御油から吉田へ(その二)
平成の弥次さん北さんは 吉田を目指して歩き続ける。
「夢とても よしや吉田の 里ならむ さめてうつつも うき旅の空 (小堀 宗甫)」
(尻毛) 「向こうに 見える川は いよいよ 豊川ですね。」
(こもよ) 「正しくは 豊川放水路です。豊川は信州の源を発する大きな川です。
下流の水害を防ぐために昭和43年5月完成しました。」
(尻毛) 「弥次・北の時代にはないのですね。」
(こもよ) 「いつから 吉田が豊橋になったのか わかりませんね。」
(尻毛) 「拙者は若い頃から吉田と豊橋は別々だと思いました。
年を重ねて、関係は深いと思いましたが、・・・」
(こもよ) 「実は同じ町でした。しかし いつから名前が豊橋になったかは・・・」
(拙者) 「・・・なったかは知りませんか?。拙者が調べてみます。
昔は ここから お城が良く見えたはずですよ。」
(こもよ) 「ビル群に隠れて よく見えませんね。
お昼はどうしますか。吉田名物の菜めし田楽か 豊橋名物のカレーうどんか」
(拙者) 「迷いますね。うん~。
名前が良いから 菜めし田楽に決まりです。」
平成の弥次さん北さんは 田楽を右手に持ち そのまま口に頬張る。
素朴な味である。
(こもよ) 「助左衛門さん。頬に味噌が付いていますよ。」
(拙者) 「何と・・・拙者ともあろう者が良い年をして。しかし美味いですな。」
「串食べて 頬の味噌取る 忙しや 梅丸」
(こもよ) 「食べるのが 早いですな。」
(拙者) 「う~ん。なんですか、この案内は。」
「田楽の食べ方・・・箸で田楽を手元に少し寄せると取りやすくなります。
そして 菜めしの上に 田楽を乗せてから ご賞味ください。」
「上品な食べ方ですね。店員は早く言って欲しいです。知りませんでした。」
拙者は早食いである。よく見ると周りのお客様は慣れた手つきで、田楽を串から抜き取り菜めしの上にのせて、食べていた。
しかし拙者は思う。・・・ 田楽はみたらし団子のように 豪快に串から団子を食いちぎる方が、美味しい食べ方と思う。田楽は串と味噌と豆腐の三重奏。少し焦げた焼き味噌の香りがたまらない。ごはんに乗せて改めて食べると味は半減する。頬に味噌が付いたら、相手の娘が指で味噌を取り、そのまま、娘の自分の口へ入れる。これが、江戸下町の粋な二人の食べ方である。
(一口メモ) 吉田大橋の起源は不明だが、1570年(元亀元年)酒井忠次が関屋口から下地へ土橋をかけたのが、始まりのようです。1617年(元和3年)から1869年(明治2)までに30数回の架け替えが行われていた。吉田大橋は、橋のうえで吉田城が見られるから、東海道の名所になっていた。吉田大橋は1878年「豊橋(とよばし)」と命名された。1916年にはアーチ形の鉄のトラスト橋になり、豊橋のシンボルとなった。1986年自動車時代を反映して現在の橋になっている。
(別のメモ) 明治新政府は当時の三河国吉田藩の藩名が伊予国吉田藩と似て紛らわしいということで藩名変更の名を下した。それを受けて藩主は「豊橋 関屋 今橋」の3つの名を選んだ。新政府はその一番の名前を採用して 「豊橋藩」とすることを命じた。
(他方のメモ) 伊予吉田藩は明治4年の廃藩置県により「吉田藩」はそのまま「吉田県」となる。しかし同年10月旧宇和島県ほかと合併し宇和島県に名を変えています。そして神山県となり、今は愛媛県に編入されました。
参考:愛知県の歴史散歩 山川出版社 愛知県高等学校郷土史研究会編