まあまあ人生

70年の人生 まあまあですね

古希の祝い

2006年03月12日 | Weblog
昨日、蕾だった水仙が2本美しく咲いた。暖かい雨のお陰かもしれない。昨日の朝は、例の如く「さわ」でお粥の食事をする、私は診療所に家内は家に別れて行動する。        診療がおわり、帰路につき、天王寺で家に電話する。11時に知人に会う約束だったので、約束の場所で落ち合い一緒に知人宅を訪問する。以前住んでいた家の隣の方で、ご主人を亡くされ、現在は一人で住んでおられる。身体の調子はあまり良くないようである。シンピジュウムがいらないので貰って欲しいとの連絡を頂いていた。昔話で一時を過ごし帰ろうとした時、古希の祝いを頂く。花は口実で、祝いを渡す為に呼ばれたようであり、私のことを思って頂いたことに感謝して、遠慮なく頂く。そう言えば、レストラン、歯科医、めがね屋から誕生カードを頂く。商売とは言え悪い気はしない。先日も、いずみやで買い物をしてレジで精算をした時、プレゼントが出ていると言われ、カードを機械に通すと、誕生祝いを用意しているとのチケットが出てきた。まだ、交換はしていないが、何をいただけるのか楽しみである。2~3日前に、リソナ銀行でキャッシュカードを利用したときも、今月はお誕生ですね、おめでとうございます、と表示された。最近は、個人情報が行き届いていて、いい面で利用されるのは歓迎である。 夜は、トイレは4時ごろ1回と珍しかった。4時30分からの「福音の光」を聞く、今朝は、阿武山福音自由教会のI牧師が生命の神秘について、卵を例に詳しく説明された。私は、農学校を卒業し、鶏の卵については、それなりの知識はあったが、I師は、私が知らないことを多く知っておられたので驚いた。続いて同教会のO姉の証があった。O姉はご両親を続けさまになくされ、悲嘆のなかで、主に導かれたと話された。今朝も、教会学校で子ども達と賛美する。 どんなときでも どんなときでも くるしみにまけず くじけてはならない     イェスさまの イェスさまの あいをしんじて . . . 本文を読む

先を読む

2006年03月10日 | Weblog
出勤時、とある家の玄関先の植木鉢にクロッカスが2本恥ずかしそうに咲いていた。舗道脇に植えられている沈丁花が咲いていた。その近くの、白花の沈丁花が植えられているが、こちらはまだ、咲いていない。 昼ご飯を食べに近くの店に行く途中の道路の両側に椿が植えられている。ピンク色の形の良い花がチラホラ咲いていた。それを植木職人(市の職員か委託人か)が電動バリカンで剪定していた。大きな今にも咲きそうな蕾も何の其の、バッタバッタと切っているではないか、もう少し待てば、美しい花を見せてくれるものをと、少々怒りさえ覚えた。仕事であるのは分かるが、時期を考えられないのか、他を剪定して後回しにする等方法があるだろうと思った。 今朝の、読売新聞の編集手帳に、青砥藤綱という武士のことが書かれていた。青砥はある夜、川に十文を落とした。使いを走らせ、五十文の松明を買って落とした十文を拾った。「太平記」に載っているそうである。人が笑うと、青砥は言った。拾わねば十文の銭は川底に眠りつづける。自分は十文を取り戻し、商人は五十文を稼いだ。「六十の銭ひとつも失わず、あに天下の利にあらずや」世の得になったではないか、とある。私は、これを見て、ふと、小学2~3に習った国語で「弓流し」を思い出した。義経が壇ノ浦の戦いで、船上から自分の弓を落とした。義経は、敵の攻撃を防ぎながら、落とした弓を拾ったのを、家来はなぜと、主君に聞くと、義経は言った。「叔父、為朝の弓であれば、わざと捨てても良いが、私の弓はあまりにも貧弱で、敵に拾われ、これが、敵の大将の弓であると物笑いになる」と語ったことを思い出した。現代は、あまりにも目先のことばかりに血なまこになり過ぎているのではないかと反省する。 . . . 本文を読む

ラジオ放送

2006年03月09日 | Weblog
毎晩トイレに2~3回行く。夜中2時30分に目を覚ましトイレ行く。最近は、ベッドに入るとすぐに眠っていたが、今朝は、眠れなかった。それは、ある人が、三重県の柘植にある山林を献物する話があり、そこに教会関係の施設を建てて欲しいとの相談があった。そのことに、私なりに計画をどのようにすれば良いか考えると、目が覚めてきた。久しぶりのことである。仕方なく、ラジオ深夜便を聞く、3時台は、日本の歌、心の歌であった。今朝は、園まり、藤圭子特集であった。昭和42年~45年の歌が流れ、私も覚えている歌もあり聞き入っていた。最後は、「夢は夜開く」を園まりと藤圭子がそれぞれ歌っていた。同じ曲であっても、歌手によってあんなにも違うのかと感心した。これは歌だけでなく、色々な事においてもそうであると確信する。 4時台は、心の時代で、今朝は、大原美術舘の理事長 大原謙一郎氏がインタビューを受けて話をされていた。大原美術館と云えば、エル・グレコ、セザンヌ、モネ、ルノアール、ピカソ等有名画家の作品が多数展示されている。なかでも、エル・グレコの「受胎告知」は素晴らしいそうであ。一度、行って見たいと思う。氏は、質の高い日本文化を世界に発信したいと願っておられ、地域や、学校とも連携を深め、また若い新進の日本の画家を応援しておられる。 4時45分になったので、「世の光」を聞く、今朝は、S師がヨブ記から話された。教会の祈祷会でもヨブ記を学んでおり、ヨブの信仰を学ばされている。 . . . 本文を読む

エンドウ

2006年03月08日 | Weblog
今日も暖かい一日であった。自転車に乗って走っていると、あちらこちらでエンドウ豆やソラマメが目につく、エンドウはすでに1mほどに成長していて、白い花が咲いていた。ソラマメは30cmほどである。いずれも連作を嫌う作物である。特にソラマメは非常に強かったと記憶する。エンドウとソラマメには、ほろ苦い記憶がある。それは随分昔のことである。小学1年生だったと思う、私のところには畑がなかったので、親戚の畑だったと記憶する。エンドウを採って来るように云われ、畑に行った。そこにはエンドウとソラマメの両方が植えられていた。従姉妹と一緒に行って、どう間違ったのか、ソラマメを収穫して帰って、ソラマメは家では植えていない、他所の畑のものを採ってきたと云われた。その時は、叱られた記憶はないが、なにか悪いことをしたとその時は思った。  1月ほど前に、初物のエンドウを買ってまめご飯を炊いてもらったが、美味しかったので、今日、エンドウを見たので、職場からの帰り、イズミヤで買い物をした時、エンドウが目についたので、豆ご飯と思い買うつもりで手に持ち、レジに行く間に今日買って帰っても、明日になると思い、明日は家内の誕生日なので、何か好きな物を買って帰ることを思い出し、手に持っていたエンドウを元の場所に返した。今日はエンドウが気になった一日であった。 . . . 本文を読む

春は風に乗って

2006年03月07日 | Weblog
今朝は、暖かい朝であった。昼前、自転車で走っていても、顔に当たる風も、寒がりやの私でも余り苦にならないと云うより、やや気持ち良いほどであった。杭全神社裏の杭全公園には、幼児をつれたお母さん達が多く出かけていた。今日は、春を感じる一日であった。   午後、自転車で外出する。大和路線のある踏み切りで通過列車待ちをしていた時、ふと横を見ると、ごみに混じって、球根が一つ、捨てられていた。相当、日数が過ぎているのか、大分乾燥していた。生きているのか、駄目なのか分からない。その球根が何の球根か乾燥が進んでいるので特定出来ない。小芋のようでもあり、グラジオラスのようでもある。又は、他の球根かも知れない。探究心(?)の強い私は、とうとうその球根を拾い持ち帰ることにした。命があるのか無いのか分からないが、可哀想なのと、何の球根かを確認する為に、庭の鉢に植える。生命があれば、芽を吹き、やがて花を咲かせ、自らを証明してくれることだろう。これも春風の為せる業なのかもしれない。興味津々と楽しみが与えられた。 昨日、今朝と早朝目が覚め、ラジオを聞く、今朝のラジオ深夜便によると、今日の花は、パンジー(三色スミレ)であり、花ことばは、物思い私のことを忘れないである。 . . . 本文を読む

神の恵み

2006年03月06日 | Weblog
起床5時40分、朝祷会の司会なので少し早く行く。今朝は、日本メノナイトブレザレン教団平野教会のK師が「私にある神の恵み」と題して、コリントⅠ15:10から話しされた。平野に来るまで、二つの教会で20年、平野で20年計40年伝道、牧会された。過ぎし日を省みると、受けるに価しないものであったが、神様は、豊かな恵みをもって報いて下さった。金太郎飴ではないが、何処を切っても恵みに満ちていたと語られた。無論いい事ばかりではなく、時には、大変な苦しみも味われた、K師自身、牧会の当初、教団の検診で、胃がんが発見され、胃の3分2を切除する手術をされて、奥さんが、両親に対して、未亡人になったら宜しくと、覚悟されたほどであるが、恵みにより癒された。また、K師には、3男3女の6人の子どもさんがおられたが、三男を交通事故で亡くされている等少なくない試練にも遇われたが、「私の恵みは、あなたに十分である。」とのみ言葉のごとく、全てを益にして下さったと証しされた。お証しを聞きながら、私もまた、多くの恵みに与っていることを覚え主のみ名を崇めた。 . . . 本文を読む

芍薬

2006年03月04日 | Weblog
朝食後、何時もの時間より早く、教会に掃除する為に行く。掃除の後、孫の保育参観に行く。見ていると子ども達は、家族を意識してか、それなりに頑張っている様子を見て微笑ましくなる。小さな子どもをよくもまあ訓練、指導をされているので感心する。先生方のご苦労に頭が下がる。参観後は、昨晩診療所に行った時、買った芍薬の苗を置き忘れたのを取りに行く。最近は、物忘れがひどくなった様に感じる。帰宅後は、朝食時に行けなかったので、昼食を「さわ」で例の如くお粥セットを注文する。1時ごろであったが、先客は4名で内1名は外国人で単独の男性ばかりであった。後で男性1名が来られた。外国人の他は年配の独身者と思われた。年配の独身者にとって、格好の食事なのかも知れない。食後、持ち帰った芍薬の苗を植える。先日は、赤の芍薬だったが、今回は、白色である。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花と云われる様に美しい花を5月ごろに見せてくれることだろう。今の新芽には思いもつかないが、それでも、その新芽は赤味を帯びて初々しい美しさを感じる。棚の植木鉢を見ると、ホトトギスが小さな芽が緑の顔を覗かせていた。 . . . 本文を読む

鳥たちの姿

2006年03月03日 | Weblog
今朝は、昨日の雨もあがり晴れたが、顔に当たる風が非常に冷たい。それは3月の風でなく、2月の風そのものであり寒かった。上空には冷たい寒気団が張り付いているのだろう。風をついて、自転車を走らす。いずみやと平野北中学校の間の道路横に大きな並木がある。その木々の間から、ひよどり達が盛んにやかましく鳴いていた。それは、私には「春だ、春だ、春が来た」と聞こえて来た。この寒いのにと思いながら、彼らには春が来たと感じているのだろう。近年都会でごく普通にみられる野鳥である。以前住んでいた家の前が空地になっていて、それに向けてパンを投げると、見事にフライングキャチをしたのを思い出す。ひよどりと同じくよく目につくものに、キジバトがある。あのあいくるしい目が特徴で大抵は、二羽で道路に落ちているのか、餌を啄ばむ姿を良く見かける。近寄っても余り人を恐れない。せきれいもよく目にする。細長い尻尾を上下に振りながら歩く姿は滑稽である。今年は見ないが、昨年の今頃、めじろをよく見かけた。向かいの二軒の庭に、さざんかと椿が植えられてあり、その花の蜜を吸うために、最初の一軒で蜜を吸い、その後、二軒目に移るいわゆるはしごをしていた。おまけに、何日か、大体時間も同じ時に訪問していたのを覚えている。このように鳥の種類によって習性が違うので大変面白い。鳥が住みづらい環境は人間も住みにくいのである。そのために良い環境は守らなくてはならない。 聖書に「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、すぐれたものではありませんか。」マタイ6:36とあります。 . . . 本文を読む

無代価

2006年03月02日 | Weblog
今日の午後、中央区の谷町を歩いている時、昨年、球根を拾った街路樹の下を見ると、水仙が美しく咲いていた。これから道を歩いてと色々な草花が目につく時期になり楽しみである。今日、待望の敬老優待乗車証を受領する。区役所の担当係員から説明を受け頂く。私は、係員に有効に活用させて頂きますと礼を云って帰る。乗車証を頂いた気持ちとして嬉しい反面、いよいよ高齢者であると実感して100%喜ぶことが出来ない部分もあるが無代価で自由に乗車できるのは大きな魅力である。私は、これを頂いた後思った。年間十分活用しても数万円であろう。それでいて嬉しい、感謝だと思っているが、神様からは、それこそ無尽蔵までに多くのものが与えられている。時間、健康、生活に必要な多くの物それに加えて、いのちも与えられているが、それに対する感謝、喜びがあるだろうか、たかが、乗車証一枚で喜ぶのに、多くのものを無代価で与えられていることに対する感謝と喜びは本当に少ないことに気づく。与えられている時間、健康、その他多くの物を無駄に無意味に使うことの無い様、反省する時が与えられて感謝である。 . . . 本文を読む

再出発

2006年03月01日 | Weblog
今日から3月、瀬戸内海でいかなご漁が解禁になったとラジオが報じていた。すでに、暖かくなったかと思うと、寒波が来るという三寒四温を繰り返しながら季節は移り変わっていく。今日、私の後任の配置がつかないので、もう1年残留してくれとの連絡を受ける。退職の準備を心身ともにそなえつつあったが、いざ留年となると、10000mを走っていてゴール寸前で、もう1000m走れと言われた様な気持ちである。 余り変化はないものの、自由になればあれもしたい、これもしょうと思っていたがそれらは、次の機会となる。70才を記念して自分史の作成も微妙であり、感謝会の開催は確実に来年以降になる。 ともあれ、態勢を整え、一呼吸して再出発のスタートを切ろう。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」テサロニケⅠ 5:18 . . . 本文を読む