B級会社員のOFF日記(現在無職です)

尻毛助左衛門と尻毛又丸の珍道中の日記を公開しています。

定年サラリーマンのOFF日記もあります。

沙本毗売(さほびめ)の話(下)・・・そのいろ妹(も)亦従ひたまひき

2017-11-15 21:13:52 | 紳士・淑女の昔物語

沙本毗売の話(下)・・・そのいろ妹(も)亦従ひたまひき

 

天皇は子供まで孕んでいることを哀れに思われて わざとこの軍隊を回り道をさせて、急いで攻撃させなかった。

 

こうしているうちに 皇后には皇子が生まれました。

 

皇后は城の外にだして、使者に

「この御子を天皇の御子とお思いになったら、育ててください。」

と申しあげさせた。

 

天皇は「私は その兄を怨んでいるが、妻の皇后は愛しいと思っている。」

とおっしゃった。

天皇は大勢の軍隊の中から 力が強く 敏捷な者を選んで 皇后と御子を助け出すように命じになった。

ところが 皇后の方は 天皇の御心をお知りになっていた。

皇后は髪の毛を切って その切った髪の毛で頭を覆いになった。

また玉をつないだ紐を腐らせ それを三重に手にまいた。

そして 酒で着物を腐らせておいた。

屈強の者達は 皇后より御子を受け取ると 母である皇后も捕まえようとした。

しかし 髪を握ると髪はぼろぼろと落ち、玉の紐は切れ 着物はすぐに切れて 皇后を助け出すことはできなかった。

 

こうして 戦いの末 兄と妹はなくなった。

御子は本牟智和気(ほみちのわけ)と名付けられ、成人するまで話すことはできなかった。

啞の皇子と言われている。

参考:梅原 猛 古事記 学習研究社

 

原文では・・・

・・・「若し此の御子を 天皇の御子と思ほし看(め)さば 治め賜うべし」とまをさしめたまいき。ここに天皇 「その兄(いろせ)を怨みつれども 猶その后を愛(うつく)しむに得忍びず・・・」


沙本毗売(さおびめ)の話(上)・・・涙が落ちて、顔を濡らす

2017-11-14 00:19:03 | 紳士・淑女の昔物語

涙が落ちて、顔を濡らす

この天皇(垂仁)がサホビメを皇后になさった時、

サホビメの兄サホビコが妹に

「お前は夫と兄とどちらが好きか」と尋ねると

サホビメは「兄さんの方が好きです。」

と答えたそうだ。

 そこでサコビコは反逆を企んだ。

「お前が 本当に私が好きならば 私とお前とで天下を治めようじゃないか。」

小刀を渡して「この小刀で天皇の首を刺し殺してくれ。」

 

 天皇はつゆ知らず、皇后の膝を枕にして、休んでいた。

そこで皇后は小刀で天皇を刺そうとして、三度まで小刀を

振り上げたが、愛しい心に耐えかねて、首をさすことはできなかった。

皇后の泣きなさった涙は溢れ落ち、天皇のお顔を濡らした。

天皇は驚いて目を覚まして、皇后におっしゃった。

「私は今 妙な夢を見た。佐保から激しい雨が降ってきて 突然に私の頬を蒸らした。」

「また錦色の小さな蛇が私の首にまとわりついた。この夢は一体何の夢なのか。」

皇后は黙っているわけにもいかず、本当のことを天皇に話した。

 

「私の兄のサホビコは私に『夫と兄とどちらが好きか』と問うたのですが、面と向かって問うたので、私はやむをえず『兄さんの方が好きです。』と答えました

兄は『私とおまえで天下を治めよう。だから天皇を殺してしまえ。』と言って小刀を私に授けました。

そういうわけで 天皇の首を刺そうと、三度小刀を刺そうとしましたが、愛しい気持ちもあり、出来ませんでした。私の涙が落ちて、お顔を濡らしてしまいました。その夢はその表れでしょう。」

天皇は「危うく殺されるところであった。」とおっしゃって 

軍隊を起こし、サホビコを討とうとなさった。

 

サホビコは城を築き 天皇を迎え討つ準備をする。

この時 サホビメは兄をあわれに思い 宮殿の裏門から出て 兄の城の中へ入られた。

この時 サホビメは子供を孕んでおられた。

 

原文を見ると・・・

その妹(いろえ)に問ひて

「夫(を)と兄(せ)と いづれか 愛(は)しき」と曰(い)へば

「兄ぞ愛しき」と答へ曰ひき

・・・中略・・・

その天皇の御頸(みくび)を刺さむとして

三度挙(ふ)りたまひて、悲しき情に忍びず

頸を刺すこと能わず

泣く涙 御面(みおも)に落ち溢れき

即ち 天皇驚きたまひて・・・

 

 

(続く)

 

参考:現代語訳 日本の古典 梅原 猛 学習研究社

 

 

 

 


なぐさめ峠

2017-11-09 08:37:45 | 各国の民話

なぐさめ峠

昔昔 幼くして 父母をなくした 兄妹が仲良く暮らしていました。

気立てが良く 仲良しだと 評判になり 誰もが褒めていました。

 父母がいないこともあり、年頃になっても 結婚は出来ませんでした。

ある蒸し暑い夏の日 兄妹は峠を越えて 畑に仕事に行きました。

汗を流しながら仕事を終え、昼食に食べようと帰る道すがら 峠でにわか雨にあいました。

突然の雨で 避ける人家もありません。

二人は大きな木の下で立っていましたが、

着物はびしょびしょに なってしまいました。

雨に濡れた兄弟は見られた格好ではありませんでした。

麻の着物を着ていましたが、雨に濡れた着物が肌にぴったりと くっつき

裸体が丸見えのようでありました。

 兄は妹に新たな事実を発見しました。

いままで 感じたことのないような 複雑な感情に 掻き立てられました。

雨に濡れた肌と髪の毛 丸く出ている乳房を見ると こらえきれないほどの興奮を覚えました。

しかし 兄はその気持ちを抑えねばなりません。

 雨があがると 兄は妹に 「早く家に帰れ」と言いました。

妹は自分の肌が見えるのが 恥ずかしくて 道を急ぎました。

 妹は家に帰り 着物を着換え 昼食を作りました。

しかし 兄はなかなか 帰ってきませんでした。

妹は心配になり 雨宿りをした峠へ行きました。

そこで兄は血まみれになり 死んでいました。

 兄は妹を先にやっておいて 肉親に情欲を感じて興奮したことを恥ずかしく思い

かつ すまない思いで 石を拾って 自分の性器を打ち 自殺していました。

この有様を見た妹は 「死なないで!。 死なないで、私を慰めて。」

と言いながら泣いたと言う。

こんなことがあってから村の人たちは この峠を

「なぐさめ峠」と言うようになりました。


(韓国)





夫婦と餅

2017-11-08 22:43:44 | 各国の民話

夫婦と餅

昔昔 あるところに若い夫婦が住んでいました。

ある日 隣の家からもらった餅はとても おいしい餅。

若い夫婦は餅を美味しく食べました。

瞬く間に餅はなくなり 最後の一個。

 この夫婦はどちらかが 先にしゃべった者は 餅を食べられないという賭けをした。

夫婦は口をつぐんで 賭けに入る。

話したいことがあったが、お互いにじっと我慢する。

この時泥棒が家の中に・・・。

泥棒が二人を見て 口がきけない夫婦と思った。

若い夫婦は残った最後の餅を食べるために、物を言うことを まだ我慢していた。

 泥棒は室内の金目の物をすべて包んで持ち、若い妻までを背負って行こうとした。

それでも夫は何も言おうとしなかった。

妻は怒って「この薄情者が、これでも何も言わないのか?」

と大声を張り上げた。

すると夫はその餅を口に入れながら、

「これで 餅は俺の物だ」と初めてしゃべった。

 

(韓国の民話)


御油から吉田へ(その二)

2017-11-07 01:47:23 | 旧東海道を歩く

御油から吉田へ(その二)

平成の弥次さん北さんは 吉田を目指して歩き続ける。

 

「夢とても よしや吉田の 里ならむ さめてうつつも うき旅の空 (小堀 宗甫)」

 

(尻毛) 「向こうに 見える川は いよいよ 豊川ですね。」

(こもよ) 「正しくは 豊川放水路です。豊川は信州の源を発する大きな川です。

    下流の水害を防ぐために昭和43年5月完成しました。」

(尻毛) 「弥次・北の時代にはないのですね。」

(こもよ) 「いつから 吉田が豊橋になったのか わかりませんね。」

(尻毛) 「拙者は若い頃から吉田と豊橋は別々だと思いました。

     年を重ねて、関係は深いと思いましたが、・・・」

(こもよ) 「実は同じ町でした。しかし いつから名前が豊橋になったかは・・・」

(拙者) 「・・・なったかは知りませんか?。拙者が調べてみます。

    昔は ここから お城が良く見えたはずですよ。」

(こもよ) 「ビル群に隠れて よく見えませんね。

     お昼はどうしますか。吉田名物の菜めし田楽か 豊橋名物のカレーうどんか」

(拙者) 「迷いますね。うん~。

    名前が良いから 菜めし田楽に決まりです。」

平成の弥次さん北さんは 田楽を右手に持ち そのまま口に頬張る。

素朴な味である。

(こもよ) 「助左衛門さん。頬に味噌が付いていますよ。」

(拙者) 「何と・・・拙者ともあろう者が良い年をして。しかし美味いですな。」

    「串食べて 頬の味噌取る 忙しや  梅丸」     

(こもよ) 「食べるのが 早いですな。」

(拙者) 「う~ん。なんですか、この案内は。」

    「田楽の食べ方・・・箸で田楽を手元に少し寄せると取りやすくなります。

     そして 菜めしの上に 田楽を乗せてから ご賞味ください。」

             「上品な食べ方ですね。店員は早く言って欲しいです。知りませんでした。」

拙者は早食いである。よく見ると周りのお客様は慣れた手つきで、田楽を串から抜き取り菜めしの上にのせて、食べていた。

しかし拙者は思う。・・・ 田楽はみたらし団子のように 豪快に串から団子を食いちぎる方が、美味しい食べ方と思う。田楽は串と味噌と豆腐の三重奏。少し焦げた焼き味噌の香りがたまらない。ごはんに乗せて改めて食べると味は半減する。頬に味噌が付いたら、相手の娘が指で味噌を取り、そのまま、娘の自分の口へ入れる。これが、江戸下町の粋な二人の食べ方である。

 

(一口メモ)  吉田大橋の起源は不明だが、1570年(元亀元年)酒井忠次が関屋口から下地へ土橋をかけたのが、始まりのようです。1617年(元和3年)から1869年(明治2)までに30数回の架け替えが行われていた。吉田大橋は、橋のうえで吉田城が見られるから、東海道の名所になっていた。吉田大橋は1878年「豊橋(とよし)」と命名された。1916年にはアーチ形の鉄のトラスト橋になり、豊橋のシンボルとなった。1986年自動車時代を反映して現在の橋になっている。

(別のメモ) 明治新政府は当時の三河国吉田藩の藩名が伊予国吉田藩と似て紛らわしいということで藩名変更の名を下した。それを受けて藩主は「豊橋 関屋 今橋」の3つの名を選んだ。新政府はその一番の名前を採用して 「豊橋藩」とすることを命じた。

(他方のメモ) 伊予吉田藩は明治4年の廃藩置県により「吉田藩」はそのまま「吉田県」となる。しかし同年10月旧宇和島県ほかと合併し宇和島県に名を変えています。そして神山県となり、今は愛媛県に編入されました。

 

参考:愛知県の歴史散歩 山川出版社 愛知県高等学校郷土史研究会編