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2列王記20章

2012年11月18日 06時06分10秒 | 列王記
<朝のディボーション>
ヒゼキヤにまつわる奇跡のエピソードが二つ続けて語られる。病気になって死にかかっていたヒゼキヤの涙を見て、神がこれを思い直され、彼の命を15年伸ばしたこと、そして、ヒゼキヤがしるしとして求めた、日時計の陰を10度後に戻されたことである。神は、時を支配する。時を15年先に伸ばすことも、10度後に戻すことも難しくはない。そんな神に私たちは信仰を持っていることを改めて思わされる。
しかも、この出来事は、アッシリヤにエルサレムが包囲されていた時に起こったものであったらしい(6節)。実際、ヒゼキヤの治世は、29年であり、治世の第14年にアッシリヤの侵攻があり、この病の後15年生きることが許されたことからすれば、その推理は正しいことだろう。ヒゼキヤにとっては、重なる不幸。全く持って希望を失う出来事であった。彼は目に見える敵に攻め滅ぼされようとしていたが、たとえそれから運良く逃れても、先はない病に侵されていた。
ヒゼキヤは「顔を壁に向けて、主に祈って言った」という。ヒゼキヤは一人で嘆き呟いたわけではない。イザヤの言葉を受けて、神に心を向けて訴えたのである。彼にとっては、イスラエルのどん底の状況を持ち上げようとするリーダーシップを発揮する最中で、何ゆえに、死ななくてはならないのか納得できなかったことだろう。確かに、南ユダは度重なる貢物の故に何もかも失い、極度の貧しさに陥り、滅び去ってもおかしくはなかった。しかし神は3か年による回復と再興を約束されたのである(19:29)。自らの責任を全うさせてください、という心からの祈りであったことだろう。
神はヒゼキヤの祈りに応答した。そして、「三日目には、あなたは主の宮に上る」と、ヒゼキヤが、礼拝的生活を回復することを約束されるのである。実に、主のみことばを完成させるのは、私たちの礼拝を中心とする生活である。そういう意味では、ヒゼキヤは、改革の第一歩にきわめて重要な動機づけを与えられたと言えるのではあるまいか。主が約束された成功は、主の礼拝を中心とするところにある。
<夜のディボーション>
 このように神に心から仕えたヒゼキヤであるが、ヒゼキヤは大失敗を犯している。不思議なものである。ヒゼキヤの病といい、その後の無意識の失敗といい、あらかじめ人の人生は、身体能力や性質によって定まっている部分があるように思わされるところである。しかしそれでも、神は、その定めを自由自在に変更しながら、しかしご自身の大枠の計画を変えることなく時代の流れを作っていくお方なのだろう。
 ともあれ、ヒゼキヤは、バビロンに頼ろうとしたわけではなかった。だが反アッシリヤということへの協調が新たな危機を産み出すことへの警戒心や思慮には欠けていた。彼は遠くからの使者の見舞いを喜び、評価し、すべての宝庫、宝物蔵にあるものを見せた、という。それは国力の誇示ではありえず、単純に喜んだことと、新たな世界秩序を思い描きながらのことであった、と思われる。しかしそこに、神の裁きを宣告される彼の無意識の罪があった。彼は無意識のうちに神にご自身に頼ることから、自らの知恵と新しい協力者に頼る、いわば不信の罪に陥っていたのである。協力者は協力者として喜び迎え入れなくてはならない。しかし、すべては主への信頼から初めていかなくてはならない。神のみこころに徹底して同期する歩みが私たちのすべてである。

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