寺崎八十四石米

地産地消に向け、美味いと評判を呼んだ地元の米を「八十四石」の名とともに蘇らせるため、見える米づくりを紹介していきます。

八十四石にまつわる「力石」

2021-11-04 11:06:04 | 地元紹介

こちらは密蔵院境内の高台にある佐倉市指定文化財「密蔵院薬師堂」です。
よく見ると基礎の部分は石、このころの建築物は基礎石の上に建てられています。近年、損傷箇所が増えたこともあり、まもなく修繕が開始される予定です。


そして薬師堂向かって左側の一角には、このような基礎石「力石」が保存されています。
力石といえば、江戸時代に鍛錬や力試しとして広まったそうで、全国各地に存在しています。


実は、過去のブログ投稿の “「八十四石」(はちじゅうしこく)とは” は、この「力石の由来」から一部を引用させてもらいました。

この原文中、

“八十四石とは藩主に献上する年貢米の数量で、この米を生産する水田地帯の呼び名ともなっておりました。
当時、米は一俵当たり正味四斗で、十八貫目(六十七、五kg)の重量でした。
年貢米八十四石(二百十俵)は名主が力のある若者を雇い、肩に担いで土蔵に納められました。
従って米一俵を楽々と担げなければ一人前の百姓として扱われません”

とあります。

当時の村長は、年貢を納めるためには体力作りが必要と、俵担ぎや相撲の大会を催行して体力増強を奨励したのですが、米は大変貴重だったたこともあり、俵に代えてこの「力石」が使われるようになったのです。
かつてこの場所には、土俵があり昭和50年ころまで、毎年子供たちによる相撲大会が行われていました。

さらにその前段では、“水田地帯の呼び名ともなっておりました” とあります。この度あるお宅から、それを裏付ける資料(地図)を提供していただきました。
歴史を感じるこの地図、タイトルは、「千葉県根郷村全図」となっています。
明治22年、ここ寺崎村は他の町や村と合併して根郷村となりました。さらに明治27年に開業した総武鉄道(現JR総武本線)が載っています。その後このルートは、昭和43年に完成した寺崎トンネルを通る現在のルートへと変更されたのでした。

赤い丸をアップにしたのがこちらですが、このころの水田の形は整っておらず複雑な形をしていました。
その中に「八拾四石(はちじゅうしこく)」の地名が記載されています。当時の「じゅう」は「拾」が使われていました。

その後昭和29年、佐倉市が誕生したころ八十四石の水田は耕地整理によって、現在の整った形になり八拾四石の地名は消えたのでした。
この地図ですが、昭和初期ころに作られたものと思われます。

ちなみに耕地整理が完了した後の昭和43年には、下図のようになったのです。