浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

『逍遥通信』第九号(4)「なまこ山」

2024-06-18 20:53:52 | 

 本号で、もっとも多くのページ数をつかっている小説、編集発行人・澤田展人の作品である。

 まずはじめに断っておくが、私には小説作品の良し悪しはわからない。若い頃は別にして、文学作品を歴史研究の素材としてみる習性ができているからだ。芥川龍之介や石川啄木の全集をすべて読んだことがあるが、それは「芥川龍之介とその時代」、「石川啄木とその時代」というそれぞれの作家が生きた時代を作品を通して見つめるという手法で読んだのであって、文学作品を文学作品としてみることはしたことがない。それを前提にして、この小説について紹介していく。

 この小説、ある種の教養小説であるとみた。

 主人公のクニヒトは、公務員。30代後半でバツイチ子ども一人の女性ヒサエを好きになって結婚した。子どもの名は、ミキである。この二人を中心に話は展開される。脇役は、ミキの母であり、トーキョーでミキを右翼団体に引き入れたクラシゲであり、ミキがそこで苦しんでいるときに助け出した在日コリアンのリョウタであり、またヒサエの死後、クニヒトがつきあいだしたユリコである。

 もちろん小説だからフィクションである。フィクションの中にどれほどリアリティがあるのかが小説のカギともなるようで、そのリアリティは、主人公らが生きる周囲、或いは心理分析などに現れる。

 クニヒトが30代後半にアタックしたヒサエは、ダンスのインストラクターで当該市の文化事業のコーディネーターを務めるほどの、ある意味目立った女性であった。それに引き換え、クニヒトは「無名の冴えない公務員」であった。そのクニヒトが、ヒサエにアタックする際の武器は、「心の広さと誠実さ、そして犠牲的精神」であった。おそらく「無名の冴えない公務員」にとって、それしか武器はないだろう。ここにリアリティを、私は感じた。

 ヒサエ、ミキと同居をはじめてはみたが、ミキとクニヒトとの関係はギクシャクしていた。子どもにとって、実の父でない男が母と結婚するのであるから、関係がギクシャクするのはやむをえないだろう。これがミキがクニヒトの家を逃げるまで続く。ミキは一貫してクニヒトに心を開かない。そのうち、ヒサエが進行性のガンで亡くなってしまう。おそらくミキが中学3年の頃だろう。ミキが行きたかった高校ではない他の高校の合格発表の10日ほど後に、ヒサエが息を引き取ったからだ。

 ミキは、高校になじめず、髪を染め反抗的な行動をとるようになった。クニヒトはミキの行動を制御することは出来ない。そんなミキへの忠告を、クニヒトは一般的なことばをつかってしか行えない。ミキのこころに食い込むようなものではなかった。クニヒトが好きになったヒサエについてきた少女である。他者、なのだ。ちなみに、ミキはクニヒトを「オジ」と呼ぶ。ミキにとっても、クニヒトは他者なのだ。

 最近も、男をだましてカネを巻き上げる「いただき女子」は、だます対象としての男を「オジ」と呼んでいた。「オジ」は父でもなく、また本当の叔父でもない、まったくの他者なのである。

 他者同士であるクニヒトとミキが、「家族」として生活している、というわけだ。外見からは「家族」ではあるけれども、しかし真の意味での「家族」ではない。

 ここにも私はリアリティを感じた。自分の子どもではない他者、しかし保護下にある他者としての子どもに注意を与えなければならない、ではどんなことばをつかえばよいのか。クニヒトも、ミキのこころに踏み込むことはしないし、ミキも反抗的な姿勢を崩さない。破綻しかない。

 ミキは家を出る。そして高校を辞めて、児童自立ホームの施設に入る。通信教育の過程を卒業したミキはトーキョーに行ってしまう。クニヒトには事後報告があったのみで、そのためミキは遠い存在になった。遠い存在になった、ということは、責任を負う必要はなくなったということで、おそらくクニヒトはホッとしたであろう。

 トーキョーで、ミキはアルバイトをしながら演劇活動に入る。しかしうまくいかない、そんなとき右翼レイシストの行動をみ、そこに入り込み、はじめてそこでみずからの居場所を発見する(その後そこが偽りの居場所であったことがわかるのだが)。ここの個所は、雨宮処凛さんの体験と重なる。

 右翼活動のなかで、そこにあるウソに気づいたとき、ミキは右翼団体のメンバーから暴行され、排除される。そのミキを助けたのが、リョウタであった。

 そのような生き方を経て、ミキはクニヒトのところに帰って来た。ミキは妊娠していた。しかし、ミキはかつてのミキではなかった。ひたすら反抗するような女性ではなく、あたらしい命を生みだすひとりの女性として帰ってきた。そのミキと話す中で、クニヒトも「ミキとの間にあった障壁は、臆病な自分がつくりだした幻だったのか」と思う。

 しばらくミキはクニヒトのところで暮らす。クニヒトがつきあっているユリコも、ミキの母としての出発を手助けする、というところで、話は終わる。

 人間関係は難しい。他者を前にして、どのような関係を結ぶことが出来るか、それぞれが様々に試しながら近づいていく、あるいは離れていく。そうした人間関係を、クニヒトとミキとが演じたのである。そしてそれぞれが別の人生を生き、いろいろな葛藤を経ることによって、それぞれを、また自分自身を理解できるようになる。

 この小説は、そうしたテーマをもったものではないかと思った。

 ひとつ、ミキがクニヒトに、トーキョーでの悲惨な体験を語っているとき、クニヒトはミキの語りの応答として「ひどい話だ」「かわいそうなミキ」という、軽薄なことばで応じる。これには異和感を持った。ここは沈黙でも良かった、ただ聞いているだけでよかったのではないか。

 

 

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