八日市場ロは、匝瑳市役所の西約1kmのところ
匝瑳市役所北側の道路を南西へ、約1kmの十字路を右(北西)へ入って三叉路を左へ進みます
約400mで道路左手に愛宕神社参道が南東向きに開いています
前に駐車するところが無いので、坂道を上って愛宕神社の裏側に回り
車を止めて来ました

愛宕神社社號標です

桜並木の参道を進みます

長い石段を上がります

石段左手に目的のスダジイです



脇から見上げました、目通り幹囲6.5mの巨木です

石段の中段右手に手水舎です



スギが石段の左手に見えますが目的のものではありません



石段上側から見ました

石段を上り切るとまた手水舎です

拝殿です


本殿です

改修記念碑です
愛宕神社境内社御改修記念碑
抑も愛宕神社の御祭神は天地開闢の最初に現れた神代七代の第1の神たる国之常立神をはじめ、国狭土尊、豊斟淳尊、宇比地邇尊、須比智邇尊、大戸道尊、大苫辺尊、面足尊、惶根尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊より天照皇大神に至る12柱の大神たちである。
本社の御創建・勧請の年代は不詳であるが、現在の社殿は江戸の後期嘉永2年(1849)6月再建になるもので、その後130余年を経た今日、本殿・拝殿をはじめ風雪の傷みにたえない有様となった。
ここにおいて区長氏子総代ら相寄り相議り、現状のままに推移しては神威を損ない、畏れ多いさと120余戸の氏子区長に諮り、異を唱うる者なく衆議一決し、此度の大改修工事となった。
御神徳の光被遍く及びたる故か、氏人らの至情は集い挙り、当初予算を越えて1600万余円の奉納金となったために、社殿の修築以外に参道石段の改修のほか、古くより境内社として祀られし、十二所神社・三峯神社の本殿・鳥居も新たに修造し、ここに完工を見るに至った。
当社はその昔、愛宕山大権現の名の如く神仏習合時代は持福寺が別当であったが、明治元年、神仏分離・判然の令により、愛宕神社と改称したものである。維新後持福寺は廃寺となり、神社の宝物たる白馬に跨りし白面の武将像(里人はこれを御神体と称するが御神像と呼ぶべき美術品)は、その後本寺たる福善寺に移されしものと古老の伝えあり、今回尋ね求めたところ、伝承は正しく同寺に現存しているところを確認した。
総代代表ら、住職と折衝の結果、福善寺第36世石井尭慧僧正の好意的御理解と英断により、御神像は110余年ぶりに本社に還御されることとなり、まことにめでたき極みである、これ徧に御氏子崇敬者一同の至誠の精神が、愛宕大神の御感応にあずかりしお蔭と恐懼感激して記し置くものである。
昭和59年7月吉日 宮司 品村晃祥 敬誌
書家 菊地汪翆 謹書

記念碑にあった御神像伝説です
愛宕神社御神像乗馬「ひずめ」跡の伝説
平成7年7月 記
天保11年2月(今から百数十年前)夜8時、田町より火を出し、田町坂下全焼、本町、門前町へと延焼し、見徳寺殿堂残らず焼失。火は富谷村の境にまで達す。
この時、愛宕神社の御神像「勝軍地蔵菩薩」白馬にて石段を下られ、村への延焼を防護下されたと。
このときの「ひづめ」の「あと」と代々伝え継がれてきました、石段改修の折、移動してこの場所に安置の措置がとられました。

境内社です

本殿裏側のスギです



斜めになっています



目的のスギは、拝殿西側の伝説の石碑の後ろ側です



南側から、注連縄が巻かれています、目通り幹囲5.0mの巨木です



西側から見上げました


目的に杉の南側には境内社の「十二所神社」です
では、次へ行きましょう
匝瑳市役所北側の道路を南西へ、約1kmの十字路を右(北西)へ入って三叉路を左へ進みます

約400mで道路左手に愛宕神社参道が南東向きに開いています

前に駐車するところが無いので、坂道を上って愛宕神社の裏側に回り


愛宕神社社號標です


桜並木の参道を進みます


長い石段を上がります


石段左手に目的のスダジイです




脇から見上げました、目通り幹囲6.5mの巨木です


石段の中段右手に手水舎です




スギが石段の左手に見えますが目的のものではありません




石段上側から見ました


石段を上り切るとまた手水舎です


拝殿です



本殿です


改修記念碑です
愛宕神社境内社御改修記念碑
抑も愛宕神社の御祭神は天地開闢の最初に現れた神代七代の第1の神たる国之常立神をはじめ、国狭土尊、豊斟淳尊、宇比地邇尊、須比智邇尊、大戸道尊、大苫辺尊、面足尊、惶根尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊より天照皇大神に至る12柱の大神たちである。
本社の御創建・勧請の年代は不詳であるが、現在の社殿は江戸の後期嘉永2年(1849)6月再建になるもので、その後130余年を経た今日、本殿・拝殿をはじめ風雪の傷みにたえない有様となった。
ここにおいて区長氏子総代ら相寄り相議り、現状のままに推移しては神威を損ない、畏れ多いさと120余戸の氏子区長に諮り、異を唱うる者なく衆議一決し、此度の大改修工事となった。
御神徳の光被遍く及びたる故か、氏人らの至情は集い挙り、当初予算を越えて1600万余円の奉納金となったために、社殿の修築以外に参道石段の改修のほか、古くより境内社として祀られし、十二所神社・三峯神社の本殿・鳥居も新たに修造し、ここに完工を見るに至った。
当社はその昔、愛宕山大権現の名の如く神仏習合時代は持福寺が別当であったが、明治元年、神仏分離・判然の令により、愛宕神社と改称したものである。維新後持福寺は廃寺となり、神社の宝物たる白馬に跨りし白面の武将像(里人はこれを御神体と称するが御神像と呼ぶべき美術品)は、その後本寺たる福善寺に移されしものと古老の伝えあり、今回尋ね求めたところ、伝承は正しく同寺に現存しているところを確認した。
総代代表ら、住職と折衝の結果、福善寺第36世石井尭慧僧正の好意的御理解と英断により、御神像は110余年ぶりに本社に還御されることとなり、まことにめでたき極みである、これ徧に御氏子崇敬者一同の至誠の精神が、愛宕大神の御感応にあずかりしお蔭と恐懼感激して記し置くものである。
昭和59年7月吉日 宮司 品村晃祥 敬誌
書家 菊地汪翆 謹書

記念碑にあった御神像伝説です
愛宕神社御神像乗馬「ひずめ」跡の伝説
平成7年7月 記
天保11年2月(今から百数十年前)夜8時、田町より火を出し、田町坂下全焼、本町、門前町へと延焼し、見徳寺殿堂残らず焼失。火は富谷村の境にまで達す。
この時、愛宕神社の御神像「勝軍地蔵菩薩」白馬にて石段を下られ、村への延焼を防護下されたと。
このときの「ひづめ」の「あと」と代々伝え継がれてきました、石段改修の折、移動してこの場所に安置の措置がとられました。

境内社です


本殿裏側のスギです




斜めになっています




目的のスギは、拝殿西側の伝説の石碑の後ろ側です




南側から、注連縄が巻かれています、目通り幹囲5.0mの巨木です




西側から見上げました



目的に杉の南側には境内社の「十二所神社」です

では、次へ行きましょう


※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます