中野地区は、西条市役所の南約4kmのところ
西条市役所南側の「市役所前交差点」を西へ、御殿前通りです
約300mの信号を左(南)へ、県道141号線です
約1.7kmの「常心交差点」信号を右(南西)へ、国道11号線です
加茂川橋を渡って直ぐの「加茂川橋交差点」信号約500mで左(南東)へ、国道194号線で加茂川左岸沿いを進みます
約2kmの北側一段下に大きな木が見えますが、車を止める所がありません
約100mの交差点を鋭角に右(北)へ入ります、約200mで

右手(南側)の田圃の奥にムクノキが見えました
道路脇に
車を止めさせて頂きました

西北西側から田圃の畔を進みます



「オタチキさんのムク」です



北側から、手前には石積の段があります、祠が有ったのでしょうか



北東側から、板根を挟んで石碑が建っています

大太刀君神社社殿です
*Googleマップでは「大太刀神社」となっていますが、正しくは「大太刀君神社」です。

説明版です
オタチキさんのムク(大太刀君神社の椋)
高峠城の支城で氷見の高尾城主石川源太夫は、文武両道に優れていた。
しかし、勢力があまりにも強いので、源太夫を討とうと徳永・塩出・工藤等が密談し、横山城主近藤但馬守を押し立てて、謀略をもって天文の末ころ(1550年ごろ)、端午の節句の時期に源大夫をこの地に誘い出し、200余騎の伏兵を用いて不意打ちした。大激戦の末、源太夫主従は一人残らず壮烈な討ち死にを遂げた。
高峠城主石川伊予守はこのことを知り、源太夫主従を哀れみ保国寺においてねんごろに弔い、源太夫をこの地に埋葬した。
後にこの所へ椋の木が生える。また、源太夫を祭る祠を「オタチキさん」と呼び、現在でも、木挽原自治会では毎年旧6月1日にお祭りをしている。
*澄水記では榎木とある。(澄水記等の伝承より)
令和5年1月 西条市教育委員会



南側から、ムクノキらしいフォルムです



南西側から、目通り幹囲6.0mの巨木です



西側から、幹の穴は枝の折れて跡です



北西側から見上げました
では、次へ行きましょう

2025・4・16・12・50
西条市役所南側の「市役所前交差点」を西へ、御殿前通りです
約300mの信号を左(南)へ、県道141号線です
約1.7kmの「常心交差点」信号を右(南西)へ、国道11号線です
加茂川橋を渡って直ぐの「加茂川橋交差点」信号約500mで左(南東)へ、国道194号線で加茂川左岸沿いを進みます
約2kmの北側一段下に大きな木が見えますが、車を止める所がありません
約100mの交差点を鋭角に右(北)へ入ります、約200mで

右手(南側)の田圃の奥にムクノキが見えました

道路脇に


西北西側から田圃の畔を進みます




「オタチキさんのムク」です




北側から、手前には石積の段があります、祠が有ったのでしょうか




北東側から、板根を挟んで石碑が建っています


大太刀君神社社殿です

*Googleマップでは「大太刀神社」となっていますが、正しくは「大太刀君神社」です。

説明版です
オタチキさんのムク(大太刀君神社の椋)
高峠城の支城で氷見の高尾城主石川源太夫は、文武両道に優れていた。
しかし、勢力があまりにも強いので、源太夫を討とうと徳永・塩出・工藤等が密談し、横山城主近藤但馬守を押し立てて、謀略をもって天文の末ころ(1550年ごろ)、端午の節句の時期に源大夫をこの地に誘い出し、200余騎の伏兵を用いて不意打ちした。大激戦の末、源太夫主従は一人残らず壮烈な討ち死にを遂げた。
高峠城主石川伊予守はこのことを知り、源太夫主従を哀れみ保国寺においてねんごろに弔い、源太夫をこの地に埋葬した。
後にこの所へ椋の木が生える。また、源太夫を祭る祠を「オタチキさん」と呼び、現在でも、木挽原自治会では毎年旧6月1日にお祭りをしている。
*澄水記では榎木とある。(澄水記等の伝承より)
令和5年1月 西条市教育委員会



南側から、ムクノキらしいフォルムです




南西側から、目通り幹囲6.0mの巨木です




西側から、幹の穴は枝の折れて跡です




北西側から見上げました

では、次へ行きましょう


2025・4・16・12・50
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます