浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

『私たちの近現代史』を読む

2024-05-01 17:18:22 | 

 朴慶南・村山由佳『私たちの近現代史』(集英社新書)を読んで、これはと思うところを書き留めておきたい。

 私の差別論については、このブログで何度か書いてきている。差別的な感情は、日々生成しまた消失している。たとえば高齢者のマークがついた自動車がウィンカーも出さずに右折したりすると、そこには老いたる者への差別的な感情が生まれるが。しかしそれはすぐに消えてしまう。生きて行くということは、こうした差別的な感情が生成し消滅していくというサイクルを何度も経験するということだ。

 そしてそうした差別的感情は「いけないもの」だという認識を持っていることも確かである。

 ところがこの世の中に、そうした個別的な差別的感情ではなく、悪意を持った差別、社会的に流布している差別がある。在日コリアンはじめ外国人に対する差別などがその典型であるが、私のその背後に国家権力による差別的な政治がある、つまり政治権力が公認しているが故に、公然と差別を声高に叫ぶ人びとが出現する。国家によるお墨付きが彼らの劣情を増進させる。

 だから私は、差別をなくすためには、まずもって「公的権力」による差別をなくさなくてはならないと考えている。

 村山由佳も、同じ考えであることがわかる。

民における従来の差別感情を、官による公的なお墨付きが後押しし、火に油を注いだ形になる。国の施策がそうだったから、一般の日本人がそれに乗っかって虐殺にまで至ってしまった。歯止めになるものは何一つなかった(75)

 これは関東大震災における朝鮮人虐殺について言及した発言であるが、その通りだと思う。公権力は朝鮮人を公然と差別し、また新聞メディアもそれにのって差別的な記事をばらまいていた。

 村山由佳は『風よ あらしよ』で、伊藤野枝を描いた。当然大杉栄をも描かざるを得ないのだが、大杉についてこう語っている。

 私は大杉はダメな男だと思うんです。彼が標榜した自由恋愛なんか、互いに自立するだの束縛しないだなんて偉そうなこと言ってますけど、結局のところ男に都合のいいことばかりなんですよね。観念や理屈が先に立って、女性の気持ちや女ならではの生きづらさについては全然分かっていない。(119)

 まったく同感である。私は大杉栄論で、この点を批判しないものはそれだけでダメだと思う。栗原康のそれは、その点でダメだと思う。だけどなぜかその本が売れたのだという。

 大杉が野枝との共同生活に入ってから、大杉はそういうことを言わなくなったから、大杉はその理屈が間違っていたことを生き方で示したのだと思っている。

 村山の野枝論は、朴が「生理感覚から野枝に入って行ったところがこの傑作を生んだ」(133)と指摘しているが、私もそのように思い、別項で書いたことがある。

 村山は『風よ あらしよ』を書いてこう語る。

『風よ あらしよ』は企画からいろいろな文献をあたって、連載の準備をして、連載して本になってというふうに足かけ四年以上かけているんですけれど、その間にも、この国が100年前のあの状況にどんどん近づいてきているという実感が迫っていたんです。自分が書いている暴力的な時代に、今の世の中が近づいていることが怖くて。このままいったら100年前と同じようなことが起こるんじゃないか。軍事独裁だ、警察国家だというのを私たちは過去のことだと思っているかもしれないけれど、もっと柔らかい膜にくるまれてはいるものの、本質的には今も同じような形で支配されているんじゃないか。見えないようにされている分だけ、むしろ罪深いんじゃないか。(127)

 この現代認識も首肯する。

 また、「今の時代の潮流を見極めるにはやはり歴史から学ぶことが一番大事だ」(156)という指摘にも同意する。

そして「アジアを見下ろす優越感は、アメリカへの劣等感と裏表ではないでしょうか」(235)という指摘にも。この人間観は、日本の官僚やおおかたの保守的な政治家も共有しているものだ。アジア人やアフリカ人、そして南米など、昔言われた「第三世界」の国や人びとを蔑視して、白人を崇める気風、それはメディアにも強固にはびこるものだ。

 村山の作品は、『風よ あらしよ』しか読んだことはないが、今後時間があったら読んでみようと思う。文学もとても大切だからだ。朴が青春期に読んだ本を列挙している個所がある(216~7)が、彼女の読書体験はまさに私自身のそれでもある。

 しかし今、学校教育から文学が消し去られようとしている。村山はそれに警鐘を鳴らしている。

大学から文学部は消えつつある。国語の教科書でも小説や随筆の鑑賞はどんどん削られているんです。マニュアルを読むための実践的な国語力が必要とされるけど、味わうことそのものが目的の文学に関しては、その道に専門的に進むことが前提でない限りは触れることが少なくなっています。でも、特に若いうちに文学に触れておかないと、想像力とか判断力とか洞察力とか、何を信じて何を疑うべきとか、そういった大切なことを見極める目が磨かれないと思います。ほかにそういうことを磨いてくれる学問ってないじゃないですか。(239)

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