大嵐地区は、南アルプス市役所の北北西約10km、南アルプス市八田窓口サービスセンターの西約7kmのところ
南アルプス市八田窓口サービスセンター前の「八田農協前」信号を西へ、県道20号線です
約3.5kmで右(北)へ、まだ県道20号線です、道成りに西へ坂道を南アルプス登山口の夜叉神峠方面へ向かいます
約2.7kmで右(北)へ御勅使川を白根西橋で渡り、直ぐを左(西)へ、御勅使川沿いを上ります
右へ右へと分岐を進んで、つづら折りに登って行きます、約3.3kmで右後ろ側へ「山の果樹園」の案内板が有ります
約1.2kmで善応寺の駐車場の案内がありますので左(北)へ「山の果樹園」のフェンス沿の急な凸凹道へ入ります
間も無く広場状のところに車を止めさせて頂きました
ここから歩いて「山の果樹園」のフェンス沿いを登って行きます
案内板です、右へ進みます
草苅はされていますが、蜘蛛の巣には注意が必要です
木々の間へ入ります
林を抜けると目的のビャクシンです
ビャクシンの前から参道石段を覗きました、参道は「山の果樹園」の中の防獣フェンスを開けて通って来るようです
南側から、四方からの支柱に支えられています
説明版です
大嵐のビャクシン
昭和42年(1967)県文化財指定
このビャクシンは、臨済宗善応寺の御神木として、植栽されたと言われており、樹齢は少なくとも500年に達していると思われる。
ビャクシンはヒノキ科に入り、本県では峡西地方に多く分布している。
規模は、根回り幹囲 5.80m
目通り幹囲 3.48m
樹高 17.00m
翼長は北へ 4.80m
南へ 5.00m
東へ 6.00m
西へ 3.50m
平成10年(1998)の大雪の際、南側の枝が折れるという被害を受けたが、樹勢は旺盛である。
平成12年1月1日
山梨県教育委員会・南アルプス市教育委員昭
東側から、根元近くに二本の枝の切り口が有ります
北側から見ました、三本の合体樹だったのかもしれませんね~
善応寺本堂(観音堂)です、防獣・防鳥用のグリーンの網で覆われています
本堂軒下の鰐口です
由緒石碑です
城守山善応寺は弘安年中(西暦1278年~1288年)本尊に釈迦如来を祀り、笹見浦政綱公を開基とし大休佛源禅師を迎えて開山したと伝えられている。
大休佛源禅師は中国より渡来した高僧で、正応2年(1289年)11月晦日没している。
境内にある観音堂は、往時大笹池の西都沢で発見された千手観世音菩薩を祀るため建立されたと伝えられている。
南北朝の観応の時(1351年)高播磨守師冬は城主逸見孫六入道とともに、楢沢城によって諏訪直頼軍と戦いこれに敗れ滅亡したが、この兵乱により善応寺も被害を受けた。
弘治3年(1557年)に僧比丘一兆叟宗専・棟梁広瀬越前守・本願主沙弥道喜等によって本尊観音宮殿が建立された。
寛文8年(1668年)鐘堂の建立及び梵鐘の鋳造。天和3年(1683年)観音堂前に石灯籠一対を建立。
元禄15年(1712年)堂宇観音堂再建の勧進を始め、享保6年(1721年)堂塔を完成した。
善応寺は、建立後700年の永い年月を経て今日に至っているが、時代の変遷はこの由緒ある寺にも及び、昭和30年(1955年)老朽化の進む本堂が取り壊され、現在は観音堂が当時の名残を留めている。
境内には、往時を偲ばせるビャクシンや宝篋印塔が残されている。
平成の時代を迎え、ふるさと創生を進めるにあたり、歴史の狭間に埋もれることを憂い、残された資料を基に史実を尋ねこれを記し永く後世に伝えるため、この碑を建立する。
平成2年4月1日 白根町長 名 執 齊 一
白根町は、平成15年(2003)4月1日に 中巨摩郡八田村・芦安村・若草町・櫛形町・甲西町と新設合併して南アルプス市が発足し、同日白根町は廃止となりました。
ビャクシンの東側に鐘楼です
銅鍾です
本堂西側に宝篋印塔が有りますが、囲いで宝篋印塔の頭だけしか見えません
宝篋印塔の説明版です
石碑や石仏が並びます
では、次へ行きましょう
南アルプス市八田窓口サービスセンター前の「八田農協前」信号を西へ、県道20号線です
約3.5kmで右(北)へ、まだ県道20号線です、道成りに西へ坂道を南アルプス登山口の夜叉神峠方面へ向かいます
約2.7kmで右(北)へ御勅使川を白根西橋で渡り、直ぐを左(西)へ、御勅使川沿いを上ります
右へ右へと分岐を進んで、つづら折りに登って行きます、約3.3kmで右後ろ側へ「山の果樹園」の案内板が有ります
約1.2kmで善応寺の駐車場の案内がありますので左(北)へ「山の果樹園」のフェンス沿の急な凸凹道へ入ります
間も無く広場状のところに車を止めさせて頂きました
ここから歩いて「山の果樹園」のフェンス沿いを登って行きます
案内板です、右へ進みます
草苅はされていますが、蜘蛛の巣には注意が必要です
木々の間へ入ります
林を抜けると目的のビャクシンです
ビャクシンの前から参道石段を覗きました、参道は「山の果樹園」の中の防獣フェンスを開けて通って来るようです
南側から、四方からの支柱に支えられています
説明版です
大嵐のビャクシン
昭和42年(1967)県文化財指定
このビャクシンは、臨済宗善応寺の御神木として、植栽されたと言われており、樹齢は少なくとも500年に達していると思われる。
ビャクシンはヒノキ科に入り、本県では峡西地方に多く分布している。
規模は、根回り幹囲 5.80m
目通り幹囲 3.48m
樹高 17.00m
翼長は北へ 4.80m
南へ 5.00m
東へ 6.00m
西へ 3.50m
平成10年(1998)の大雪の際、南側の枝が折れるという被害を受けたが、樹勢は旺盛である。
平成12年1月1日
山梨県教育委員会・南アルプス市教育委員昭
東側から、根元近くに二本の枝の切り口が有ります
北側から見ました、三本の合体樹だったのかもしれませんね~
善応寺本堂(観音堂)です、防獣・防鳥用のグリーンの網で覆われています
本堂軒下の鰐口です
由緒石碑です
城守山善応寺は弘安年中(西暦1278年~1288年)本尊に釈迦如来を祀り、笹見浦政綱公を開基とし大休佛源禅師を迎えて開山したと伝えられている。
大休佛源禅師は中国より渡来した高僧で、正応2年(1289年)11月晦日没している。
境内にある観音堂は、往時大笹池の西都沢で発見された千手観世音菩薩を祀るため建立されたと伝えられている。
南北朝の観応の時(1351年)高播磨守師冬は城主逸見孫六入道とともに、楢沢城によって諏訪直頼軍と戦いこれに敗れ滅亡したが、この兵乱により善応寺も被害を受けた。
弘治3年(1557年)に僧比丘一兆叟宗専・棟梁広瀬越前守・本願主沙弥道喜等によって本尊観音宮殿が建立された。
寛文8年(1668年)鐘堂の建立及び梵鐘の鋳造。天和3年(1683年)観音堂前に石灯籠一対を建立。
元禄15年(1712年)堂宇観音堂再建の勧進を始め、享保6年(1721年)堂塔を完成した。
善応寺は、建立後700年の永い年月を経て今日に至っているが、時代の変遷はこの由緒ある寺にも及び、昭和30年(1955年)老朽化の進む本堂が取り壊され、現在は観音堂が当時の名残を留めている。
境内には、往時を偲ばせるビャクシンや宝篋印塔が残されている。
平成の時代を迎え、ふるさと創生を進めるにあたり、歴史の狭間に埋もれることを憂い、残された資料を基に史実を尋ねこれを記し永く後世に伝えるため、この碑を建立する。
平成2年4月1日 白根町長 名 執 齊 一
白根町は、平成15年(2003)4月1日に 中巨摩郡八田村・芦安村・若草町・櫛形町・甲西町と新設合併して南アルプス市が発足し、同日白根町は廃止となりました。
ビャクシンの東側に鐘楼です
銅鍾です
本堂西側に宝篋印塔が有りますが、囲いで宝篋印塔の頭だけしか見えません
宝篋印塔の説明版です
石碑や石仏が並びます
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