メタエンジニアの眼シリーズ(51)
書籍名;「日米文化の特質」[1994]
著者;松本青也 発行所;研究社出版 本の所在; 金田一記念図書館
発行日;1994.1.20
初回作成年月日;H29.9.5 最終改定日;H29.10.8
「はじめに」には全章に亘る説明がある。序章では、「文化変形規則(CTR)」という考え方の説明、1~8章では、日米文化のCTRについての説明、終章では「これからの日本文化を展望する」とある。
冒頭には本人の日米における実体験が語られている。
『ホームステイ先の小学生に「セイヤー」と呼び捨てにされて、いい気はしなかった。(中略)「一体どうしてアメリカ人はこんなに生意気なのか。分相応ということを知らなすぎる」と嘆いたのは、初めてアメリカへ行った時のことである。
ところがその後二年ほどアメリカで暮らしてから帰国してみると、今度は日本人の卑屈さが妙に鼻についてきた。』
『ある文化にどっぷりと浸かっていると、他の文化がどうも不自然でレベルが低いものにおもえてしまう。』
これらの感覚は、至って自然に思う。しかし、これが著者の云う「CTR」という文化上の規則なのだろうか。私は、単なる「慣れ」ではないかと思う。人間は、他の動物と違って「慣れやすい」特性をもっている。その為に、赤道直下でも北極でも(慣れている人たちは)快適に暮らすことができる。食べ物も、その土地に1か月も滞在すれば、そこの料理に慣れてしまう。たいていの日本人は、夏の20℃は寒いと思い、冬の20℃は暖かいと思う。すべて「慣れやすい」せいで、なれることで自分を守っている。
『言いたいことを表現する際に、その人の持つ変形規則によって変形されてしまう表現である。こうした変形が、ある集団の間で共通して行われるとすれば、その集団の文化特有の変形であると言うことができる。その変形規則を筆者は、「文化変形規則(Cultural Transformational Rule、略称CTR )」と名付けた。この場合の「文化」とは、ある集団に属する人たちが共有する信念や価値観の体系を意味する。』(pp.3)
「言いたいことを表現する」は、すなわち通常の話ことばであろう。日本とアメリカの比較ではなく、日本国内の方言はどうであろうか。これもCTRの一種なのだろうか。やはり、むしろ単に使い慣れているということで良いのではないだろうか。
「文化変形規則(Cultural Transformational Rule、略称CTR )」の機能が図1(pp.5)に示されている。
文化に依存しない「深層;意図+状況」がCTRの作用によって、文化に依存する「表層;発話、行動など」になってしまうというわけである。
日本とアメリカの文化変形規則の例として、
・謙遜志向 対 台頭志向
・集団志向 対 個人志向
・依存志向 対 自立志向
・形式志向 対 自由志向
・調和志向 対 主張志向
などが、実例を挙げて説明されている。しかし、この区分は、例えば「東京人」と「大阪人」ではどうであろうか。この区分では、大阪人はアメリカ人になってしまう。
第12章の「CTRと学校教育」では、これらの日本的なCTRのせいで、とくに学校教育における英語の授業の有様を批判している。入試目的なので、世界で活躍できる人材の育成には不向きであるというわけである。
私には、どうもCTRという法則の存在には納得がいかない。日本人特有の発想によるルール化のように思える。それよりは、このようなことは日本人独特の本音と建前の使い分けにより起こっているように思える。
つまり、ここに挙げられたアメリカ的志向はほぼすべての人の本音であり、日本的志向は、日本人的な建前の表現なのだ。特に、「発話」に関して、建前を捨てて本音で話すようになれば、これらのCTRの大部分は、それほどにちがいが目立ったものにはならないように思われる。著者本人も、冒頭で述べているように、二年間の滞在中にCTRが変化したように書かれている。たった二年間で個人の中の文化が変わるとは思えないので、やはりCTRというよりは、単なる「慣れ」であるように思う。
書籍名;「日米文化の特質」[1994]
著者;松本青也 発行所;研究社出版 本の所在; 金田一記念図書館
発行日;1994.1.20
初回作成年月日;H29.9.5 最終改定日;H29.10.8
「はじめに」には全章に亘る説明がある。序章では、「文化変形規則(CTR)」という考え方の説明、1~8章では、日米文化のCTRについての説明、終章では「これからの日本文化を展望する」とある。
冒頭には本人の日米における実体験が語られている。
『ホームステイ先の小学生に「セイヤー」と呼び捨てにされて、いい気はしなかった。(中略)「一体どうしてアメリカ人はこんなに生意気なのか。分相応ということを知らなすぎる」と嘆いたのは、初めてアメリカへ行った時のことである。
ところがその後二年ほどアメリカで暮らしてから帰国してみると、今度は日本人の卑屈さが妙に鼻についてきた。』
『ある文化にどっぷりと浸かっていると、他の文化がどうも不自然でレベルが低いものにおもえてしまう。』
これらの感覚は、至って自然に思う。しかし、これが著者の云う「CTR」という文化上の規則なのだろうか。私は、単なる「慣れ」ではないかと思う。人間は、他の動物と違って「慣れやすい」特性をもっている。その為に、赤道直下でも北極でも(慣れている人たちは)快適に暮らすことができる。食べ物も、その土地に1か月も滞在すれば、そこの料理に慣れてしまう。たいていの日本人は、夏の20℃は寒いと思い、冬の20℃は暖かいと思う。すべて「慣れやすい」せいで、なれることで自分を守っている。
『言いたいことを表現する際に、その人の持つ変形規則によって変形されてしまう表現である。こうした変形が、ある集団の間で共通して行われるとすれば、その集団の文化特有の変形であると言うことができる。その変形規則を筆者は、「文化変形規則(Cultural Transformational Rule、略称CTR )」と名付けた。この場合の「文化」とは、ある集団に属する人たちが共有する信念や価値観の体系を意味する。』(pp.3)
「言いたいことを表現する」は、すなわち通常の話ことばであろう。日本とアメリカの比較ではなく、日本国内の方言はどうであろうか。これもCTRの一種なのだろうか。やはり、むしろ単に使い慣れているということで良いのではないだろうか。
「文化変形規則(Cultural Transformational Rule、略称CTR )」の機能が図1(pp.5)に示されている。
文化に依存しない「深層;意図+状況」がCTRの作用によって、文化に依存する「表層;発話、行動など」になってしまうというわけである。
日本とアメリカの文化変形規則の例として、
・謙遜志向 対 台頭志向
・集団志向 対 個人志向
・依存志向 対 自立志向
・形式志向 対 自由志向
・調和志向 対 主張志向
などが、実例を挙げて説明されている。しかし、この区分は、例えば「東京人」と「大阪人」ではどうであろうか。この区分では、大阪人はアメリカ人になってしまう。
第12章の「CTRと学校教育」では、これらの日本的なCTRのせいで、とくに学校教育における英語の授業の有様を批判している。入試目的なので、世界で活躍できる人材の育成には不向きであるというわけである。
私には、どうもCTRという法則の存在には納得がいかない。日本人特有の発想によるルール化のように思える。それよりは、このようなことは日本人独特の本音と建前の使い分けにより起こっているように思える。
つまり、ここに挙げられたアメリカ的志向はほぼすべての人の本音であり、日本的志向は、日本人的な建前の表現なのだ。特に、「発話」に関して、建前を捨てて本音で話すようになれば、これらのCTRの大部分は、それほどにちがいが目立ったものにはならないように思われる。著者本人も、冒頭で述べているように、二年間の滞在中にCTRが変化したように書かれている。たった二年間で個人の中の文化が変わるとは思えないので、やはりCTRというよりは、単なる「慣れ」であるように思う。