生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

ジェットエンジンンの設計技師(3)第2話 国際共同開発における設計ことはじめ

2020年12月30日 10時08分30秒 | ジェットエンジンの設計技師
ジェットエンジンンの設計技師(3)
作成日;H26.5.3 KTR45031
改定日;R2.12.30
第2話 国際共同開発における設計ことはじめ

 新型エンジンの開発はその競争の激しさと市場からの要求の厳しさの故に、設計手法(特に信頼性設計とコスト、調達面などの分野でのグローバリズムに優れている)と開発方法(過去40年間すべて国際共同で行われている)の面で世界の最先端を行くものと思われる、と述べた。
 
私が、Rolls Royce社と共同開発の設計を始めたのは1979年、まだ国際間のデータ通信はテレックスのみで、FAXもできなかった時代。2次元のCADはかなり使いこなせていたが、データ通信はできなかった。しかし、それゆえの智慧の出し合いや、改善の楽しみには事欠かなかった。(註1)
 先ずは、お互いの実力のレベルや、文化の違いの探り合いから協働作業が始まった。設計の各論を始める前に、全体的なご理解を得るために国際共同開発における設計の概要について述べることにしよう。話は、系統的ではなくアラカルト的になってしまうことをお許し願いたい。

先ずは、事始めともいうべき共同開発設計オフィスの開所の様子である。写真の中央の女性は万能の秘書嬢、その右側が私。改めてみると1人だけワイシャツ姿であった。反対の左側は、Rolls-Royce社のチーフ・デザイナーのT. Speak氏で、チームで唯一のケンブリッジの出身者とのことであった。


Portland Square Officeの開所記念写真

1980年2月X日、ついにPSO(Bristol市内のPortland Square )にあるビル内のOfficeの開所日を迎えた。思えば、Rolls-Royce BRISTOL事業所の中心であるWhittle HouseのMain Officeの一部屋を与えられて四方八方からの衆人監視から、門外のポータキャビン、郊外のMEO(Micreover Engineering Office) を経てようやく本格的な設計の共同作業場が与えられたことになる。
Rolls-Royceの人材も超ベテランと新進気鋭に分かれており、そのことからも、会社としての本気かげんが伺えた。

彼らの目に我々が当時どのように映ったかは、もはや知る由も無いが、「RJ500」 という日英 Fifty Fiftyの責任の下に新エンジンを開発する、何とか競合機種に対する遅れを取り戻すという熱意は40年近く経った今でも、写真から感じることが出来る。
 この開所記念日の約1年前に私自身の実質的な仕事が始まった。Rolls-RoyceとのDesign Meeting事始めである。

1979年3月26日から共同開発期間において技術と設計の作業をどのように進めるかの会議が始まった。我々は、「FJR710」 のエンジンを10年間で4種類すべてを成功裏に運転した直後であったが、Rolls-Royce流のやり方をとことん吸収すべく取り入れられるものはすべて取り入れることにして会議に臨んだ。会議は一日に数回、連日行われた。
 最初は、会議に使うノートである。ほとんど全員がA4サイズの2センチほどの罫線の入った分厚いノートを持ち歩いている。ファイル用の孔が明いており、一枚ずつ破って保存する。後で知ったのだが、マネージャークラスの自室には4段キャビネットが数台あり、中味は大抵薄いファイルが数十冊詰まっていた。従って、持ち歩くのは、だんだん薄くなる何も書いていないノートだけになる。

会議の冒頭では、私は先ずこのRolls-Royce式ノートを差し出して、相手の名前を書いてもらった。親切な人は、自分の周りの組織図まで書いてくれるので、かなり合理的だった。以来、私は従来型の日本式ノートを持ち歩くことはなくなり、その習慣は現在まで続いている。

 午前9時、B. J. Banes氏と、執務室の正確な場所(RR Ltd. Whittle House Room W1-G-4)などのTechnical Systemの話から始まった。 続いて10時から設計に使う様々な単位の話、10時半からは、エンジン入口のファン部分の性能の話、11時半からは高圧コンプレッサーの性能の話、といった具合に矢継ぎ早に攻めてくる。相手は次々に代わるのだが、こちらは連続である。幸い、一度に全てではなく、段階的に話を進める術を心得ているようで、中身は良く理解できたように思う。
一度にドッとはやらずに、順を追って適当な間隔で理解を求めてゆくという英国流は、植民地時代からの伝統であろうか。未知の人(民族)との複雑多岐な交渉の術を皆が身につけているとの印象を受けた。
 これが、その後数十年間にわたって続く(私の場合だけでも、10年間で1000回以上)、Rolls-Royceとの開発設計に関するEngineering Meetingの始まりであった。パラパラと当時のRolls-Royce式ノートのファイルを捲ってゆくと、日本に居ては決して聴けないような話が至る所に出てくる。

 エンジン設計は、知識と経験が半々に必要であるとの認識を初めて持つことになった瞬間であった。



 この写真はRolls-Royceのご好意により最近頂いたWhittle House の正面の写真である。当時の荘厳な印象とは大分異なり、明るくモダンに見える。
「ブリストルは事務所も工場も大変大掛かりなリノベーションを行い、一部を除き昔の面影が全く無くなりました。特に組み立てラインは一新され、ゴミ一つ落ちていない明るい工場になっています。昔を知る方はみなさん驚かれます。」との言葉が添えられていた。
(Nozomi "Neil" Takei、Vice President, Business Development – Japan Rolls-Royce International Limitedより)

 彼は元商社マンで、海上自衛隊の次期飛行艇のエンジンで大いにお世話になった思い出が蘇る。



 この写真は、設計室の製図板の前。当時、既にCAD は全面的に使用されていたのだが、原寸大の絵を常に眼前に示すこと、周りの仲間からも進行状況や思考過程が分かることなどの利点のために、全ての設計は製図板上で行われた。
また、日本ではトレーシングペーパーに鉛筆で作図していたが、Rolls-Royceの担当者曰く「トレーシングペーパーは湿気に弱く保存期間も短い。量産エンジンになると最低でも30年は保管する必要があるために不適当。折り目の決して付かない分厚い特殊表面処理をしたフィルムを使用する。」とのことだった。

全体設計の設計変更問題 ——— 「3ヶ月ルール」

 Chief Designerの仕事は、全体断面図を筆頭に様々なDesign Scheme(設計図)を期限どおりに出図(しゅつず)することだ。V2500 Design 1(多くのアイデアの具現化や、設計変更を示すために、主な全体図には連番を付けることにした)は、1983年8月に出図(しゅつず)された。しかし、量産設計が決まるまでには丁度40回の大変更による書き直しがあった。性能、重量、製造コスト、安全性、整備性、信頼性、耐久性のすべてを同時に満足する回答を出すことと、市場の状況(受注競争で負けが混んできたとき)により目まぐるしく変わる設計仕様のためであった。

V2500の開発製造体制

   
http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml

 途中にピンチは数え切れないほどあった。一例は、1984年に起きたDesign15の“Fan Frameストラット”の8本から10本への変更であった。“Fan Frameストラット”とはファンのケースとエンジンのコアとを結び付ける支柱である。5人の日本人設計者と5人のRolls-RoyceのSchemerがたった1つのFan Frameという部品の設計に群がり、短期間で9種類の設計図を作り、一体鋳造か溶接構造かの選択を生産技術者と激論し、別の2ヶ国混成チーム(設計図の作製はSchemer、製造用の図面の作成はDrafts Manと呼ばれ、明確に区別がされている)が100枚に及ぶ鋳造図と加工図を期限どおりに作成した。
 この変更の発端は、Rolls-Royceが担当の高圧圧縮機の翼との共振を避けるためであったので、特段の協力が得られた訳であるが、 それでもまさに国際協働の見本のような場面が展開された。

 この様な設計変更が度重なるうちに、何時の頃からか、私は「3ヶ月ルール」という言葉を使うようになった。基本設計が本格的に始まって間も無くの頃は、設計を中心にマーケティングやサービスなど異分野間の交渉が頻繁であった。何とか先行するCFM56(米国GE社とフランスのスネクマ社 の合弁会社のエンジン) に勝たねばならない。大きな商談があちこちで行われていた。
 商談は、勝つことも負けることもある。初めの頃は連戦連敗だったかもしれない。互角の勝負になった頃からであろうか、一つの商談に負けると、敗因の分析が直ちに行われるのは当然として、多くの場合にとばっちりが設計部門に来る。燃費(燃料消費率)をもう1%良くしろ、重量をもう50Kg軽くしろ、整備費を2%改善しろ。これが3ヶ月ごとにやってくる。

 考えれば当然のことである。互角の勝負の場では負けた相手が新しいオファーを準備する。そして次の商談では逆転を期する。その結果で見事逆転をされると今度はこちらが敗因分析をして、営業やファイナンスの武器では勝負に勝てないとなると設計にやってくる。この周期が大体3ヶ月ということだったのだ。

 これとは別に派生型の話が次々と起こる。概して次の受注を有利にするためのものが多かったが、5年間に大きなものだけでも15回の「Project Design」と称する概念設計が行われた。こちらは、4ヶ月に1回の頻度になる。
 その中には、特殊なものもあった。IHIのGear専門家と一緒に低圧圧縮機の回転を遊星歯車により減速し、大型ファンの回転数を最適化するエンジンの「Project Design」も行った。

 現在三菱重工が開発中の70〜90人乗りの小型旅客機三菱リージョナルジェット(MRJ: Mitsubishi Regional Jet)機 に採用が決まっているP&W社のギヤードターボファンエンジン(Geared Turbo Fan Engine : GTF)、PW1000Gの先駆けのようなものである。その後、P&W社は地道に計画を進め、今回のMRJ機のエンジンとして選定されたのであろう。基本コンセプトは変わっていないが、20年分の進歩が盛り込まれたものとなっているだろう。

 話がちょっと横道にはいってしまったが、いずれしても受注競争に勝つためには、こうした「Project Study」で示された一連の設計作業を既定の開発期間中に実現させる必要がある。即ち「Proven Technology」 として具体化することが我々設計陣に求められる仕事となる。リスクランクをより確実な方向へ上げてゆくことは、通常の設計作業とは別に「開発設計」の面白さと厳しさを教えてくれた。

 3ヶ月ルールは、ある意味机上の計算であり、実際の優劣は、型式証明を得た後の初期商業運転後に現れる。この時期の評価は後の市場占有率に大きく反映されるので、最重要課題となる。

 私が得られる情報を元に、主要パラメータ10項目について競合機種との優劣を設計の立場で6年間(1987~1992)比較した表がある(全くの自前のものだが、お見せするわけにはゆかない)。
 最重要の「初期性能」では、当初負けていたが、ついに勝ち越した。だが、2年後にまた抜かれた、とある。「性能劣化」と「排気成分」については負け続け。勝ち続けた項目は「騒音」であった。振り返って云えることは、3ヶ月ルールの結果は、「Proven Technology」化を経て実機適用となり、それが市場に反映されると2~3年の周期で優劣に反映される、との認識である。

 当時のIAE(International Aero Engines)社の識者の言葉がある。
「この業界のcompetitivenessというのは、結局はシーソーゲームで何時の時点で見るかにより変わる。明らかに差が出れば売れなくなるので必然的に同じレベルに近づいてゆく傾向にある」と。
であるから「3ヶ月ルール」は延々と周期を変えて続くということなのであろう。

註1;
 国内のFAXは漸く普及された頃で、英国も事情は同じであった。調べたところ、RRと当方のFAXのスタンダードが同じだったために、通常の国際電話で試すと、これが大成功。それまでは、テレックスで工夫をしていた図の伝送が可能になった。また、CADデータの通信も同様な手段で日英のCADデータ交換が始められた。この事実は、当時の学会で評判となり、その後他方面からの講演依頼があった。

参考、引用元
http://en.wikipedia.org/wiki/Portland_Square,_Bristol
http://ja.wikipedia.org/wiki/RJ500_(エンジン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/FJR710_(エンジン)
幸運にも、当時は当方とRolls-Royceが同じCADシステムを使用していた。しかもバージョンまでも同じとは驚きであったが、その為にエンジン断面図に現れる全ての形状はCADデータで定義することとした。それらを電送システムで適宜交換することで、インターフェイスに関するトラブルは、こと寸法に関しては全く心配が無かった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/スネクマ
http://www.snecma.com/?lang=fr
http://ja.wikipedia.org/wiki/CFMインターナショナル_CFM56
http://ja.wikipedia.org/wiki/MRJ
http://www.mrj-japan.com/j/index.html

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