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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

三重県伊賀市、一之宮「敢國神社のスギ」です!!

2025-04-25 12:37:11 | 巨樹・大木
 一之宮地区は、伊賀市役所の北東約5kmのところ

 敢國神社(あえくにじんじゃ)は、伊賀一之宮で、旧社格は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社となっています
 
 伊賀市役所の西側の道路を北へ、約500mの名阪国道の高架を潜った八反田橋を渡った交差点を右(東)へ

 名阪国道の側道を進んで「友生IC」で名阪国道に乘って名古屋・四日市方面へ進みます

 約4.4kmの「中瀬IC」を降りて右(東北東)へ、国道163号線伊賀街道です

 約800mの右カーブのところで「⇧佐那具3km」の標識を斜め左(北)へ入ります、県道676号線です

 約1.3kmで道路左手に敢國神社駐車場が左手にあります

 駐車場の「交通安全 守護神 敢國神社(あえくにじんじゃ)」の看板です

 隣には、「忍者衣装の顔出し」のある説明版です
   忍びの里 伊賀・甲賀
     敢國神社(あえくにじんじゃ)
 南宮山の麓に鎮座する敢國神社は、伊賀国一宮とされ、創建は斉明天皇4年(658)と伝えられています。現在は大彦命と少彦名命、金山比咩命の三神を祀っています。
 伊賀地域に広く伝播する獅子神楽に大きな影響を与えた「敢國神社の獅子舞」は、県指定無形文化財に指定されています。
 伊賀の国は、複数の土豪が連合(一味同心)し、話し合い(談合)で地域の平和を守っていました。彼らは他の地域から「伊賀衆」と呼ばれることもありました。ここは、祭礼を通じた伊賀衆の結集の場となっていたと考えられています。
 神社に伝わる「黒党祭」と呼ばれる祭りは、後に服部半蔵を輩出することになる服部一族の私的な祭りであったとされます。起源は定かではありませんが、神事に携わる者は服部一族に限られ、黒装束に身を固める慣わしでした。
 敢國神社は、天正伊賀の乱の後、一時荒廃しますが、その再興に務めたのが、修験者の小天狗清蔵や藤堂藩初代藩主藤堂高虎です。
 修験道は忍術に影響を与え、藤堂藩は「忍びの衆」と呼ばれた伊賀者を召抱えていました。その二人が再興に尽力したことは、伊賀者の氏神であったことと関係しているのかもしれません。
         伊賀市

 神社へ緩く上るように進みます

 左手に芭蕉の句碑です

 説明版です
   「手ばなかむ おとさへ梅の にほいかな ・ ばせお」
 元禄元年(1688)芭蕉45歳の作。季語「梅」で春。
 「笈の小文(おいのこぶみ)」の旅で伊賀上野に帰郷中の芭蕉が、梅の咲く頃の爽やかな山里の趣を詠んだ句で、「卯辰集」(北枝編)に納められている。
 土芳の「蕉翁句集草稿」には、「伊賀の山家に有て」の前書があり、下五を「さかり哉」とする。
 「手鼻かむ音」は、紙を使わず手で鼻をかむしぐさ。この語などは、和歌の観念では生かされそうにない素材であるが、芭蕉は和歌・連歌で詠み残した世界を広く俳諧の世界に生かし新境地としている。
 この句も高雅で伝統的歌題である「梅」の情趣に、いかにも卑俗ね「手鼻かむ音」を配して、寒さの残る山里の野趣を表現しているところは、和歌の伝統などには見られない俳味である。
 句意は、「早春のこととて、梅の花が今盛りを迎えている。その匂いの中に立っていると、傍らでふと手鼻をかむ音がした。そんなはしたない音さえも、田舎らしい趣が感じられてくる。」

 市杯島姫神社(弁天社)です

 南向きに境内入口の両部鳥居です

 「元国弊中社 敢國神社」の社號標です

 南側にデジタル案内板です、協賛企業・店舗の案内図もあります

 手水舎です

 正面一段上に拝殿です

 左手(西側)の斜面に目的のスギが見えています、まずはお参りしましょう


 本殿の屋根が見えました

 拝殿前からスギを見ました

 北側から

 一段下りて、西側から、細い注連縄が巻かれています

 北側根元から見上げました、目通り幹囲5.4mの巨木です

 東側から

 南側境内へ下りて来て見上げました

 では、次へ行きましょう




 2025・4・3・15・00
 
 

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