B級会社員のOFF日記(現在無職です)

尻毛助左衛門と尻毛又丸の珍道中の日記を公開しています。

定年サラリーマンのOFF日記もあります。

つぼ娘・・・(恵那市)

2017-10-18 22:13:22 | 岐阜県のものがたり

つぼ娘・・・(恵那市)

昔 自分の子供には ええ着物を着せて 継子には おぞい雑巾みたいな 着物を着させていた母がいた。

ある時 お殿様のお通りがあった。

母は自分の生んだ子供に お茶を持たせてやらしたところ 何かが茶碗に ついていた。

お殿様は急に不機嫌なった。

「これは 飲むことができない。こんどは そこの娘から お茶をもらおう。」

「そのままの着物で良い。その娘から お茶を もらいたいのじゃ。」

継子は茶碗をきれいに すすいで お茶を差し上げた。

 

機嫌の良くなった 殿様は 庭に消え残っていた 雪を盤に盛らせて 松の小枝を

それにつきさし

「これは なんじゃ」と 尋ねられた。

ええ着物の娘は 急いで

「盤に さらさらの雪」

と答えた。継子の娘は

「 盤皿や さらちょう山に 雪降りて 雪を根にして 育つ松かな 」と ひとりごとのように詠った。

殿様は「見事じゃ」と 気に入ったそうじゃ。

後日 城から きれいな着物が贈られた。

継子はきれいな着物を着て 立派なかごに乗ってお城へ行かれた。

母は 自分の生んだ子供を なんとかして 城に行かせたいと考えた。

母は考えに考えた。

継子のおぞい着物を着せ 田んぼに 連れて行き 草取りをさせようとした。

しかし 自分の娘は 田のあぜ道で 草取りなどしたくないと言い放つ。

母は無理やり娘を田に入れようとした。手を引っ張ったところ 娘は田に転がった。

母は「あれっ」と驚いて 田の中を探す。

娘はつぼ(たにし)に なってしまった。

 

(恵那市)


こだが橋・・・愛知県宝飯(ほい)郡

2017-10-09 10:03:04 | 各地の民話

こだが橋・・・愛知県宝飯郡

 

旧東海道を豊橋から小坂井の菟足(うたり)神社の近くまでくると、右側に『こだか橋』と書かれた石碑がある。

昔 この近くに橋があった。その橋は菟足神社の風まつりに大事な役目をしていた。

その役目は風祭りの人身御供(いけにえにして 神にそなえる人)をささげて、その年大風が吹かないよう、豊作になるよう 祈るならわしが あった。

そのいけにえになる女をとらえる役は 村人の中から選びだされることになっていた。

この年は八兵衛だった。

風まつりの朝、井戸水で体を洗い清めても どうにも気が進まなかった。

八兵衛はようよう心を決めて、朝もやの中を 村はずれの 橋までやってきた。

どこの誰が 今年のいけにえになるのだろう。

この手で若い女を捕まえにゃならんとは。

朝はだんだん 明るくなってきた。

橋の向こうへ目を向けると 遠くからくる 人影があった。

「村のために 神様に捧げるのじゃ。許してくれ。」

と心に決めて立ち上がった。

ところが、近づいてくる女をよく見ると その若い女は隣村に嫁いだわが娘ではないか。

八兵衛は気も狂わんばかり。

橋を渡らんうちに なんとか 引きかえさせんと この手で とらえにゃならん。

八兵衛は娘に向かって

「ひけ ひきかえせ」と合図した。

父親に気づいた娘は 足を速めて 橋にかかる。

「来ては いかん。渡ってはいかん。」

娘は 何も知らずに 橋を渡り切って

「おひさしゅう ございます。おとっつあん。」

と駆け寄ってきた。

八兵衛は 唇をくるわせながら 娘を見つめるばかりであった。

わが娘を わが手で どうして とらえられよう。

逃がしたい もし 逃がしたら 村に災難がふりかかる。

皆に申し訳ない。

わが子だが 仕方ない。

娘は 父親の真っ青な顔を見て 顔色をかえた。

「あれ おとっつあん どうなされた」

たずねても 父親は おし黙ったまま。

娘は不思議に思って かたわらをみると ひつ(はこのようなもの)をみつける。

「あっ それでは わたしが いけにえに・・・」

八兵衛は心を鬼にして 追いすがり 無理にとらえる。

「ちょうど 通りかかったのが お前の身のさだめ 運命と思ってあきらめてくれ」

「いけにえになって 風神の気をやわらげ 村の豊作を祈ってくれ。」

娘は 言葉もなく うなだれて ぶるぶると 身をふるわせている。

 

無理に逃げれば 父親が村の人に責められる。しかし このままだと いけにえにされる。

娘は途方にくれて その場に泣き崩れた。

 

八兵衛は 魂のぬけた人のように 泣いている娘をひつに入れて 村に帰った。

娘の入ったそのひつは その日 菟足神社の風神様にささげられた。

あとで この話を聞いた村の人たちは 親子を憐れんで それからというもの 誰いうとなく その橋を 『子だが橋』と呼ぶようになった。

愛知県の民話 日本児童文学者協会編 偕成社 

 

 


尻毛三兄妹弟の建て替え大作戦(その11)・・・掘れば宝物が出るか

2017-10-08 22:39:51 | 建て替え大作戦

尻毛三兄妹弟の建て替え大作戦(その11)・・・掘れば宝物が出るか

 

尻毛家の敷地の近くには 北方城跡があります。

 

以下 北方町の教育委員会 発行の資料によると

北方城は伊賀太郎左衛門光就(みつなり)が築城し居城とした。

光就の曽孫 安東伊賀守(いがのかみ)守就(もろなり)は 斎藤氏滅亡後、織田信長に仕え

元亀元年(1570)6月 姉川の合戦 翌年の長嶋一向一揆に参戦し功を立てた。

 しかし、天正8年(1580)嫡子の河渡(現 瑞穂市)城主尚就(なおなり)が甲斐武田と内通したという嫌疑で

信長の勘気を受けたので、守就は北方城を出て 武儀郡谷口村(現 関市)に蟄居した。

 天正10年6月2日 信長が本能寺で明智光秀に討たれると 守就は一族旧臣を集め 北方に入ったが

稲葉一鉄・貞道父子に攻められ、千代母ヶ淵に追い詰められて戦死する。

これを北方合戦と言う。

 江戸時代には 旗本戸田家陣屋になり 奉行役所 代官屋敷等が 並んでいた。

大井神社の南 東西 160メートル 南北340メートルが 北方城跡と 推定されている。

現在の城跡は本丸の一部と考えられている。

我が家の敷地はこの城跡内にあります。

 

建物を新築する場合 「埋蔵文化財包蔵地確認依頼書」を北方町の教育委員会に 提出する。

そして 県の教育委員会に送られる。

新築はその返事待ちであります。

 

拙者は当地から何も出ないと考えましたが、(もしかすると と思いながら) 届出書を提出しました。

(続く)

 

 


旧東海道を歩く・・・御油から吉田へ(その1)・・・子だが橋

2017-10-06 22:35:12 | 旧東海道を歩く

旧東海道を歩く・・・御油から吉田へ(その1)・・・子だが橋

「十里ゆく 女も見えて 春日かな   一瓜」

昔の人は健脚である。 春日のどかにして 旅も快適 女でさえ十里の旅を行く者がいる、の意。

御油から吉田は約三里。十里にははるかに 届かない。

(拙者) 「十里も歩く 健脚の女性がいるそうですよ。半分の五里でも拙者は無理ですよ」

(こもよ氏) 「あちら こちらに 寄り道しますので、 そのような人たちは 我等とは 関係ないですよ。」

(拙者) 「十里女性はおろか 旅人はいませんね。二階から鹿の子の振袖を振る女性は見えませんね。」

(こもよ氏) 「鹿の子の振袖の話は 吉田宿の賑わいを語る話ですよ。まだ吉田は遠いですよ。」

(拙者) 「そうでした。そうでした。まだ遠い。」

暫く歩くと 餅まきを本日1日午後4時からする神社がある。

菟足(うたり)神社である。

この菟足神社に寄り道をする。

まだ 午前中である。餅は欲しいけれど 4時までは待てない。

(拙者) 「兎足神社とは 兎の神社ですか?」

(社務所) 「詳しくは こちらの パンフを見てください。」

(拙者) 「人身御供  猪を生きながらおろす  雀射初 」

    「これは 只ならぬぞ」

(こもよ氏) 「兎はどのように 関係するのですか?」

(社務所) 「詳しくはわかりませんが、 当て字という説もあります。」

     「隣の五社稲荷神社は豊川稲荷よりも格が上ですよ。是非参拝を。」

(拙者) 「それは 初耳でござる。」

こもよ氏も初耳で寄り道をする。

 「正一位」となっている。

参拝するが、露店・土産屋は豊川稲荷が上だと思う。

街道に戻り、歩道のない旧東海道を進むと

子だが橋の碑がある。

 

説明文読めますか。

 

 信じられないことが 書いてありました。

(続く)

 

 

 

 


尻毛三兄妹弟の建て替え大作戦(その10)・・・解体

2017-10-05 23:16:08 | 建て替え大作戦

尻毛三兄妹弟の建て替え大作戦(その10)・・・解体

 

家の解体 長年過ごした家を解体することは 複雑である。

納屋 浴槽 トイレ かまど 床の間 屋根瓦等 家全部を解体する。

柿の木を残す予定であったが、狭い敷地を有効利用するために 妻の助言を聞き、結局 倒してしまった。

倒して 初めて 大変なことを してしまったことに 気づいた。

種だけでも 残そうと 思う。

実を少し残した。 種をきれいに取るために 実が柔らかなるのを待つ。

木には命があったことを・・・ なぜ もっと 大切にしなかったのかと 残念に思う。

更地になって 後戻り 出来ないことを 覚悟する。

2017年9月18日(月)より 9月22日(金) 僅か5日間で家の解体は済んでしまった。

 (続く)