を思い出すような印象で、しかし遅咲き故に観桜の季節を多忙やほかの行事撮影などで逃してしまった残念な新年度の始まりという頃合いには、そうまさにこれ干天の慈雨のような情感を味わうことができます。

 醍醐寺、伏見区なのだけれども若干交通が不便ではあるところ、しかし豊臣秀吉以来の観桜という伝統を有する寺院であるために、これが今風の賑やかな花見の原型なのだ、という原点回帰的なひと時を、満喫できる寺院でもあるお勧めしたい祈りの場です。

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【京都幕間旅情】醍醐寺観桜,現代花見発祥は天下統一の先に日本を一つとした勲功の最後の栄華を飾った祭事

2024-04-18 07:00:05 | 写真
■空海所縁の寺院はいま
 今年の桜も四月半ばとなりますと八重桜が咲き誇るのみでありいよいよこのほかの桜花は青葉へと季節を進めているところですが。

 醍醐寺、歴史を見ますと空海所縁の寺院、とは言うもののその長い歴史の中には多くの紆余曲折がありました。例えば応仁の乱では五重塔が残り現存する、という事なのですがいいかえれば五重塔以外は全て破壊されたということもまた厳しいですが事実です。

 文明元年の農民蜂起、1469年には飢饉から醍醐寺の寺領でありました御境内の農民が年貢の半減を求める半済要求の暴動を行った際には僧兵が徹底した弾圧と首謀者呪殺を願う護摩祈祷を行うなど、次第に民衆の寺院とはなり得ず人心の離反を生んでゆきました。

 歴史、しかし寺院は、といいますか寺院以外の建物でも長い歴史を超えるには役割というものを与えられ、これを全うすることで新しい価値を見出さなければ生き永らえることは出来ず、これは平安朝の頃の壮大美麗な宮殿も中世の豪華な武家屋敷も消失した通り。

 観桜、不思議なものなのかもしれませんが醍醐寺が今日に永らえるのは、観桜という制度ではないにしても文化的な一つの出来事と共に新しい役割を担う事ができたからです、それは五重塔を残し荒廃していた室町時代もその末期、安土桃山時代のことでした。

 慶長3年3月15日、西暦では1598年4月20日となりますか。観桜といえば騒がしいものなのですが、宮中行事の延長での観梅のような季節行事としての花見ではなく、今日的な酒宴とともに大規模に行う花見の歴史上初めての事例が醍醐寺で執り行われた。

 醍醐の花見、天下人となりました豊臣秀吉は豊臣秀頼と北政所、そして淀殿を招くとともに諸大名から女房女中など実に1300名を集めまして準備を行い、徳川家康や伊達政宗など5000名を招待し、いや庶民さえ自由に参加を許しての一大花見を行いました。

 豊臣秀吉は応仁の乱により荒廃した醍醐寺の再建に助力していまして、この関係から醍醐寺第八〇代座主の義演は、秀吉の帰依を受けるとともに良好な関係を続ける中、その体力の衰えというものを見抜くようになり、天下人に相応しい観桜会を開いた、と。

 豊太閤花見行列、という祭事としまして醍醐寺では四月第二日曜日に歴史行列の祭事を執り行うのですが、これはその時の秀吉を再現したものといいまして、いよいよ末期も近い人生に花を添えるという醍醐寺の計らいとともに、実際その五か月後に最後を。

 花見が役割、というわけではないもののしかし、今風、というべきなのだろうか、騒がしいわいわいがやがやの擬音が混じる観桜の始発店は此処に見出すことも出来るものでして、いわば一人未だない天下統一の先に日本を一つとした勲功の最後の栄華の場で。

 花見、もちろん今は日本中津々浦々、観桜の名所は数多あるのですが始まりの地といいますか、今風の花見というものの始まりがここと考えるならば、醍醐寺の桜を眺めるのは文化的な意味で個々の観桜が壮大さを感じる所以、といえるのかもしれませんね。

 混雑は、一見して明白の通りそれほどではない、もちろん物凄い混雑していたという別の日に拝観された方のお話もありましたので全部が全部ここまで安穏としていたわけではないのですが、賑やかな観桜の原点の場所をこのように静かに見上げられた、という。

 しかし、観光過多が叫ばれる京都に在って、確かに端の方ではあるのだけれどもこのような桜花の季節に在って、それがそれほどでもない観光客という醍醐寺の情景、多くの京都観光の方々はいったいどこで時間を過ごしているのか、不思議にはなりましたね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】醍醐寺観桜,花は咲く-創建の貞観年間は内憂外患の騒擾に古富士噴火と千年前の東日本大震災

2024-04-17 20:23:11 | 写真
■数多災害を越えて
 台風災害により寺域の大樹がごっそり刈り取られてしまったのが醍醐寺という寺院なのですが拝観と共に創建の時代を思いかえすと凄い事に気付かされる。

 醍醐寺、真言宗醍醐派総本山の寺院です。その歴史は古いのですが禅寺なんかでは桜花などは遊興の場になり修行の妨げになるという配慮から最初から植えられていないか伐採してしまい、紅葉の季節に遊興の場になったりもするのですけれども、ここでは。

 豊太閤花見行列、という、これは四月第二日曜日に行われる歴史行列なのですけれど、祭事が行われるほどに観桜とは所縁あるという。そう、ここは見上げて桜花を愛でてよい寺院なのですね。そしてもう一つ、ここはかの空海さんと所縁ある寺院でもあります。

 理源大師聖宝という、かの弘法大師空海の孫弟子さんが造営されたという歴史を持つ醍醐寺、空海さんと所縁あるというだけあってその創建は貞観16年、西暦でいえば874年と古く、聖宝さんといえば光仁天皇の玄孫という皇統の血筋で仏教に帰依した方でして。

 貞観16年、考えてみると自然災害が日本史では最も激しかった時代です。いや、日本史の前、日本誕生という三船敏郎主演とかドラえもん映画みたいな時代の更に前の9万年前にはASO-4というどうしようもない規模の阿蘇山噴火災害が起きているのですが。

 日本の価値観の一つを形成するなかにあって、この貞観年間というのは、奈良時代の天然痘、天平の疫病大流行と並んで実のところ価値観や文化観に影響を及ぼしているようでして、真言宗の定着とともに仏教文化と災厄の影響は大きいように思えるのです。

 ASO-4と比較しますと、火砕流本体流だけで170㎞先まで到達し、九州本州四国に及んだ巨大災害となりましたASO-4,再来しますと日本どころか北半球全域に深刻な被害を引き起こす噴火です、ただ、これは九万年前、神話の世界の更に前という。

 貞観大噴火、古富士噴火ともいいますか、貞観8年に発生しました記録される限り最大規模の富士山噴火です。剗海という琵琶湖に準じる規模の大きな湖はこの噴火による山体崩壊でいまの富士五湖となり、火山灰の被害は広範に及んだ、とされていますが。

 古富士噴火として、朝廷に記録された即ち行政文書に記録が残る最古の火山災害ですが、この様子は小松左京の小説“日本沈没”などでも紹介されています。富士山の周辺が大きく変容した噴火、これだけでも貞観年間というものは大きな災害があったといえる。

 貞観地震、千年前の東日本大震災、とも言われる巨大地震が発生しましたのもこの貞観年間で、貞観11年5月26日西暦では869年7月9日に発生した巨大地震はマグニチュード8.3以上とされ、歴史地震として記録されています。この被害は津波が大きかった。

 去海數千百里、多賀城まで瞬時に津波が到達し地震光という発光現象が公式文書に記録された世界最初の地震という。鳥海山と開聞岳が噴火し朝鮮半島からは貞観の入寇として大規模な攻撃もうけていて、更に阿蘇山も小規模ながら二度に渡り噴火しています。

 応天門の変も貞観年間で、無い有害化案に大災害連発という不安な時代、醍醐寺が造営されたのはまさにその只中という事となりまして、いや実は京都の現存するこの時代の寺社仏閣は建物こそだい変わりしているものの今に至るものが少なくありません。

 花は咲く、という東日本大震災からの復興祈念歌がありましたけれども、貞観年間に巨大災害が相次ぐ中で造営された一大寺院が、いまもかわらず、では必ずしもないのだけれども満開の木々に囲まれる様子を見ますと、ぐっとこう感慨深いものがあるのだ。

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【京都幕間旅情】醍醐寺観桜,醍醐の花見で知られる深雪山醍醐寺は色鮮やかな花曇りと物静かな拝観者の寺域

2024-04-17 20:00:56 | 写真
■花曇りに醍醐の花見
 今年の桜の季節は曇天が多いのだけれども曇天でもはるがやってきたのだから観桜への散策してみよう。

 醍醐の花見、という言葉があるくらいなのですから告春を迎えたならば定番の観桜にこの醍醐寺を含めるべきなのでしょう。曇天というべきか花曇りと少々きざな表現を用いてみるべきなのかは人により分かれるところなのですが、そんな雲の下で観桜へ。

 花見を。こう思い立つものの、昨今花々の真下で酒宴という風潮は、事情があるとはいえ見える範囲内では、もちろん見方によっては多いのだけれども、静けさと共に観桜を嗜む方々に圧されているようで静寂というものを愉しめるのはなんともあれさいわい。

 深雪山醍醐寺、ひと昔には。十年一昔というのではなくコロナ前というCOVID-19の時代を挟むべきなのでしょうねえ、ここ醍醐寺の観応は、覚悟がいるよ、とは言われたものでして成程醍醐の花見というだけあって四百余年を隔てて今なお観桜客もおおく。

 観光客も多く、と気合を入れて探訪したのですけれども実際のところは写真が示す通りでして、人でも疎ら、というわけではないのだけれども人口密度としては平野神社とかそういう、賑わっているなあ、というところと比べても落ち着きがあって、不思議だ。

 満開、と染井吉野の話題が報道されていて確かに今年も何事もなく満開だなあ、と道端の木々を眺めつつ、それならばもう満開なのだろうと探訪したものなのですが、こここの状態は恐らく五分咲きと七分咲きの点々とした状態だったのか、やや空いている。

 伏見区醍醐東大路町、醍醐寺というのはここ山科区のように思っていたのですが実際は伏見区で、ただ有名な伏見稲荷大社からは稲荷山を越えなければならず、徒歩でも行く道はあったのかなあ、という場所にありまして、最寄りの駅は東西線の醍醐駅という。

 東西線醍醐駅、前の終点駅でしたがいまは宇治市の六地蔵駅まで延伸していて、しかし六地蔵駅まで醍醐寺から京阪バスが運行されているなど、伏見区だけれども宇治市がもう近くに感じる場所、だけれども東海道線山科駅からもバスが出ていて、不思議、か。

 路線バスの旅、BS-171で毎週火曜日に過去収録したものが放映されていますが、ここ醍醐寺も、歩いて行ける、のだけれども若干距離を感じるので路線バスを利用することとなる、それも京阪バスや市バスではなくめずらしいタウンバスが運行、これを利用して。

 観桜の季節には10分おきにタウンバスが臨時バスを運行してくれるので、こちらを利用します。醍醐駅からショッピングセンターが直結していて、ショッピングセンターの中央部からシャトルバスが運行されています、地下鉄出口がわかりにくいのだけれど。

 笠取山、おお笠取山か行ったぞ第1警戒群いやいまは第1警戒隊、と笠取山分屯基地を思い浮かべる方がいるのかもしれませんが、ここ醍醐寺も空海の所縁ある寺院であるとともに、笠取山のふもとにあるのだ。昔この上にレーダーサイトがあると誤解したのが。

 芦屋基地は芦屋市にはないように、笠取山分屯基地の笠取山は三重県の笠取山で京都のとはちがう、高雄山と高尾山分屯基地は文字違いで分かりやすいのだけれども、高雄さんもとい高尾山は東京にもあるので、此処と間違えやすいのだとか、ここは京都の。

 醍醐寺、さくらの回廊と勝手に読んでいるのですけれども、三宝院という豊臣秀吉由来の堂宇というか御殿の様な建物を更に楼門の方へ進むとともに回廊のように構成されていて、その先で法堂へと向かうのですが、先ずこのあたりから観桜の凄さに圧倒されます。

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