生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(34)装飾古墳(10)

2018年03月02日 06時50分01秒 | その場考学との徘徊
題名;装飾古墳(10)
場所;福岡県  年月日;H30.2.16

テーマ;古代九州王国     作成日;H30.2.28 アップロード日;H30.3.2
                                                       
TITLE:博多から東西南北の古代遺跡へ(その2)南へ
 
大宰府から九州自動車道を30分ほど走ると広川というICがある。その両側に有名な古墳が存在する。いずれも「磐井の乱」と関係が深い有名な装飾古墳だ。

磐井の乱とは、527年(継体21年)に起こった、大和朝廷と九州王朝間の大戦争で、朝鮮半島南部へ出兵しようとしたヤマト王権軍を親新羅だった筑紫君磐井が阻もうとしたとされている。この乱を境に九州王朝が衰退して、大和朝廷が確立する。

この二か所に行く路線バスはない。仕方なく二日市でレンタカーを借りた。驚いたことに、この店のお向さんは、私とは聊か縁のある日本経済大学の本拠地だった。広大な敷地は、ゆうに天満宮と国博の敷地を上回る。English Gardenが有名なので覗いてゆくことにした。見事な白鳥の湖と典型的な英国の田舎の庭があった。







第1の目的地の「こふんピア広川」は目立った建物ですぐにわかった。客はおらずに、庭作業をしていた係の人が、仕事を中断して終始説明をしてくださった。




ここでは、いろいろな装飾文様の研究が盛んにおこなわれている。「直弧文命名100年記念行事」だそうだ。その直弧文で最も有名なのが、この石人山古墳の石棺だ。一目では複雑さは分かるのだが、どういう文様かわからない。しかし、丁寧な説明がそのことを解消してくれた。




 この文様は見事な浮き彫りになっており、美術的にも高い評価を受けているのだが、次のような塗り絵をすると、見事な幾何学模様が浮かび上がる。つまり、一本の筋の入った帯が複雑に絡み合っているのだ。
これについての定説はまだないのだが、私なりに考えてみようと思っているので、別途ご紹介する。



 この見事な浮き彫り彫刻は阿蘇山の噴火のおかげなのだ。凝灰岩の説明が続く。




ところで、ここは山ではなく、平地のど真ん中だ。それなのに,何故「山」なのか。古墳の後円部には「石人さん」という祠がある。拝まれていた主は脇腹に朱色が残っている見事な石人で、その「さん」が「山」になったとの説明があった。




 そこから東に向かって走り、高速道路を超えたところに、次の目的地の岩戸山古墳がある。ここに併設されている歴史館は広大な建物で、中の展示も充実している。全体を「いわいの郷」と称している。



先ずは、ヴィデオだ。磐井の乱そのものよりは、その後の歴史を知らしめようとしている。「九州豪族から大和の臣下へ」、「磐井の末裔たち」、「古墳時代終焉の序章」といった展示が続く。

石像の展示も一層華やかに行われている。長い年月の風雨によって、凝灰岩がどれほどの浸食を受けるのかについての説明はなかったが、いずれも埴輪に比べて力強さ、特に意志の強さを感じた。縄文文化と結びつけるのは無理なのだろうか。



建物の裏手には、巨大な前方後円墳がある。そこが石像の本来の位置なのだ。古墳全体を守っているといわれている。なさに、戦いに敗れた磐井の君の墓に相応しい雰囲気を感じた。



古墳を半周して、一旦敷地を出て住宅を数件過ぎたところに小さな円墳がある。そこは、だれでも自由に出入りができるようになっているのだが、小ぎれいに整備されている。誰気兼ねなく内部を観察することができる。我々が学生時代だった昭和40年代の前半には、こういった古墳が奈良盆地のあちこちにあったことを思い出す。




少し前に、「古墳ブーム」という言葉を聞いた。専門家が十分な学術調査を終えた古墳は、もう少し自由に接近して観察する機会を一般人に与えてもよいのではないかと思う。ただ柵に囲って立ち入り禁止にしておいても、過去の状態が正確に残り続ける可能性はない。



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