前郷寺ノ下地区は地区は、由利本荘市役所の南東約9kmのところ
国道108号線を南へ、由利高原鉄道鳥海山ろく線と子吉川に沿うように進みます
黒沢駅に東側で黒沢踏切を渡ると、滝沢橋信号を左(東)へ県道171号線です
子吉川を滝沢橋で渡ってすぐに県道171号線は右(南東)へ折れます
間も無く県道に面して左に慶祥寺参道が南南西向きに有ります
すぐ先の県道脇に
車を止めさせて頂きました


参道入口です、目的にケヤキが入口右に在ります


天然記念物標柱です
市指定天然記念物 慶祥寺のケヤキ
【樹高】18m【幹周り】5.75m【樹齢】約770年
【指定年月日】平成28年1月28日
市内最大の幹周りをもつケヤキです。



南南西側から



西北西側から



北側から



北北東側から

史跡 慶祥寺の標柱です
開基は由利仲八郎政春の姉の慶祥比丘尼。
もと正和年中(1312~)米山栗山に庵を建て、慶祥庵と称した。
のちに由利氏の後裔滝沢兵庫頭政道が、滝沢館に城を築くにあたり、城下町をつくるため現地前郷文珠屋敷に慶長13年(1608)に移した。
慶祥比丘尼は延慶3年(1310)死亡、命日5月15日。
*由利仲八郎政春は、鎌倉後期の武士で、由利氏(源頼朝の奥州征伐で藤原方につき、つぎには和田義盛の乱でも三浦方についたため改易となった)に後裔として浜館(西目町出戸に日本海を望む標高116mの山城)を拠点に勢力を拡大しましたが、応長元年(1311)年に栗山館(にかほ市伊勢居地の標高114mの山城)主の鳥海弥三郎の攻撃に陥落。(由利氏・鳥海氏の抗争)
鳴瀬館(由利本荘市南福田鳴沢台)に移り、さらに正和4年(1316)に根代館(由利本荘市川西の標高110mの山城)に拠点を移しました。しかし、正中元年(1324)また鳥海勢の攻撃を受けて落城し、自害したと伝えられています。
*次回に、由利仲八郎政春の墓についても紹介いたします

参道を進みます

山門です


山門前右手のケヤキの大木です

山門を潜ると右手に鐘楼です

正面に本堂です
では、次へ行きましょう

国道108号線を南へ、由利高原鉄道鳥海山ろく線と子吉川に沿うように進みます
黒沢駅に東側で黒沢踏切を渡ると、滝沢橋信号を左(東)へ県道171号線です
子吉川を滝沢橋で渡ってすぐに県道171号線は右(南東)へ折れます
間も無く県道に面して左に慶祥寺参道が南南西向きに有ります
すぐ先の県道脇に



参道入口です、目的にケヤキが入口右に在ります



天然記念物標柱です
市指定天然記念物 慶祥寺のケヤキ
【樹高】18m【幹周り】5.75m【樹齢】約770年
【指定年月日】平成28年1月28日
市内最大の幹周りをもつケヤキです。



南南西側から




西北西側から




北側から




北北東側から


史跡 慶祥寺の標柱です
開基は由利仲八郎政春の姉の慶祥比丘尼。
もと正和年中(1312~)米山栗山に庵を建て、慶祥庵と称した。
のちに由利氏の後裔滝沢兵庫頭政道が、滝沢館に城を築くにあたり、城下町をつくるため現地前郷文珠屋敷に慶長13年(1608)に移した。
慶祥比丘尼は延慶3年(1310)死亡、命日5月15日。
*由利仲八郎政春は、鎌倉後期の武士で、由利氏(源頼朝の奥州征伐で藤原方につき、つぎには和田義盛の乱でも三浦方についたため改易となった)に後裔として浜館(西目町出戸に日本海を望む標高116mの山城)を拠点に勢力を拡大しましたが、応長元年(1311)年に栗山館(にかほ市伊勢居地の標高114mの山城)主の鳥海弥三郎の攻撃に陥落。(由利氏・鳥海氏の抗争)
鳴瀬館(由利本荘市南福田鳴沢台)に移り、さらに正和4年(1316)に根代館(由利本荘市川西の標高110mの山城)に拠点を移しました。しかし、正中元年(1324)また鳥海勢の攻撃を受けて落城し、自害したと伝えられています。
*次回に、由利仲八郎政春の墓についても紹介いたします

参道を進みます


山門です



山門前右手のケヤキの大木です


山門を潜ると右手に鐘楼です


正面に本堂です

では、次へ行きましょう


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