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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】『芸術新潮』7月号 「愛され夢二の一生」

2024-06-27 08:23:54 | 美術

 夢二の絵や詩も好きである。

 今、東京都庭園美術館で「生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界」という展覧会が行われていて、『芸術新潮』7月号は、その展覧会に対応して編集発行されたものだ。

 私は夢二に関する本や図録をすでに持っているのだが、しかしこうして夢二の特集号が出版されると、どうしても買いたくなる。

 いくつかの記事があるが、「意外!? 夢二は女性を搾取していない」という対談は、よかった。夢二の人生にはいろいろな女性が登場し、また離れていくが、夢二が女性との間に悶着があったことはない。別れても、夢二を悪く言う女性はいなかった。この標題通りである。対談の中で、「たまきもお葉も、やはり自分の意志で動いている。女性たちを束縛して夢二だけが好き放題していた、というわけではなさそうです。自分で自分の道を決めようとする女性たち、社会にも進出し始めた女性たちに、夢二の作品を通して触れることができる。」と話されているが、その通り、夢二は家父長制的な志向を持っていない。さらにいうなら、夢二は、「大日本帝国」を支える国家主義や侵略的な志向などとは無縁に生きた。

 私はこの点でも、夢二を評価している

 夢二の絵や詩は、いつみても、何らかの抒情を感じる。また一冊本が増えてしまった。

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竹久夢二の展覧会

2024-06-15 21:05:03 | 美術

 私は竹久夢二の絵が好きだ。夢二の絵はがきはたくさんある。ひとと連絡するとき、多くの人はメールをつかうのだろうが、私は絵はがきをつかう。と言っても、最近は交友関係が少なくなっているので、出すことが少なくなっている。

 夢二の絵はがきが登場する機会をうかがっているのに、出番がない。以前、歴史学者の故ひろたまさきさんと交流していたときは、夢二を研究していたひろたさんも夢二の絵はがきをつかっていた。お互い、夢二の絵はがきでやりとりしていた。

 以前、『芸術新潮』を定期購読していた。しかし、個々の画家をとりあげるのではない特集が続いたのでやめてしまった。でも時々、どんな特集かを確認する。そしてその特集によっては購入する。

 7月号を点検したら、夢二を特集するという。東京都庭園美術館で、現在「生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界」が開催されていることから、『芸術新潮』が夢二をとりあげるのだ。早速注文した。私の書棚には、夢二に関する文献が今も並んでいる。

 歴史講座で、「夢二とその時代」をテーマに話したことがある。そのために、夢二の生家や岡山の夢二郷土美術館、夢二がよく行ったという牛窓を訪れ、また夢二が亡くなった長野県富士見の高原療養所あとにも行った。その際につくったレジメやスライドは今も保存している。

 なぜ夢二が好きなのかをみずからに問うと、夢二は近代日本国家にまったくなじめない人間であったということだ。夢二は、近代日本国家の一定の価値観から離れて生きた。その象徴として、彼は、元号を一切使わなかった。

 歴史講座で、私は夢二について、最後にこう語った。

石川啄木や大杉栄らのように、近代日本国家に「違和感」を持った人間ではなく、本来的に近代日本国家に馴染むことがなかった人間、それが夢二であった。夢二の作品が今も尚人々の関心を集める所以は、近代日本国家の価値観に染め上げられていないこと、そうしたものから自立していたからに他ならない。その時代の国家的価値観に寄生し、その価値観を身につけ、当該期にどんなに売れたとしても、その人間はいずれ歴史のくずかごに捨てられるだろう。その理由は、時代を超える普遍性を持たないからである。

 近代日本の価値観とは、天皇制(→「国体」思想)、ナショナリズム(→排外主義)、軍国主義・帝国主義(→植民地帝国)、資本主義(→格差社会)、私有財産の不可侵(財産権=人権の一つ)、自由放任と国家主導の資本育成(殖産興業、富国強兵)、家父長制(→「家」の束縛)、そして立身出世主義である。国家の価値観と合体する者は、国家的秩序の階段を上にあがることが許容され、カネや名誉などが与えられる。

 夢二は、そうした価値観とは無縁であった。

 

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歴史を学ばぬ俗吏たち

2024-01-11 21:24:41 | 社会

灰色の東京を見下して、最も心づよく眼にうつるものは、緑の立木である。上野公園、芝公園、日比谷公園、山王の森、愛宕山、宮城などを見渡すとき、これ等の森の木が、どんなに猛火と戦ったかを、今更のように感ぜずにはいられない。それにつけても、新しく造られる大東京は、緑の都市でなくてはならない。

清水公園を宅地に開放したり、弁慶橋を撤廃して堀を埋めて住宅を造るという議があったが、そんなにまで人間が、自然の風光を無視して、利殖のために、たださえ住みにくい東京をもっと狭苦しく趣きのないものにしようとした俗吏達も、いまは思い知ったであろう。

上の文は、1923年の関東大震災を体験した竹久夢二が書いたものだ。首都直下地震の可能性も云々されるとき、東京都や巨大企業は、原宿周辺の緑を奪い、また日比谷公園をなきものにしようとしている。

巨大企業の利殖活動に全面的に協力している俗吏たちは、公共性をかなぐり捨てて、歴史の教訓を学ぼうともしないで、「開発」という破壊に狂奔している。

いいかげんにしろ!と言いたい!

 

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【本】ひろたまさき『異国の夢二』(講談社選書メチエ)

2023-12-31 10:13:01 | 

 以下の文は、私が属している研究会の会報に寄せたものである。2023年6月に書いて送ったのだが、いまだに掲載されないので少し変えてここに掲載する。

 長い間、歴史学者のひろたまさきさんと交流させていただいていたが、ひろたさんは2020年6月に他界された。ひろたさんとはメールではなく、主に手紙で交流していた。ひろたさんも私も夢二が好きだったので、夢二の絵葉書が多用された。それらの手紙は、ひろたさんからいただいたご著書とともに、今も大切に保存している。

 *********************************

(1)ほとんど絵葉書であった。それも竹久夢二の美人画が多かった。私も若いころから夢二が好きだったので、ひろたさんのように、夢二の絵葉書を多用した。ひろたさんは岡山大学に在職していた時があり、そのころから夢二の研究にいつかとりかかろうと思っていたようだ(夢二は岡山出身である)。ひろたさんが夢二の研究に本格的にとりかかったのは、しかしそんなに昔ではないと思う。というのも、ひろたさんのお手紙で夢二に言及したものが、ある時期から急に増えてきていたからだ。その影響を受けて私も2019年に、歴史講座で「竹久夢二とその時代」というテーマで話すまでになった。

ひろたさんは肺がんを患い、その治療をしながら、夢二を書き続けていた。しかし完成することなく、ひろたさんは逝ってしまわれた。2020年6月17日であった。本書は、奥さまの真智子さん、高木博志さん、長志珠絵さんが協力してひろたさんの文をまとめて刊行にこぎつけたものだ。

ひろたさんが研究されてきたものには、福沢諭吉、民衆思想史、差別、女性史、異文化交流などがある。2008年、講師として、「近代天皇制と毒婦物語」をテーマに話していただいたことがある(『日本帝国と民衆意識』有志舎に収載された)。この講演は「毒婦の目から国家社会の全景を見通す」ことを試みたもので、焦点は帝国意識であった。ひろたさんは「毒婦物語はそうした帝国意識を支える社会規範形成のための杭となる役割を果たしたといえる」と語っていた。また『日本帝国と民衆意識』に、ひろたさんは「帝国意識はそうした差別意識を統括し、それらを正当として、人々を組織していったのである。それら諸思想に権威を付与し統括するのは、それらから超絶した権威をもつ天皇であったという意味で、日本の帝国意識は天皇制イデオロギーそのものであったということができよう。」(260頁)と書いている。日本帝国と民衆意識をつなぐものとしての帝国意識、ひろたさんは『差別の諸相』(岩波書店、日本近代思想体系22)で、様々な差別をそれぞれ別のものとしてではなく、近代社会の構造の中でとらえることを提唱したが、帝国意識も、近代・現代日本共通の問題として認識し、それを時期ごとに分析し、帝国意識克服の途を探ろうとしていた。

(2)そうした研究との関連で、ひろたさんはなにゆえに最期まで夢二研究に専念したのかを考えるとき、私は帝国意識との関連を指摘せざるを得ない。それは本書末に掲載された長志珠絵さんの「『異国の夢二』への途」で指摘されていることでもある(「2000年代後半に入ってのひろた先生の関心は、異文化接触、異文化交流を介した人びとの経験やそこから逆照射される帝国意識も含めた日本近代の解明に向けられていた」)。

ひろたさんは、本書で三つの課題をあげている。一つは夢二にとっての「民衆芸術」の追究である。「民衆芸術」「産業美術」を外国訪問のなかでどのように構想していたのか、である。二つ目は、夢二の洋行は世界が恐慌を経て戦争へと向かっている1930年代であったことから、そうした「政治・社会状況」にどう向き合ったのか、そして最後は「夢二の「女性観」」である。夢二の女性遍歴をみるなかで、夢二にとって女性とはいかなる存在であったのかを考えることである。この三点についての言及は多く、ひろたさんはこれらの課題を考えていくのであるが、私は読んでいて、背後に「帝国意識」の問題があることを感じ続けていた。夢二は、当時の日本人がもっていた「帝国意識」とは、無縁であった(さらにいえば、セジウィックが『男同士の絆』(名古屋大学出版会)でいう「ホモソーシャルな欲望」を夢二はもたない。)。そうした存在としての夢二は、十分に考究の対象となりうる。  

私も、歴史講座のまとめでこう語った。

「私は外国人の中で日本人たることを恥ぢもしないし、また世界で一番強い国民だとも、思っていない。第一そういう比較の関心さえ持たない。もし人が問うならば、日本人は秀れた天分を持っているとは言える。」(「日記」、1932年9月27日、船上で)を挙げ、夢二は、近代日本国家に囚われず、金銭に追われながらある意味で自由に生きた。維新以降に創出された近代日本国家(制度)から離脱し(たとえば家父長制を意に介さない)、また近代日本国家がつくりだした価値観を身につけることなく生きた。だから夢二は、元号を一切使用しなかった。啄木や大杉栄らのように、近代日本国家に「違和感」を持った人間ではなく、本来的に近代日本国家に馴染むことがなかった人間、それが夢二であった。夢二の作品が今も尚人々の関心を集める所以は、近代日本国家の価値観に染め上げられていないこと、そうしたものから自立していたからに他ならない、と。

ひろたさんがなにゆえに夢二の研究を最後まで続けたのか。夢二がもっていた「権威や権力に対する反感」、夢二にとって「権力への接近はむしろ警戒すべきことであった」、夢二の「民衆を、主体性を持った存在として考えるべきだという方向」、夢二が自分自身とは異なる「帝国意識にとらわれた民衆の姿」をみつめていたことなど、帝国意識に関わる言及に、ひろたさんの問題意識を感じるのである。

また夢二の女性遍歴は、たまき、彦乃、お葉、山田順子・・・・など数多い。ひろたさんは本書の課題として夢二の女性観を挙げているが、それに対する明確な記述をしていない。 私は夢二の女性観をこう捉えた。「夢二にとって、女性は憧憬(あこがれ)の対象である。憧憬する女性を、夢二は個々具体的に存在する女性の遙か向こうに求めていた。放蕩の画家という評価があるが、夢二にとって女性は母であり、姉であり、自分自身を慈しみ包んでくれる存在であった。そういう存在としての女性を希求し続けた。だから、女性の一挙手一投足によって夢二の心は揺れ動く。男女関係において夢二は主体ではなく、客体であった。家父長制度(それは男性による女性への権力行使である)に縛られることなく生活を共にした。別れた女性たちは、夢二を怨むことなく生きた。また、近代日本国家において差別される女性への共感をもって、女性を画き続けた。」と。

ひろたさんからの2019年5月19日付のはがきに、「あなたの夢二論と照らし合わせたいと思っています。・・・・あと5年は、あなたと会話したいものです。」とあったことから、私の夢二論をいくつか提示した。

今はただ、ひろたまさきさんのご冥福を祈るのみである。(2023年6月25日記)

(『異国の夢二』講談社選書メチエ、2023年6月、2200円+税)

 

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『夢二を変えた女 笠井彦乃』(論創社)

2023-12-08 21:27:47 | 

 かつて「夢二とその時代」というテーマで話したことがあった。夢二の日記や書簡などできるだけ資料を入手して夢二の一生とその時代を語った。

 夢二は多くの女性と関わった。そのなかでも、年若い笠井彦乃を、夢二はもっとも愛したことは日記などで明らかであった。もちろんそれは指摘した。

 しかしそのテーマで話すのは時間が足りなかったと思う。テーマにあるように、夢二が彼が生きた時代とどう関わったのかを主に話したので、女性関係については詳しくは語らなかった。

 知人からこの本を教えられ、古書店から購入して読みふけった。夢二と彦乃との強い結びつきを、具体的に知ることになった。強い結びつきであったが、その関係は、彦乃が数え年25で結核に冒されて亡くなることによって終わったのだが、しかし夢二は、彦乃に対する愛情を捨てることなく、最期まで持ち続けた。

 夢二の多くの女性関係から「女たらし」のように非難するひともいるが、しかしこの本を読んでからは、おそらく非難できなくなるだろう。彦乃も、夢二も、真剣だった。ただ、夢二が長じても大人になりきれなかった「少年」だったこと、それ故の、すべき時にすべきことを為さなかったことから、悲劇は生まれた。

 私は、歴史講座の直前、結核となった夢二が息を引き取った高原療養所(今はJAの病院になっている)を訪れた。長野県富士見町、途中、甲斐駒や八ヶ岳が見えた。「山」である。夢二は彦乃を「山」と呼んだこともある。

 彦乃のあと、夢二は多くの女性関係をもったが、彦乃だけが夢二の「愛(する)人」であったのだということが、この本を読んでよくわかった。その「愛」は、「黒船屋」という絵や、『山へよする』などいくつかの書籍にも記されている。

 著者は、彦乃の血縁者である。私は彦乃の日記が残されていることを全く知らなかった。夢二の日記などと対応させて、ふたりの「愛」の諸相が具体的に描かれている。夢二を知るためには不可欠の文献だと思う。

 

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【本】坂原冨美代『夢二を変えた女 笠井彦乃』(論創社)

2023-12-01 21:36:46 | その他

 2019年、某所で「竹久夢二とその時代」というテーマで話したことがある。約90分で夢二の生涯を追いながら、その時代を描くというものだ。そんな短時間で夢二を語り尽くせないことはわかっていたが、如何せん、時間はそれしかない。

 夢二が若い頃、荒畑寒村ら初期社会主義に関わった人びとと交流があったこと、関東大震災に際会し、文章とともにスケッチを新聞紙上に描いたこと、そして多くの女性との遍歴、さらに海外旅行、とりわけドイツでナチスの支配を体験したことなどを一挙に話した。

 最近、夢二のもっとも愛した彦乃の日記や手紙があり、それをもとにした本が出版されていることを教えてもらった。それがこの本である。

 彦乃と夢二の関係はこうだ。講座の際使ったスライドの一部。

 夢二が関係した女性の中でも、最愛の女性。日本橋の紙商芙蓉社笠井宗重の長女。日本女子大付属女学校出身。夢二と出会った頃は、女子美術学校日本画科の学生、「港屋絵草紙店」に通い、1915年5月夢二の「戀人」となる。しかし父親に反対され、逢うこともままならず、手紙で連絡し合った(書簡はたくさん残っている)。

1917年6月 京都で夢二、不二彦と生活するようになる。夏、三人で北陸旅行をする。

1918年3月 彦乃の父が彦乃を東京に連れ帰る。

1918年 8月、夢二、不二彦と九州、そして長崎へ。 8月下旬、彦乃も九州へ、しかし9月初め結核が重症化し別府で入院。9月末、岡山を経由して京都・東山病院に入院、父・宗重により京都府立病院に転院。夢二の面会は拒絶。夢二は11月東京へ戻る(恩地孝四郎宅→菊富士ホテル)。12月、彦乃がお茶の水順天堂病院に転院(面会謝絶)。1920年1月死亡。夢二は彦乃との日々について『山へよする』(1919年2月)を出版。

 夢二が終生離さなかったプラチナの指輪の内側には「ゆめ35  しの25」と刻まれていた。「ゆめ35」とは、彦乃に会えなくなった夢二の年齢。「しの25」は彦乃が亡くなった年齢。

 このレジメをつくったときには、彦乃の日記や手紙が残されているのを知らなかった。本書は、夢二の日記や書簡(これは書籍化されている)だけではなく、彦乃のそれをつかっているので、ふたりの関係がきわめて具体的である。

 まだ最後まで読んではいないが、すでに30歳になっているのに、少年のような夢二と若いのにとてもしっかりしている彦乃、ふたりの愛の駆け引き、これは瀬戸内寂聴がいう「(愛の)雷に打たれた」ことのない人には理解しがたいだろうが、私にはそれがよくわかる。雷に打たれて始まる愛であっても、双方の駆け引きのなかでそれはより深まっていくのだ。

 この頃、夢二はたまきと別れているが、子どもが三人いる。彦乃との生活をこころから望むが、お互いの事情で順調には進まない。大きな障害がたちはだかっている。それがこの本に具体的に描かれている。

 夢二は、彦乃と海外に行こうと提案する。彦乃が亡くなった後、夢二はハワイ、アメリカ西海岸を経由してヨーロッパにいく、そして晩年台湾にも行く。夢二の海外への旅にふみきった理由には、彦乃と語り合ったこともあったのかもしれない。

 夢二を理解するためには必要な文献であった。この本は2016年に出版されている、知らなかった。

 

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のしあがっていく男たち

2023-07-30 22:49:42 | 社会

 ホモソーシャルの世界で、男たちが競争を繰り広げている。男たちの世界、その世界は狭くて小さなものもあれば、全国をまたにかけるスケールのものもあるだろう。その競争のなかで獲得するものは、カネ、地位、名誉、そして女である。そこには「俺ってスゴイだろう!」という自己満足がある。

 ふつうに生きていくだけで、男たちはそうした世界を垣間見る。あるいは多かれ少なかれその当事者の立場に立たされる。しかしそうしたものに価値を見出さずに生きていく者がいる。竹久夢二がその一人だ。彼はそうした競争から最初から降りている。男たちの競争する姿を見ながら、自分勝手に、自分が生きたいように生きていく。

 しかしそういう人物は少ない。男たちの、ホモソーシャルの世界での承認欲求はなかなか強いからだ。降りてしまえばラクなのに。

 さてホモソーシャルの世界では、人間の醜さが露呈される。カネ、地位、名誉を求め、あらゆる手法を駆使するのだ。そしてそれは一般社会に悪影響を及ぼす。国家や地方の財政を食い物にして、醜く成長していくのだ。

「薬の認可は政治力のおかげ?」「安倍政権に救われた」「開発失敗しても75億円返さなくていい」…大阪万博を仕切る教授が操る「国民もビックリするしかない国のデタラメなカラクリ」

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【本】ひろたまさき『異国の夢二』(講談社)

2023-06-15 16:17:15 | 

 ひろたまさきさんは、2020年6月17日に亡くなられた。ひろたさんとは、メールや手紙をやりとりしていたが、この頃は止んでいた。手紙は、ワープロで印刷したものもあったが、ほとんどは絵ハガキに、そこには小さな字がいっぱい書かれていた。端正な字であった。

 ひろたさんが肺がんであることは聞いていたし、治療に励んでいたことも知っていた。そして長年に亘って研究していた竹久夢二を何とか完成させようとされていた。夢二に関する文章を何度かもらっていたし、私自身も夢二の絵が好きだったし、ちょうど某所での講座で何か話さなければならなかった時だったので、「竹久夢二ー~生の軌跡」をテーマに掲げた。2018年であった。

 私が、夢二の足跡をたどって、夢二が亡くなった信州の高原日光療養所跡(現在はJAの病院になっている)にいったことを報告すると、ひろたさんは私も行きたかった、というハガキをもらったこともある。

 夢二が書いたものをすべて集め、関連文献を渉猟してまとめたものを講座で発表し、私自身の夢二の見方をひろたさんに送ったこともある。

 ひろたさんの夢二研究にかける情熱を知っていた私は、ひろたさんが亡くなられた報せをうけ、夢二研究はどうなるのだろうかと心配していた。ひろたさんは、亡くなられる前、もう八割は完成していると言っていた。

 ひろたさんの夢二研究は、高木博志さんらの手で整理され、本になった。嬉しい限りである。ひろたさんも天国でさぞ喜ばれていることであろう。まさに「遺著」である。

 ひろたさんには、私が書いたものも送っていた。送るたびにきちんと読んでくださって、何らかの批評をいただいた。それが楽しみで書き綴っていた。

 しかし、ひろたさんが亡くなられてからは、書く意欲が私のなかから消えていった。私が教えを受け、親しくしていただいた方々が、次々と物故され、私だけが取り残されたような、そんな気がしている。

 今日、恵贈されたこの本を、さっそく読もうと思う。ひろたさんとは、1997年頃からのつきあいであった。たくさんの本をいただいた。ひろたさんには、感謝しかない。

 

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【本】島崎翁助『島崎翁助自伝』(平凡社)

2023-05-03 09:15:44 | 

 島崎翁助は島崎藤村の三男。職業は画家で良いのだろうか。文を読むと、なかなか名文家でもある。藤村の子どもだけのことはある。

 蓊助は、10代の終わり頃からプロレタリア美術運動に関わり、21歳のとき(1929年)ドイツに渡り、ベルリン在住の日本人左翼グループら(国崎定洞、鈴木東民、千田是也、労働法学者の野村平爾など)と交流し、1933年に帰国する。

 蓊助の交遊した人には、辻まこと(辻潤、野枝の長男)、竹久夢二の息子・不二彦もいる。

 あまり知られていないけれども、藤村の関係者で社会運動に関わったのは、藤村の姪・島崎こま子と、この蓊助である。それぞれドラマティックな人生を送っている。こうした人物の生の軌跡を追うのもおもしろい。

 

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【本】袖井林二郎『夢二 異国への旅』(ミネルヴァ書房)

2020-10-06 13:43:49 | 

 昨年「夢二とその時代」というテーマで、話した。その際にたくさんの文献を集め、また日記や書簡などもすべて読んだ。ただ、藤林伸治氏が収集した資料(法政大学大原社会問題研究所所蔵)だけは見なかった。

 それが気がかりとなっていたのだが、見なくてもよかったのかもしれないとこの本を読んで思った。その理由は後述する。

 さてこの本の前身は集英社文庫となっている『夢二のアメリカ』で、それをもとに、その後の調査の結果を入れて書き直したものだと思われる。『夢二のアメリカ』は読んだ。この本が刊行されていることはわかってはいたが、図書館にもなく、『夢二のアメリカ』を読めばよいだろうと思い、買わなかった。買わなくてよかった。なぜなら本のヤマを崩していたら、この本が出て来たからだ。2012年刊行だから、その時に買っていたようだ。付箋が貼ってあるので、購入したとき一度は読んでいるのだろうが、まったく記憶になかった。歳をとるということはこういうことだ。

 読んでみて、私が口述したことに付け加えることはなかった。

 また藤林氏が夢二の足跡をたどる中で、夢二が在欧中にユダヤ人救出に従事したという「事実」を発見したということが、加藤哲郎氏のHPに記述されていた。私もそうした事実があったかどうかを探ったが、夢二はそこまではしなかったという結論に至っていた。証拠がないからだ。伝聞はある。しかし直接的な証拠がない。だとすれば、歴史を研究する者の端くれとして、夢二のユダヤ人救出は、そういう話しがある、というだけで留めておいた。

 この本を読んでいて、本書もそれはなかったのではないかという結論のようだ。あった、という証拠がないのである。そういう場合は、そういう話はあるが、確認が取れないので、私は否定的だというしかない。袖井も歴史家であり、そうした姿勢を堅持している。

 本書は、竹久夢二をまじめに研究しようとする人は読んだ方がよいが、そうでなければ読まなくてもよい。本書はあくまでも夢二の海外渡航に関する文献である。夢二の生涯に亘っているわけではない。

 

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2020-07-07 11:03:38 | 芥川
 熊本県の豪雨災害での「死」が報じられる。その「死」はいつも、個別的である。個が「死」を迎えるのである。

 知人の「死」の知らせを受けとって悲しみにおおわれても、しかしその悲しみはずっと続くわけではなく、悲しみを感じる時は、少しずつ間遠になっていく。悲しみと悲しみの間に、笑いや怒りの感情が次々と押し寄せ、悲しみがしめる時間は減っていく。

 私にとって直近の死は、歴史学者のひろたまさきさんである。ひろたさんも私も、竹久夢二を研究し、その絵を愛してもいたので、折に触れて往復する絵ハガキは夢二の絵であった。私は今でも、夢二の絵ハガキをたくさん持っている。しかしその絵ハガキは行くところを失っている。
 私は時に、某美術館で購入した線香立てで、ひろたさんに向けて線香を焚く。

 「死」は永遠の別離である、もう二度と会えないという究極の別れである。にもかかわらず私は、日常生活のなかでひろたさんの「死」をほとんど意識しない。「死」は個別的であり、その他の生きている者は、そのまま生きることを続ける。

 個別の「死」は、そのまわりの者に、様々な感慨を生み出す。

 芥川の「枯野抄」は、松尾芭蕉の「死」の際、まわりにいた弟子たちの心境を芥川なりに綴ったものである。
 先ず読みはじめて、その文に感嘆した。これが最初の文である。

元禄七年十月十二日の午後である。一しきり赤々と朝焼けた空は、又昨日のように時雨れるかと、大阪商人の寝起の眼を、遠い瓦屋根の向うに誘ったが、幸、葉をふるった柳の梢を、煙らせる程の雨もなく、やがて曇りながらもうす明い、もの静な冬の絵になった。立ちならんだ町家の間を、流れるともなく流れる川の水さえ、今日はぼんやりと光沢(つや)を消して、その水に浮く葱(ねぶか)の屑も、気のせいか青い色が冷たくない。・・・・

 そして断末魔にある芭蕉のまわりの弟子たちの心の微少な動きを、芥川は綴る。静謐のなかのこころの動き、動揺は、ある必然性をもったものとして描かれていく。丈艸の場合ー

 ・・・最後に今日は、たった今まで、刻々臨終に近づいて行く師匠を、どこかその経過に興味でもあるような、観察的な目で眺めていた。もう一歩進めて皮肉に考えれば、事によるとその眺め方の背後には、他日自分の筆によって書かるべき終焉記の一節さえ、予想されていなかったとは云えない。して見れば師匠の命終に侍しながら、自分の頭を支配しているものは、他門への名聞、門弟たちの利害、或は又自分一身の興味打算ー皆直接垂死の師匠とは、関係のない事ばかりである。だから師匠はやはり発句の中で、屢予想を逞しくした通り、限りない人生の枯野の中で、野ざらしになったと云って差支えない。自分たち門弟は皆師匠の最後を悼まずに、師匠を失った自分たち自身を悼んでいる。枯野に窮死した先達を歎かずに.薄暮に先達を失った自分たち自身を歎いている。が、それを道徳的に非難して見た所で、本来薄情に出来上がった自分たち人間をどうしよう。ー

 芭蕉は、こうして弟子たちに囲まれながら、「常住涅槃の宝土」に旅立っていったのである。
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訃報

2020-06-25 15:37:24 | 日記
 今日、訃報が届いた。歴史学者のひろたまさきさんが亡くなられた。6月17日に息を引き取ったという。

 ひろたさんは、近代に於ける被差別への差別を、封建社会の遺制ではなく、近代の差別なのだということを、岩波書店の『差別の諸相』で明らかにした。また福沢諭吉の研究が有名である。それ以外にも多岐にわたる研究があるが、近年は竹久夢二論をまとめようとしていた(それは未完に終わってしまった)。
 私も昨年、「竹久夢二とその時代」をテーマに話したこともあり、夢二について手紙でひろたさんと何度も往復していた。

 ひろたさんは温厚で、そしてとても謙虚で、やさしい方であった。学問をする者は、こうでなければならないという模範のような人であった。

 ひろたさんとは、20年以上前からのお付き合いである。静岡大学情報学部にいた田村貞雄さんが、ひろたさんに集中講義を依頼したとき、田村さんからひろたさんを紹介していただいた。浜松に滞在中、二晩ほどご一緒した。

 歴史を学びはじめた頃から読んできた歴史書の著者が次々と亡くなっていく。金沢史男さん、海野福寿さん、金原左門さん、原口清さん・・・・これらの人々から受けた学恩は計り知れない。

 今また、ひろたさんと永遠の別れをしなければならない。歴史研究について心からの信頼をもって話し合う人はいなくなった。寂しい限りだ。

 ひろたさんからいただいた本を、もう一度読み直して、勉強させていただこうと思う。 
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並行して

2020-01-10 21:58:05 | 読書
 私は、芥川龍之介全集を持っている。その表紙は、浜松にあった今枝染工が染めたものだ。今、今枝染工の跡地はパチンコ屋になっている。

 私はその全集を読みはじめようとしている。その理由の一つは、最近某所で石川啄木や小林多喜二、竹久夢二らのことを「〇〇〇〇とその時代」と題して話をしている。それぞれが生きた時代を、彼らの生の軌跡をたどりながら浮き彫りにしていくという手法である。
 その聴講者から、芥川を扱って欲しいと言われた。はたしてできるかどうかを確かめるべく、岩波文庫の『芥川追想』を読んでいる。言うまでもなく、芥川と交流があった人々が芥川龍之介という作家・人間を追想しているのだが、これがなかなか面白い。

 芥川ほどの作家となると、芥川のなかに、捉えることができないほどの広大無辺の精神世界がある。その精神世界を、また同じように作家活動をしている人たちが語るのだ。収載されている文を読み続けると、日本にはものすごい精神世界の蓄積があることに気付く。

 『東京新聞』で、田中優子法政大学総長がコラムを書いている。楽しみに読んでいるが、江戸時代の文学などを主に研究している田中氏が、近世文学というか江戸学という方が正確だと思うが、その世界を少しずつ教えてくれる。近世にも、精神世界を書きつけたものがたくさん残っている。

 日本に生まれてきて、そうした蓄積された精神世界を知らずしてあの世に去っていくのは、あまりに惜しいと思う。

 学問研究でもそうだが、今の日本人は蓄積されてきた文化とか文学など、「良きもの」とあまりに疎遠になっていると思う。

 私は、いくつか並行して仕事をしているが、もうひとつは関東大震災における軍隊、警察、民衆の蛮行の背景に何があったのかを考えている。その作業の一つとして大江志乃夫さんが書いた『戒厳令』(岩波新書)を読んだが、まったく素晴らしい内容であった。大江さんらしく緻密でねちっこい研究成果である。大江さんはすでに亡くなられたが、大江さんの研究はすべて参照されるべき業績となっている。

 あらゆる分野で、多くの人たちが「良きもの」を著し、それらが蓄積されている。

 それらをあとどのくらい自分のものにすることができるだろうか。芥川がいう“孤独地獄”にはいり込まないとなかなか進まない。
 私は「良きもの」をできるだけ摂取したいと思うのだが、アベ政権の恣意的で暴力的な施策がそれを邪魔する。

 静かな晴耕雨読の生活、そして時々その成果を語るという生活に入りたい。
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伊藤道郎、千田是也の母

2019-06-30 07:15:01 | その他
 竹久夢二と関わった人びとをまとめている。昨日はアメリカで遭遇した人々について調べた。
 夢二は晩年、アメリカ、ヨーロッパに旅行した。ハワイからサンフランシスコへと向かう船の中で、夢二は国際的なダンサーの伊藤道郎、映画俳優の早川雪洲、尾崎行雄夫人セオドーラと一緒になった。
 夢二は、ロサンゼルス付近でしばらく過ごし、その後ヨーロッパに向かうが、伊藤とは現地で交流している。伊藤はバークレーに舞踊学校をもっていた。

 さてその伊藤であるが、その母は喜美栄という。旧姓は飯島である。父は、井上浜松藩の郡奉行飯島新三郎である。演出家の千田是也(劇団俳優座の代表を長く務めた。本名は伊藤圀夫)は、兄・道郎について書いた文のなかで、飯島新三郎を「浜松藩の家老であった」と記しているが、それは間違いである。
 なお喜美栄の兄は、飯島魁(いさお)で、寄生虫学の祖といわれる理学博士である。
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【本】和田登『唄の旅人 中山晋平』(岩波書店)

2019-06-28 11:41:21 | その他
 島村抱月の「復活」、その劇中歌「カチューシャの唄」を歌ったのは、松井須磨子である。作曲は、中山晋平であった。そしてその楽譜の装幀を担当したのが、竹久夢二である。中山晋平と竹久夢二との交遊を調べようと、この本を借りて読んだ。昨日借り出して、今読み終えた。

 夢二への言及はほとんどないが、しかしこの本で中山晋平という作曲家の全体像を知ることができた。とても才能のある、魅力的な人物であった。彼が作曲した楽曲をみていくと、あるいは聞いてみると、幼い頃に聞き知ったものが多いことに気付いた。

 日本の音楽史、歌謡曲や童謡の歴史について私は全く無知であったが、中山晋平の人生と彼を取り巻くその世界が、時代状況を踏まえて興味深く描かれていた。私の知識の世界が大きく広がった。著者に感謝である。

 夢二の資料集めにはならなかったが、とても面白く、250頁余の本だがさっと読める。文章がいいからでもあるが、晋平とその世界に関わる資料を渉猟し、それを背景に描いているので、内容もとてもよかった。

 
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